骨折した元義母を娘とともに病院に見舞うことにした。
娘の話によると「おかあさんもこの病院で息を引き取った」というから、不思議な巡り合わせで、紆余曲折の歳月を経て、昔の家族が再会することになったわけだ。
元義母は端整な顔立ちのまま、意外に元気そうな表情でベッドから上半身を起こして迎えてくれたので、ひとまず安心した。
手術の経過も順調で、すでに歩行訓練をし始めているらしいが、金属製のボルトという異物を股関節に入れているため、やはり動かすたびに痛みが走るという。
そのボルトはいずれは摘出したほうがいいらしいのだが、年齢を考えるとどうなのだろうか。
形式ばかりのねぎらいの言葉を交わして、早々に退室することにしたが、そういえば、私もバイパス手術を終えた後、体に異物感を覚えた記憶がある。
私の場合は、自分の足の血管を心臓にコンバートしただけの「自家移植」だから、異物感というほど大げさなものではないのだろうが、それでも自分のアイデンティティが微妙に揺らぐのを感じたものだ。
ここで、唐突ながら、心臓移植について触れておこう。
患者(レシピエント)は性も民族も年齢もまったく明かされない見知らぬ脳死者(ドナー)の心臓を移植されるわけだが、そのとき、人格的な変容をもたらされることもあるという。
レシピエントであるフランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーの貴重な発言を紹介しておく。
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この贈与(=臓器の提供)が、人間にとっての基本的義務になったというのは疑いえないことだし、それが血液型の不適合という以外の何の限定もなく(とりわけ、性的、あるいは人種的な限定はなく、そのためわたしの心臓は黒人女性のものであるかもしれない)、生/死が分かち合われるネットワーク、生が死と接合され、通い合うことのできないものが通い合うネットワークというものの可能性を、万人の間に設定したということも疑いえない。
(中略)
わたしを治癒させるものが、わたしを害し、あるいは感染させ、わたしを生きさせるものが、時満たずわたしを老いさせるのだ。
……わたしは病気でかつ医学であり、わたしはガン細胞で移植臓器であり、わたしは免疫抑制剤でかつその緩和剤であり、わたしは自分の胸骨をとめる針金の切れ端であり、わたしは鎖骨の下に恒常的に縫い合わされた注入部位である。
それに、以前は、腰のこのネジであり、腋のこの板だった。わたしはSFに出てくるアンドロイドのようなものになり、あるいは、わたしのいちばん下の息子がある日言ったように、生きた死人になる。
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ここでは、他者(脳死者)の臓器の進入によって、もはや
「わたし(の身体)」=「わたし」
という統一感がもてなくなったときの心境が語られている。
ご存じのように、免疫作用は、自分でないものを排除しようとするから、臓器移植においては、それを免疫抑制剤で食い止めなければならず、
「見知らぬ死者の臓器」=「わたし」
という受容まで強いられることになる。
ここで、もう一つ、「臓器移植」というよりは「臓器増殖」ともいうべき妊娠の構造について考えてみたい。
妊娠も、母体からすれば、他者(胎児)が侵入し、増長する現象だとも考えられるが、そのとき、母体では、異物を拒絶するはずの免疫作用が「トレランス(寛容)」という天の配剤のために抑制されてしまうのだ。
そればかりか、母体は
「わたし」=「あなた(胎児)」
という未来への希望を伴った母子一体感さえ味わうことが出来るのだ。
当面は、医学の発展に驚くよりも、自然の奥深いマジックに敬意を表すべきかもしれない。
娘の話によると「おかあさんもこの病院で息を引き取った」というから、不思議な巡り合わせで、紆余曲折の歳月を経て、昔の家族が再会することになったわけだ。
元義母は端整な顔立ちのまま、意外に元気そうな表情でベッドから上半身を起こして迎えてくれたので、ひとまず安心した。
手術の経過も順調で、すでに歩行訓練をし始めているらしいが、金属製のボルトという異物を股関節に入れているため、やはり動かすたびに痛みが走るという。
そのボルトはいずれは摘出したほうがいいらしいのだが、年齢を考えるとどうなのだろうか。
形式ばかりのねぎらいの言葉を交わして、早々に退室することにしたが、そういえば、私もバイパス手術を終えた後、体に異物感を覚えた記憶がある。
私の場合は、自分の足の血管を心臓にコンバートしただけの「自家移植」だから、異物感というほど大げさなものではないのだろうが、それでも自分のアイデンティティが微妙に揺らぐのを感じたものだ。
ここで、唐突ながら、心臓移植について触れておこう。
患者(レシピエント)は性も民族も年齢もまったく明かされない見知らぬ脳死者(ドナー)の心臓を移植されるわけだが、そのとき、人格的な変容をもたらされることもあるという。
レシピエントであるフランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーの貴重な発言を紹介しておく。
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この贈与(=臓器の提供)が、人間にとっての基本的義務になったというのは疑いえないことだし、それが血液型の不適合という以外の何の限定もなく(とりわけ、性的、あるいは人種的な限定はなく、そのためわたしの心臓は黒人女性のものであるかもしれない)、生/死が分かち合われるネットワーク、生が死と接合され、通い合うことのできないものが通い合うネットワークというものの可能性を、万人の間に設定したということも疑いえない。
(中略)
わたしを治癒させるものが、わたしを害し、あるいは感染させ、わたしを生きさせるものが、時満たずわたしを老いさせるのだ。
……わたしは病気でかつ医学であり、わたしはガン細胞で移植臓器であり、わたしは免疫抑制剤でかつその緩和剤であり、わたしは自分の胸骨をとめる針金の切れ端であり、わたしは鎖骨の下に恒常的に縫い合わされた注入部位である。
それに、以前は、腰のこのネジであり、腋のこの板だった。わたしはSFに出てくるアンドロイドのようなものになり、あるいは、わたしのいちばん下の息子がある日言ったように、生きた死人になる。
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ここでは、他者(脳死者)の臓器の進入によって、もはや
「わたし(の身体)」=「わたし」
という統一感がもてなくなったときの心境が語られている。
ご存じのように、免疫作用は、自分でないものを排除しようとするから、臓器移植においては、それを免疫抑制剤で食い止めなければならず、
「見知らぬ死者の臓器」=「わたし」
という受容まで強いられることになる。
ここで、もう一つ、「臓器移植」というよりは「臓器増殖」ともいうべき妊娠の構造について考えてみたい。
妊娠も、母体からすれば、他者(胎児)が侵入し、増長する現象だとも考えられるが、そのとき、母体では、異物を拒絶するはずの免疫作用が「トレランス(寛容)」という天の配剤のために抑制されてしまうのだ。
そればかりか、母体は
「わたし」=「あなた(胎児)」
という未来への希望を伴った母子一体感さえ味わうことが出来るのだ。
当面は、医学の発展に驚くよりも、自然の奥深いマジックに敬意を表すべきかもしれない。