濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

瓦礫の中の花

2011-10-15 20:35:17 | Weblog
母の納骨も無事済ませてきた。
「悪い人ではなかった」という母の父に対する思いを尊重して、同じ墓に埋葬することにした。
じつは、この母の言葉をさる女性に伝えたところ、
「照れ半分のすてきなお言葉ではないでしょうか。それとも全部照れかもしれませんね。」
という予想だにしない返事が返ってきて、こちらまでも照れくさい気分になってしまった。
口論の絶えなかった父と母だが、ようやく元のサヤにおさまって、狭いながらも第二の「愛の巣」で、水入らずの来世ということになるのかもしれない。
納骨の日は、本当は母の思い出でいっぱいになるかと思ったが、相変わらず、淡泊でいる自分がいささか、いぶかしく感じられた。

所変わって、先日、予備校の講義でのことである。
脳死のことなど、ハードボイルドなタッチで説明していたときである。
とある女生徒が急にさめざめと泣き始めた。
休憩時間にその理由を聞いてみると、急に母親の死が想像されてきて、悲しくなったとのことだった。
まさか、私の想念に感応したせいでもあるまいと思いつつ、母親が病気でもされているのかと彼女にたずねると、
とんでもない、元気で祖母の介護をしているとのことだった。
小生の場合、母親の衰弱したここ数年は別にして、母親の死を想像した試しなどなかったから、驚きである。
やはり、娘と母親とのきずなの強さは、男にはうかがい知れぬものがあるのだろう。
それとも小野小町に「花の色は移りにけりな」の歌があるように、
女性の方が生命の衰微についての感覚が敏感で、運命の行方を透視する能力にたけているからなのだろうか。
そういう点では、やはり女性の直感は恐ろしいものである。

以上、我が心も瓦礫だらけの荒野ではあるが、幾分余裕ができて、折々のつまらぬ記憶の一節を書きとめておくことにした。

ここでたまにYoutubeからおすすめの一曲を。
madredeus のcoisas pequenas(ちいさきもの)
何ともポルトガル風の哀愁に満ちた唄であるが、瓦礫に咲く一輪の花のように美しく響く。





リスクまみれ

2011-10-06 20:04:57 | Weblog
吉本隆明は、一昔前「「情況への発言」」で次のように語っていた。

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おれがこの原発問題にそれほど本気になれないのは、科学技術の進展が、一挙にこの間題を解決してしまうことが、ありうるとおもうからだ。
それが超電導常温物質の発見であってもいいし、太陽発電所の宇宙空間設置であってもいい。またその他であってもいい。
このどれひとつでも〈危険〉がないでもない原子力発電(所)の問題を無化してしまう。
そういうことは充分に短い期間内にありうることだ。
チェルノブイリ級の原発事故は、確率論的にもうあと半世紀はありえない。
反原発連中はほっとけば自然消滅するが、おなじように原子力発電(所)自体も、科学技術の歴史の途上で自然消滅して他のより有効で安全性のより多い技術に取って代わられるに決まっている。
ただ原則は、原発の科学技術安全性の課題を解決するのもまた科学技術だということだ。
それ以外の解決は文明史にたいする反動にしかすぎない。
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「チェルノブイリ級の原発事故は、確率論的にもうあと半世紀はありえない」という予測が誤算であったにせよ、いまなお、読むに耐えるようなレベルで文明の未来を論じていると思う。
だが、それにしても、こうした原理には納得できたとしても、福島原発事故について、不安な胸騒ぎが収まらないのはなぜか?
それは地震と津波が一過的な「危険」であったのに対して、原発事故は直接的な犠牲者をほとんど出していないにもかかわらず、未来へと引きずっていかざるをえないリスクをはらんだものだからではないだろうか。

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「危険」はそれ自体として、なんの前触れも、なんの連関もなく、突然、降りかかってくるのである。
少なくとも、われわれの「合理的予期」の対象ではない。
一方、リスクは、それに対処すべく、そのつどわれわれに決定を迫る。
その解決に向けて何かの手段選択とその実行を(あるいは静観という決定を)求める。
その際、決定は未来に対してなされる決定である。
その決定はおそらく、その時点において最善と考えられる、場合によってはなんらかの理由で次善とされる策の選択であろう。
いずれにせよ、「その時点」での、すなわち、その都度の「現在」での最高の決定である。
しかし、この最高の決定は、未来において、なんら「最高」を保証するものではない。
放射性廃棄物の被害可能性について千年後の住民のコンセンサスはとりえない。
臓器移植、遺伝子操作の世代を超えた影響について、プライバシー保護ゆえの精子売買の匿名化によって生ずる自覚なき近親間の生殖の可能性について、抗生物質の大規模大量投与がもたらす抗生物質に抵抗力をもった細菌発生の可能性について、その都度の「現在」における判断以上のことをわれわれは決定できない。
その意味で、リスクはすぐれて未来志向的なモメントをわれわれの社会にもたらす。
リスクは時間の問題であり、未来の問題である。現在の決定が未来を拘束するからである。
このように現在の決定のなかに未来の損害可能性を見定めることが不可能である以上、リスクに対する決定はいつもリスクをはらむこととなる。
(土方透、アルミン・ナセヒ「リスク」)
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震災がなかったとしても、今日の世界的経済危機は確実に訪れていたであろう。
未来に希望がなく、リスクだらけになっているのが、現代の重苦しい状況なのだ。

「生きる」とは「死」というリスクを遠ざけること、
必死に遠ざけて、遠ざけて、やっと一段落した先はといえば、、
最終のゴールはやはり「死」でしかない。。。