濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

疑惑の80年代(3)

2008-03-22 21:31:18 | Weblog
なにか/鈍器ようのもの/鈍器ようのものがあればよい、そう考えてました/
りょうてで/ちからいっぱいにこめ/うちおろす/帰宅した男は膝のあたりから崩れ折れる/
後頭部を押えて/ゆびのまたからも血が湧いて/手首の方向へながれおちる/
イタイイタイと泣くでしょう/からだを折りまげて胎児のかたちになり/
わたしからのがれようとするでしょう/しっかりと人間の血、ぬくいです、/脈うってぬくいです(後略)
 
これは、近年、夫を殺害しバラバラに切断した妻の手記ではない。また、それに触発されて書かれた小説の一節などでもない。80年代に活躍しはじめた詩人、伊藤比呂美の詩「青梅が黄熟する」の一節である。

これについては、吉本隆明が『マスイメージ論』(84年刊)で

女性の本質的願望である<男殺し>の夢が見事に表現されている

と高く評価し、その理由について、「現在というものの全体的な暗喩の場所で、言葉が押し出されているから」としている。そして、その暗喩するものとは

女性が<男性に伍して>ではなく、<男性の位置にとって代って>、現在の真向かいに立つ姿勢

だという。つまり、80年代の男女関係の新しいダイナミズム、女性上位時代の到来をイメージとして生々しく定着させたのが、先の詩だということになるだろう。
たしかに、80年代は、女性の社会的自由の範囲が急速に拡大した時代である。若い女性は「アンアン」や「ノンノ」などの雑誌を片手に「おいしい生活」を探し、「金曜日の妻たち」は東急田園都市線の街々を出会いを求めて彷徨しはじめる。さらに、86年には男女雇用機会均等法が施行されることにもなる。
だが、高崎真規子は『少女たちの性はなぜ空虚になったか』(NHK新書)の中で

女性たちは、突然手にした、セックスや恋愛やいろんな自由を上手に使いこなしていなかった。そして男のほうも、女ってものをどう扱えばいいのか、実は途方に暮れていたらしい

と述べており、こうした感想の方が一般の実状に近いのではないかと思う。
余談ながら「途方に暮れて」しまった男の安易な行先の一つは、きっと現在の「おねえマンズ」だったりするのだろう。いずれにせよ、可能性を求める女性の試行錯誤はようやく始まったばかりだから、「男はつらいよ」の傾向もまだまだ続きそうだと、私は予想している。
ところで、想像をたくましくすれば、三浦元社長なども80年代の新しい男女の光景にどこかしら危うさやスキがあるのを感じたからこそ、妻の救出を必死で行うという一時代前の美談めいた芝居で世を惑わせようとしたのかも知れない。

疑惑の80年代(2)

2008-03-14 18:23:50 | Weblog
ロス疑惑事件のその後といえば、サイパンのイケメン弁護士、女性判事、ロスのセレブ御用達の辣腕弁護士、日本在住のボランティア米国人弁護士、さらには脇役としてシュワルツネッガー知事など、ユニークな役者も多くそろってきたが、犯罪に関わる人間がもう2、3人登場してこないと本当は盛り上がらないようにも思われるがどうだろうか。今回は、ロス移送をめぐって動きが膠着している幕間の時間を利用して、事件の起きた80年代の表層的な雰囲気といったものをおさらいしておこう。

任天堂がファミコンを発売し、東京ディズニーランドが開園したのが1983年である。前回のブログで紹介した水無田気流は、塾の遠足でディズニーランドに行くバスの車中、「園内のショップでは値札を裏返しにしてある」というバスガイドの説明を聞き、

それって、値段を分からなくさせて、財布の紐をゆるめさせようってことじゃないのと、はしゃぐ友人たちを横目に、私は一人ぶつぶついう女子中学生だった

と回想している。確かに、当時を振り返れば、パルコの「不思議大好き」というコピーに象徴されるように、日本人の多くは、〈疑似現実〉のもたらす不思議な世界を目にして、浮き足立っていたようにも思われる。
かくいう我が家でも、ディズニーランドに行く前の夜ともなれば、子供より親のほうが興奮していた光景がよみがえってくる。(別な言い方をすれば、高度成長社会の頂点で、次に何をすればいいか、とまどい始めていたのかもしれないが。)
いずれにせよ、〈疑似現実〉的な事象の列に、ロス疑惑事件、さらには豊田商事事件、グリコ・森永事件などを改めて並べてみると、いずれもぴったり当てはまってしまうのである。
だから、こうした時代に対し、鮎川信夫が『疑似現実の神話はがし』の中で

シャドウ・エグジスタンス(=疑似現実)の方ばかり問題にされて、サブスタンス(=現実、実体)の方は置き去りにされてはいないだろうか。

と違和を申し立てても、それは「老いの繰り言」としてしか受け取られなかっただろう。
だが、その後のインターネットの普及、ゲノム解析やナノテクノロジーの発達、さらには地球温暖化によって、〈現実〉が〈疑似現実〉以上に「不思議」でスリルに満ちたものであることを自覚せざるをえなくなったのが現代だといえないだろうか。
さらには、80年代初頭に、「小さな政府」「規制緩和」を合い言葉にしたレーガノミックス政策が提出されていたことを考えれば、今日の格差社会の基盤もじつはすでにこの頃から用意されていたのである。いまや現代人は、

「ウォルト・ディズニーはおそらく、世界じゅうの精神科医が治療したよりも多くの悩める心を癒した」(エリック・セパレード)

などという確信に満ちた言葉をあてにすることもできず、多くのイジメや引きこもりの子供たちを目の前にして、立ち往生しているようにも見える。