濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

入退院記(1)

2014-10-24 14:36:29 | Weblog
まずは、しばらくの間、更新できなかったことをおわびする。
不覚にもまた入院してしまったのだ(現在は無事退院)。
マルクスの言うように、確かに「二度目は茶番」である。
前回の場合、心肺停止の無意識状態からの奇跡の復活に伴う高揚感があったのだが、今回は意識が鮮明であるだけ、強運の持ち主であることに慢心していた自分に対する苦い反省や病院への不満が募ることになった。
経緯は次のようになる。
とある日、胸やけに似た違和感を覚え、歩くとき普段より少し息苦しさを覚えた自分は、ちょうど定期診断の日を迎えたため、ごく軽い気持ちで外来に赴き、主治医に症状を訴えた。
念のため、心電図を調べてみると、かなり波形が乱れているという。
すぐに救命救急の医師が呼ばれ、何の準備もできていないにもかかわらず、すぐに入院だと言われてしまった。
徒然草の言葉「いのちは人をまつものかは」が彼らのモットーなのだろう。
とはいえ、仕事の関係上、いろいろ連絡を取らなければならないのだが、患者からの電話連絡が集中治療室ではままならず、知人、友人の手をわずらわせることになってしまった。
ちょうど、病院は一斉に電子カルテの導入に踏み切ったところで、そのしわ寄せはIT機器操作に不慣れな看護師たちがかぶることになる。
患者の枕元でも、深夜に、看護師のパソコンのキーボードを叩く音がせわしなく聞こえるてくる。
「患者中心の医療」が叫ばれて久しいが、これでは封鎖的空間での「患者データ中心の医療」にすぎなくなる。
患者のことなら、心拍数などのバイタルデータの動きを刻々と映すモニターを見ればいいというわけだ。
精神的厚みを含め、三次元の人間であるはずの自分が、急にベッドの上で二次元に平面化されてしまったような気がしてくる。

「現代哲学の真理論」で、松井邦子は、人生や生活の不安など、医科学的認識だけではとらえきれない患者の病気を「病(やまい)」としたうえで

少なくとも現代医療は、医科学を背景にした「治療のための複合的な組織を含めた専門技術体系」であり、患者が「病気」に直面する場は専門技術体系の複合的組織のひとつである医療機関である。
(中略)
患者が捉える「病」は、「病気」に切り詰められてしまう。


と述べている。
医師たちが患者の「病気」の治療に本格的に取り組めば取り組むほど、患者の心や生活は疎外されてしまうという矛盾を抱えている一面もあるのだ。
こうした点では、聖路加国際病院の日野原老翁の医師としての態度はやはり評価するに十分だろう。
同病院の院長、福井次矢は次のように自分の研修医時代を回想している。

日野原先生の回診は、研修医の間で“泣くまで質問する”との噂が流れるほど、非常に厳しい勉強の場だったのです。
あるとき、私の受け持った患者さんについて日野原先生に診てもらうことになりました。
その患者さんは、心不全という「心臓の収縮が不十分にしかできない病気」にかかっていましたが、徐々に快方に向かっていました。
私の説明を聞き、その患者さんを診た日野原先生が私にぶつけてきた質問は次のようなものでした。
「この患者さんはどこに住んでいますか? 何階に住んでいるのですか?」
これには驚きました。
一生懸命、患者さんの身体や病気のことは勉強したけれど、どこに住んでいるかは患者さんにきかなかったからです。
日野原先生は続けて言いました。
「患者さんの住んでいるアパートにはエレベーターがありますか? 階段しかないのですか?」
つまり先生は、現在の症状から見て、患者さんはまもなく退院する。
「退院したら患者さんは日常生活で階段を上がる必要があるのか」「階段を使うのであれば何階まで上がるのか」「それを考えた上で退院のタイミングを決めているのか」を尋ねていたのです。
医者は、患者さんの病気や治療に関わるすべての情報を把握し、その意味を理解しておかなくてならないことを痛感した瞬間でした。

コメント (2)
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