過日、家庭園芸を趣味とする方に案内されて薬用植物園を訪れた。
園内を散策するうちに、標識に書かれた説明から、よく耳にする植物が思いがけず薬草としても用いられていたことを知り、古来からの人間の知恵といったものに思いが及んだ。
もちろん、胃に飲み込んだ体毛をはき出すために、ネコも草を食べるというから、それは「動物の智恵」といったほうが正確なのかもしれないのだが。
そして、その多くが薬効を示す反面、有毒なものでもあるということに、植物の言いしれぬ奥深さや二面性といったものが感じられてきた。
さて、他に訪ねる者もいない冬枯れの園内はまさに貸し切り状態で、聞こえてくるものといえば、いかにも冬らしい乾いた葉音と澄んだ空気に響く鳥のさえずりぐらいのものである。
あわただしい年の暮れ、都会の喧噪から離れ、静寂の中でひとときを過ごすというのも、なかなか贅沢なことのように思われてくる。
前回にも触れたが、廃墟に似て、何の見栄えもしない荒涼とした冬の植物たちに囲まれていることに、なにがしか魅力を感じるのはなぜだろうか、別な角度から考えてみたい。
解剖学者の三木成夫は植物の特徴として、一つには大地に深く根をおろし、天に向かってそのからだを伸ばしきった姿勢が、地球の球心を貫く力線(「形態極性」)にみごとに対応していること、もう一つには萌え出る春、夏草、稔りの秋、そして冬枯れという典型的な生活曲線の中に、地球の持つ「運動極性」とみごとに一致した生の姿が示されていることの二点を挙げたうえで、
動物のように、感覚と運動にたずさわる装置をなにひとつ持たない、いいかえれば完全に“熟眠状態”のかれらが、死滅から免れているのは、このように大自然と密接に聯関して生を営み続ける、その生得の性能によるものと思われる。
と、そのしたたかなあり方について分析を加えている。
とすれば、我々は、煩悩多き日々の動物的な生活を脱して、「大自然と密接に聯関して生を営み続ける」植物と同期(シンクロナイズ)するとき、大自然に抱かれているような慰安を得て、そこに魅力を見出しているのではないだろうか。
そして、冬はやがて来る春を必ず用意し、植物もそれに従う。だからこそ、晩年の西郷隆盛は
雪に耐えて、梅花麗し
と唱えることができたのだ。
さらに、いささか性急ではあるが春の訪れが近づくと、こんな情景──京都の染料研究家とその恋人が織りなす愛の模様──が描かれることにもなる。
梅林は早春の陽の下でぬくもっていた。六十歳を過ぎた持主は近隣の農家の人で、不用の梅を抜き取り、また枝下ろしをするのだった。裸木に見える枝には固い蕾(つぼみ)が密着していて、蕾をひらくと紅を含んでいた。また伐り落した枝の口にも紅がにじんでいて、圭子には思いがけなかった。梅はその全身で花咲く日を待っていたと思うと、植物の生のいとなみに感動せずにいられなかった。彼女が切口の紅を見せると、泰男も頷(うなず)いた。
「植物のいのちが色に溜(た)められてゆくから、咲き燃えするはずだ」(芝木好子「貝紫幻想」)
ところで、植物の葉にはかすかな匂いもあるらしい。
今回、植物園を案内された方はさかんに葉をちぎって、その匂いをかいでおられたが、植物のいのちは色と匂いの二つに溜められているということなのかもしれない。
それでは、いのちの新しい色と匂いが読者の皆様にも加わることを祈って、本年のブログを終えることにしたい。
園内を散策するうちに、標識に書かれた説明から、よく耳にする植物が思いがけず薬草としても用いられていたことを知り、古来からの人間の知恵といったものに思いが及んだ。
もちろん、胃に飲み込んだ体毛をはき出すために、ネコも草を食べるというから、それは「動物の智恵」といったほうが正確なのかもしれないのだが。
そして、その多くが薬効を示す反面、有毒なものでもあるということに、植物の言いしれぬ奥深さや二面性といったものが感じられてきた。
さて、他に訪ねる者もいない冬枯れの園内はまさに貸し切り状態で、聞こえてくるものといえば、いかにも冬らしい乾いた葉音と澄んだ空気に響く鳥のさえずりぐらいのものである。
あわただしい年の暮れ、都会の喧噪から離れ、静寂の中でひとときを過ごすというのも、なかなか贅沢なことのように思われてくる。
前回にも触れたが、廃墟に似て、何の見栄えもしない荒涼とした冬の植物たちに囲まれていることに、なにがしか魅力を感じるのはなぜだろうか、別な角度から考えてみたい。
解剖学者の三木成夫は植物の特徴として、一つには大地に深く根をおろし、天に向かってそのからだを伸ばしきった姿勢が、地球の球心を貫く力線(「形態極性」)にみごとに対応していること、もう一つには萌え出る春、夏草、稔りの秋、そして冬枯れという典型的な生活曲線の中に、地球の持つ「運動極性」とみごとに一致した生の姿が示されていることの二点を挙げたうえで、
動物のように、感覚と運動にたずさわる装置をなにひとつ持たない、いいかえれば完全に“熟眠状態”のかれらが、死滅から免れているのは、このように大自然と密接に聯関して生を営み続ける、その生得の性能によるものと思われる。
と、そのしたたかなあり方について分析を加えている。
とすれば、我々は、煩悩多き日々の動物的な生活を脱して、「大自然と密接に聯関して生を営み続ける」植物と同期(シンクロナイズ)するとき、大自然に抱かれているような慰安を得て、そこに魅力を見出しているのではないだろうか。
そして、冬はやがて来る春を必ず用意し、植物もそれに従う。だからこそ、晩年の西郷隆盛は
雪に耐えて、梅花麗し
と唱えることができたのだ。
さらに、いささか性急ではあるが春の訪れが近づくと、こんな情景──京都の染料研究家とその恋人が織りなす愛の模様──が描かれることにもなる。
梅林は早春の陽の下でぬくもっていた。六十歳を過ぎた持主は近隣の農家の人で、不用の梅を抜き取り、また枝下ろしをするのだった。裸木に見える枝には固い蕾(つぼみ)が密着していて、蕾をひらくと紅を含んでいた。また伐り落した枝の口にも紅がにじんでいて、圭子には思いがけなかった。梅はその全身で花咲く日を待っていたと思うと、植物の生のいとなみに感動せずにいられなかった。彼女が切口の紅を見せると、泰男も頷(うなず)いた。
「植物のいのちが色に溜(た)められてゆくから、咲き燃えするはずだ」(芝木好子「貝紫幻想」)
ところで、植物の葉にはかすかな匂いもあるらしい。
今回、植物園を案内された方はさかんに葉をちぎって、その匂いをかいでおられたが、植物のいのちは色と匂いの二つに溜められているということなのかもしれない。
それでは、いのちの新しい色と匂いが読者の皆様にも加わることを祈って、本年のブログを終えることにしたい。