濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

GO GO! 介護3 リハビリへ

2013-07-06 09:47:50 | Weblog
娘からの呼び出しの電話が絶えない。
やはり、慣れないことだから、行政、介護施設、病院それぞれのスタッフと一人だけで渡り合うことは心細く荷が重いのだろう。
しかも、孫一人で祖父祖母の二人を世話しなければならないという重圧、いずれ日本人が直面する高齢社会の近未来を前倒しで体験しているようでもある。
早く職場復帰したいという娘の願いを最優先に考え、全面的にバックアップすることにした。
私の中に、あるいは、どうにもならない人をどうすることもしなかったことの不甲斐なさを打ち消すため、という意味もあるのかもしれない。

先日は元義母の転院先を決める手続きをした。
湘南の海岸近くのリハビリ中心の病院だが、病院というイメージとは大きく異なり、高齢者用の瀟洒なホテルといった印象が強い。
事実、高層階は小規模な老人ホームにもなっているという。
昔は結核患者を入れていたサナトリウムだったということで、どこかそうした雰囲気をいまでも漂わせている。
当日は担当の看護師からの説明を受け、病室や施設の見学をしたが、リハビリ室には、理学療法士、作業療法士が患者の歩行訓練やマッサージを受け持っている。
たえず、病院は満床状態だが、それでも退院者の数と入院者、転院者との数が見合っているということで、比較的のんびりした時間が流れている。
これが十年もたち、我々が世話になる頃には、たぶん需要の数が供給を上回って、患者があふれかえり、混雑しているだろう姿が容易に想像される。

ところで、リハビリの語源はラテン語の「ハビリス(=人間にふさわしい)」から来ており、
「単に機能回復のみならず、人間全体の価値または人間の尊厳の復帰まで含めた広範囲の視点にたって行われる」
ものだという。
とすれば、私もすでに治療を受ける資格が十分にありそうで、いや現代人の多くが精神的リハビリの対象となってしまうかもしれない。

リハビリ室で、懸命になおすこと、なおされることに向けて努力している人々の姿を眺めるうちに、リハビリの対象にさえ入らない患者もいることに想像が及んだ。

「なおすことが仕事であり仕事の価値であるなら、なおらないことは無価値であったり価値の否定でありうる。
そこから<意味のない延命>という言葉までの距離は比較的近い」(立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」)

ALSは現在のところ、なおらない病気であり、人工呼吸器をつけるか否かの選択しかない状況に追い込まれる。
それは現代的な価値観からすれば、<意味のない延命>ということになるのだろう。
先日、医学部志望者に対して授業でアンケートをとったところ、安楽死を容認する者が否定する者をはるかに超えていた。
なんとも殺伐とした時代状況を迎えそうな予感がする。
段ボールの棺を用意して、その中で眠るように死にたいという友人の言葉が思い起こされてきた。

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