終戦記念日も過ぎたが、一方ではオリンピック選手の凱旋パレードがあり、また一方では、日本周辺の島々をめぐる領土問題が騒がしくなるなど、いやでも日本のナショナリズムについて考えさせられることの多い今年の夏である。
ここで少し目を転じて、ベトナム戦争後のことを振り返った二人の精神科医(高岡健、石川憲彦)の対談をみてみよう。
高岡は、重い肉体的被害を被ったベトナム兵に比べて、アメリカ帰還兵が多くPTSDを煩ったことについて、アメリカ軍兵士たちはベトナム兵のように英雄視されることなく、彼らの誇りが徹底的に奪われてしまったことが、発症の一番重要な要素ではないかと指摘をする。
それに対して、石川は次のように語っている。(「心の病いはこうしてつくられる」)
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ベトナム帰還兵はベトナム戦争の戦中神経症というのはなくて帰国神経症という側面が強いですね。
ベトナムから帰って平和なアメリカのなかで生活するわけです。
そうしたなかで戦った自分を自己肯定化するためには、勝利ないし誇りがなければいけなかったわけですね。
一方、ベトナムでは人民の勝利と誇りはありますが、それ以上に人々は等しく傷ついたという共感の共有があると思うのです。
アメリカ兵には、平和なアメリカからあの地獄のような戦場へ赴き、帰還兵は勝利も誇りもなく平和なアメリカに帰るという、まさに凄まじい解離があるわけですね。
私は、同じようなことをオウム真理教徒による一連の事件のことで感じた。
日本人は、洗脳されたオウム真理教徒と同じ状況を第二次大戦で経験して共有していたはずです。
戦争という非常時の状況下だったということで、多くの日本人は戦争責任として自己批判することで許されるわけですけれども、オウム真理教から脱会していく人たちは今でも許されることのないまま、ものすごく苦しんでいるわけです。
脱会して10年経っても続く大きな苦しみで、解離的症状を抱えている人がいます。
ベトナム戦争の後も、長期にわたって解離症状のある人はそんなに多くはいなかった。
社会が否定している価値のために、そうした解離症状が長期化しているのだと思います。
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要するに、PTSDや解離のような心の傷の場合、周囲や社会がどう評価するかが、回復の大きなポイントになるということだ。
戦時中は日本の愛国精神に洗脳され、それを後で自己批判した多くの日本人が、オウム真理教から脱会していく人たちを許さないでいる。
なにも脱会者に全面的に共感し、彼らの生き方を肯定せよというのではない。
過去に似た幻想にとらわれて自己批判した人間(の子孫)として、その痛みを多少なりとも感じながら、脱会者と接していくべきだ、というまでである。
さらに、こうした現象は薬物依存にも共通するとして、石川は次のように主張する。
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病気であるという負の価値から解放されようとして病気を治すために薬を飲むという、否定構造がまずあるわけです。
しかし、もしこれだけ、しんどい病を抱えながら頑張って生きていくという姿勢に対する共感や肯定性があったなら、(医師は)薬の処方はしない場合が多いだろうと思いますね。
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従来、微細な精神的失調が見られる多少やっかいな性格が、いまや〈精神障害〉として立派な病気として把握される(=医療化)ことに対する焦りが薬物依存を加速する。
だが、どんな性格の持ち主であれ、人はみな死に向かって生き、そして苦しむ存在であることに変わりない。
こうした見方こそ共感や肯定性を生み出す源泉となるだろう。
それは彼らにどんなクスリにも増して、自分に対する誇りを植え付けていくだろう。
偏狭なレッテル貼りにまどわされない広大無辺の絆が必要とされているようにも思う。
ここで少し目を転じて、ベトナム戦争後のことを振り返った二人の精神科医(高岡健、石川憲彦)の対談をみてみよう。
高岡は、重い肉体的被害を被ったベトナム兵に比べて、アメリカ帰還兵が多くPTSDを煩ったことについて、アメリカ軍兵士たちはベトナム兵のように英雄視されることなく、彼らの誇りが徹底的に奪われてしまったことが、発症の一番重要な要素ではないかと指摘をする。
それに対して、石川は次のように語っている。(「心の病いはこうしてつくられる」)
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ベトナム帰還兵はベトナム戦争の戦中神経症というのはなくて帰国神経症という側面が強いですね。
ベトナムから帰って平和なアメリカのなかで生活するわけです。
そうしたなかで戦った自分を自己肯定化するためには、勝利ないし誇りがなければいけなかったわけですね。
一方、ベトナムでは人民の勝利と誇りはありますが、それ以上に人々は等しく傷ついたという共感の共有があると思うのです。
アメリカ兵には、平和なアメリカからあの地獄のような戦場へ赴き、帰還兵は勝利も誇りもなく平和なアメリカに帰るという、まさに凄まじい解離があるわけですね。
私は、同じようなことをオウム真理教徒による一連の事件のことで感じた。
日本人は、洗脳されたオウム真理教徒と同じ状況を第二次大戦で経験して共有していたはずです。
戦争という非常時の状況下だったということで、多くの日本人は戦争責任として自己批判することで許されるわけですけれども、オウム真理教から脱会していく人たちは今でも許されることのないまま、ものすごく苦しんでいるわけです。
脱会して10年経っても続く大きな苦しみで、解離的症状を抱えている人がいます。
ベトナム戦争の後も、長期にわたって解離症状のある人はそんなに多くはいなかった。
社会が否定している価値のために、そうした解離症状が長期化しているのだと思います。
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要するに、PTSDや解離のような心の傷の場合、周囲や社会がどう評価するかが、回復の大きなポイントになるということだ。
戦時中は日本の愛国精神に洗脳され、それを後で自己批判した多くの日本人が、オウム真理教から脱会していく人たちを許さないでいる。
なにも脱会者に全面的に共感し、彼らの生き方を肯定せよというのではない。
過去に似た幻想にとらわれて自己批判した人間(の子孫)として、その痛みを多少なりとも感じながら、脱会者と接していくべきだ、というまでである。
さらに、こうした現象は薬物依存にも共通するとして、石川は次のように主張する。
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病気であるという負の価値から解放されようとして病気を治すために薬を飲むという、否定構造がまずあるわけです。
しかし、もしこれだけ、しんどい病を抱えながら頑張って生きていくという姿勢に対する共感や肯定性があったなら、(医師は)薬の処方はしない場合が多いだろうと思いますね。
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従来、微細な精神的失調が見られる多少やっかいな性格が、いまや〈精神障害〉として立派な病気として把握される(=医療化)ことに対する焦りが薬物依存を加速する。
だが、どんな性格の持ち主であれ、人はみな死に向かって生き、そして苦しむ存在であることに変わりない。
こうした見方こそ共感や肯定性を生み出す源泉となるだろう。
それは彼らにどんなクスリにも増して、自分に対する誇りを植え付けていくだろう。
偏狭なレッテル貼りにまどわされない広大無辺の絆が必要とされているようにも思う。