濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

廃墟について

2013-04-28 14:19:18 | Weblog
心に廃墟を感じるときがある。
私の中で、こうした気分はいつごろから生まれてきたものなのか。
振り返れば、カラフトで炭鉱の仕事をして日本に戻ってきた父は、我々子どもを容易に寄せつけない異邦的な感じを漂わせていたが、夜更けに一人で沈黙したまま窓辺で佇んでいる姿は、幼な心に廃墟を胸中に抱いているようにも感じ取られたことに由来するのかもしれない。
虚無にたどりつくためには、生への郷愁(ノスタルジア)がまだ濃厚に残っている──そんな息苦しさから逃れるために、父は窓を少し開け、夜風に当たっていた、そんな気がしないでもない。
やがて一家は廃鉱という状況に追い込まれ、廃鉱の町を離れるわけだが、たまに町を訪れ、赤さびた鉄路が、生い茂る夏草の中に埋もれているのを見たとき、こうした荒廃した光景が、どこかささくれだった気分を鎮め慰めてくれるようにも感じたものだ。

だから、周囲に「滅びの美学」を唱える方がいたり、「何も残さずに消えさりたい」という方がいたりしても、特別の違和感はない。
そういう方々は、ひょっとすると資本主義の退廃の行方を告知しているのかもしれないのだ。
ちなみに「滅ぶ」とは、ほろほろと涙がほおを伝わり、あるいは、ほお骨がほろほろと崩れ去ることを示す擬態語から、一方の「消える」は「気」がなくなることから来た言葉だという説が有力らしい。
あるのかないのか定かならぬ「気」までがなくなるというのだから、そこには感情移入などは許されないのだろう。

いまや「廃墟」がブームにもなっていて、愛好家は廃墟のさまざまな写真を撮っているようだが、時として、使われていた家具や、飾られていた人形などが放置されている写真も見つかることがある。
滅び消えたはずの人々の生活のなまなましい痕跡に出会うことが、文明に飽きた現代人の好奇心をくすぐるのかもしれない。

三井美唄炭鉱変電所跡


我らにとって濃いボルシチは存在するか

2013-04-17 14:22:22 | Weblog
当ブログについて、やんごとなき方から
「濃厚なボルシチを食した気分」
などという有り難いコメントをいただいた。
最近はどうも書物の引用ばかりで、「ヤミ鍋」を水で薄めたような読後感しか得られないのではと危惧していただけに、望外の評価にすっかりうれしくなってしまった。
ということで、今回は張り切って「ボルシチ」についてウンチクを語りたいと思ったのだが、食材のテーブルビートなどについては元よりまったくの門外漢だから、今回は食感として残るであろう「濃さ」にまつわる話題で我慢していただきたい。
さて、「濃さ」の「こ」という有節音には、それが甲類、乙類であるかは抜きにして、「こ(子、小)」をはじめ「こおる」「ここ」「こまやか」「こむ(込む・混む)「こ(凝)る」など、求心的で凝縮するイメージが多く含まれているように思われるが、どうだろうか。
そこで、「濃さ」も「こむ(込む・混む)」や「こ(凝)る」の仲間として考えると、圧縮されて密度が高くなり、そのまま放っておけば、ドロドロに凝固しかねない姿までがイメージされてくるのではないだろうか。
ちなみに手元にある古語辞典には「源氏物語・真木柱」の用例として

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「などてかく灰あひがたき紫を心に深く思ひそめけむ、濃くなり果つまじきにや」(どうしてこう一緒になりがたいあなたを深く思い染めてしまったのでしょう、これ以上深い関係にはなれないのでしょうか)
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とあり、交情の深さや密度を表す言葉としても使われたようだ。

一方、「こくのある酒」などという場合の「こく」も「濃く」から来たようだが、たんなる濃厚さだけではない、言葉に言い表しがたい微妙な感覚(テイストとかクオリア)をもっているという。
そうしたことを微に入り細に入り、説明しているサイトが見つかったのでここで紹介しておこう。

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コク(こく、こく味、濃く、酷)は、英語ではしばしばbodyと表現され、"rich body"で「コクがある」ことを意味します。
また、このことから"richness"(=豊かさ)で、コクそのものを意味する場合もあります。
しかし、ただ「濃度が濃い」だけでは、単に濃いだけで単調な味になってしまい、コクは生まれません。
コクに関する考え方は多様であり、複数の考え方が混在しています。
ただ一つ共通して言えるのは、「コクがある」ということは、十分な濃度感を与え、「おいしい」と感じさせる味であるということでしょう。
コクの要因とその解釈については、以下のようなものがあります。
 1 わずかな苦味や渋みなどの「雑味」が、甘味やうま味に混じることで味を複雑にして、「奥行き」「広がり」を増すことが、コクとして感じられる。
 2 同等の味の強さを持つ味物質でも、その持続性が異なる場合があり、その「味の強さ×持続時間」に応じてコクの強さは変わる。
 3 食品に油を加えたり、とろみを与えたりすることでコクを強めることが出来る
 4 食品に含まれる微粒子や脂質などが、無意識下で感知される微細なテクスチャーとして働くことでコクを生じる。
 5 「継続性・充実感・厚み」を兼ね備えたうま味物質が存在し、これが「こく味物質」としてコクの元となる。
(百珈苑ブログより) 
https://sites.google.com/site/coffeetambe/coffeescience/physiology/taste/body
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要するに、洗練されたオイシイ文章に、苦く渋い人生観などの適度な「雑味」をまじえて、いかに「継続性・充実感・厚み」を獲得できるかということであり、これはもう人ごとではない、当ブログの作成要領にもぜひ加えておきたい一節になる。
大いにがんばりたい。

顔の根源とその行方

2013-04-14 14:01:48 | Weblog
前回の「家族の脆弱性」でみたように、レヴィナスにとっては、(他者の)顔こそ、「なんじ殺すなかれ」というメッセージを発してくる倫理性の基盤だということである。
ここから、次のような解剖医の回想が思い出されてくる。

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解剖の作業に入ってしまうと対象を人間と実感している状態は意外に乏しいのです。
四ヶ月間の実習の中で、人間を強く感じる時が三回あります。
一回目は初日で、解剖台の上のご遺体を前にした時。
私たちはこの時間をとても大切にしています。
ご遺体にメスを入れて皮膚を外していくと、いつの間にか人間が消えています。
あとは物体の操作になり、内臓なんかがつぎつぎ現れます。
首より下の方が終ると今度は顔を解剖させていただくのですが、覆いをのけた時、また人間を強く感じます。
首から下を隠して顔だけ見ると人間で、首を隠すと物体というとても奇妙な感覚です。
(坂井建雄「生命誌ジャーナル [解剖学の歴史] 中村桂子との対談」)
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解剖医にとって、顔とは、たとえ死体であっても人間を認識させる最大のアイテムということになるのだろうが、こうした顔の特権はどこから発生してくるのか。
人間誕生の段階から考えてみよう。

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子供がまず生き物として対面するのは、母体の乳房であり、視覚的には乳房の真ん中の乳首である。
次いで同時に対面することになる母親の顔、目、鼻、口なのである。
まだ顔ではないが、何か顔のような、凹凸のある平面に、赤ん坊はむかいあう。
突起や凹凸のある一様な平面は、幼児にとって最初のイメージであり意味なのだ。
そして幼児は、言語を習得する以前に、もう自分に授乳する人の顔の表情を見分け、読み始める。
顔に出会うことと、言語を獲得することは、おそらく切り離せない。(宇野邦一「ドゥルーズ」)
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赤ん坊が最初に対面するのはたしかに母の顔である。
ただし、吉本隆明が指摘するように、「幼児は母親の胎内から分割されたときから、まず自己の〈身体〉と他者の〈身体〉との区別がつかない状態で環界にさらされる」から、最初は、自分の顔と母の顔との区別ができているわけではなく、生命感覚の芽生えのなかで、語りかけ、栄養を与えてくれる「その顔」を直視するしかないわけだ。
ここから、(自己=他者の)顔を倫理性や超越性の根源とすることもたやすく理解されるだろう。
それは、かけがえのない自分でもあり、なおかつ異邦的なものでもあるから、生々しく、絶対的な存在だということになる。
そして、こうした有機的感情を失いつつあるのが現代だという見取り図も得られてくるのではないだろうか。
フェイスブックに利用されるのは、情報ツールへと還元されてしまった擬似的な顔でしかない。