濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

いのちなりけり(補遺)

2013-09-25 11:10:20 | Weblog
次は見田宗介「社会学入門」の一節を参考にしたものである。
貝紫というのは、紫貝(写真)から分泌される液体(元来は黄色いが太陽の光で変色する)で、古代より人々が求めてやまなかった高貴な紫色の染料だ。
メキシコのインディオの青年たちは、それを好きな女の子に贈るために、往復二カ月間かけて約四〇〇キロにわたる海岸線を旅する。
青年というものは、意中の女性のためには打算や理性を越えたがるものらしい。
しかし、彼らは文明人と異なり、その貝をたたきつぶすのではなく、液体を自分の手になすりつけて採取し、貝は放してやっていたという。
それが希少な紫貝を絶滅から守ることになる。
もちろん、この方法では、わずか七〇〇グラムの糸が染められるだけだから、1キロ移動して2グラム足らず、費用対効果からするとまったく取るに足りないほどだ。
それでも、愚直だがデリカシーに富んだ青年の一途な思いは、お目当ての女性たちをさぞかし喜ばせたことであろう。


目を江戸期の日本を舞台にした小説に転じてみる。
天源寺家では、夫と死別した娘咲弥(さくや)の入り婿として、雨宮蔵人(くらんど)が迎え入れられることになる。
前の夫が風雅の道をわきまえた武士だったせいもあり、咲弥は蔵人に「どんな和歌が好きかを教えて欲しい」と迫るが、愚直な蔵人は答えることができなかった。
咲弥は「答えるまでは寝所をともにしない」と蔵人を冷たくあしらう。
そこからが二人の命がけの数奇な人生の始まりである。
どんな危険に見舞われても咲弥の言葉を忘れない蔵人は、十七年たってようやくにして、「古今和歌集」にある、詠み人知らずの歌を見出す。

春ごとに 花のさかりは ありなめど、あひ見むことは いのちなりけり
(春ごとに、必ず花盛りはあるはずのものだが、その花盛りに二人が出逢うというのは 命なのだなあ)


というもの。
じつは、二人は幼い頃から見えない赤い糸で結ばれていたのだ。
幼い咲弥が花見に出かけたおり、彼女の花を愛でる気持ちを察して、見知らぬ少年が戯れに桜の枝を折って手渡した、その少年こそが蔵人だったのである。

以上が、葉室麟「いのちなりけり」の概要である。
これまた純愛への憧れをかき立てるようなストーリーであろう。
「出逢い」というものは、そのままいのちの輝きへとつながる。
難路が続くばかりの人生だが、一つの出逢いがそれまでの風景をまったく違うものに感じさせることがあるのかもしれない。
そんな風景を眺めながら、人々は絶句するほかにしかたがないようだ。
生きるとは・・・
出逢うとは・・・
いのちとは・・・

いのちなりけり

2013-09-17 11:57:33 | Weblog
台風一過の今日は、気持ちのよい秋空が広がっている。
昨日は「敬老の日」だったが、「傾老」の身としては、久しぶりに仕事の疲れを取り除くことができた。
少し余裕があったので、ブログでこれまでの自分の歩みを振り返ってみたが、ちょうど一年前に書いた「三度目の敗北の弁」が、「ブログは災いの元」というべきだろうか、何人かの方をご心配させ、お騒がせしたことが思い出されてきた。
少し種明かしをすれば、そのブログ執筆の根底にあったものは、鮎川信夫の一編の詩への共感であった。
晩年の鮎川はデルモア・シュワルツという、一時期は大いにもてはやされた作家の人生に興味を抱き、「必敗者」という伝記的な詩を書いている。


私が知りうるのは シュワルツが一九六六年に五十三歳で死んだことだ
妻も子もなかったかれは タイムズ・スクエアに近い安ホテルの一室に住み
その日は夜どおしで起きており 朝の四時にゴミを捨てに廊下へ出て
心臓発作で倒れ 救急車が到着する前に息をひきとったという
遺体は屍体置場に二日間放置されたままであった
ニューヨーク・タイムズの記者が屍体置場のリストからかれの名を見つけ出し
最後は叔母のクララが遺体をもらいさげていった
(中略)
アルコールと麻薬に蝕まれた生活で
アメリカ社会における成功の蔭にある失敗のさまざまな痕跡が
かれの肉体に刻まれていき
ニューヨーク市の屍体置場までつづくのである



私もまた心臓発作で倒れ、孤独死を経て無縁仏になる一歩手前まで行きかけた身である。
戦争によって青春の全てを奪われた鮎川の厭世観に共鳴しつつ、自分の無能ぶりへの絶望から、去年の今頃は「必敗」というデスペレイトな気分に浸っていたのだろう。
だが、敗北もたび重ねていくと、行き止まりに突き当たり、逆に不思議な解放感さえ味わうことになるようだ。
先日も、深窓のご令嬢として育ち、いくたびかの悲運に見舞われたご婦人から、茶道家の塩月弥生子氏のエッセイをいただいた。一部を引用すれば、


いくつになっても、扉を開けて進めば新しいことが待っています。
「風流」という言葉があります。いい言葉ですね。
人の生まれや環境はそれぞれ違い、各人の自然の風に従うしかない。
まさにそれが「風流」。
人生に模範解答はなく、どの人の人生も正解なのです。



とじつに含蓄に富んだアドバイスが記されている。
確かに「必敗」が風に流されるうちに反転し、いつしか正解に至る、それが、どのようにも柔軟に変容していく「いのち」の不思議なのかもしれない。

何によって生きているのか──いのちによって
 何のために生きているか──いのちのために」
(葉室麟「いのちなりけり」)

燃える秋に

2013-09-12 13:10:39 | Weblog
本ブログで何度か「『いのち』学事始め」と題して話題を提供してきた。
われなりになかなかいいネーミングだと自負していたが、残念ながら先達者がいらっしゃったのだ。
高草木光一編「思想としての『医学概論』──いま『いのち』とどう向き合うか──」のなかで元全共闘のリーダーの一人だった最首悟がやはり「いのち学」を提唱している。
それを読むと「いのち」学とは次のようなものだという。

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科学・医学・生物学・「いのち」学と並べてみると、医学が「学」になるかどうかが問題になりますし、「いのち」学となるとさらに「学」には馴染まない。「いのち」論にしかならないかもしれません。(中略)
「生きていること」と格闘したり、「いのち」を「生きるしかない」ことに追い込まれたりする。
そのありようが「いのち」学かもしれないという気はするのです。
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どうやら「いのち」学は「生きるしかないことに追い込まれたりする」ような、のっぴきならない状況のなかで生まれてくるものであるらしい。
文末で筆者はさらに次のように説明している。

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「いのち」とは全一体性で生きているということです。
言葉を削ぎ落して残る言葉が「いのち」です。
「いのち」を説明しようとすれば「いのち」しかない、ということを出発点とします。
言葉がない状態で、生きているという思いを共通に確かめ合う方途として、「いのち」という言葉は生まれてきたのだと考えます。
どうして生まれたのかはわかりません。
生きているという思いをもつものが何かも言えません。
「いのちはいのち」と言うことで人間の世界は始まったと考えます。
説得したい欲求とその諦めを同時に表わすものとして、「いのちはいのち」と言うしかない。
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確かに「いのち」は言葉以前のもの、言葉では説明できないもの、いや言葉とは対立するものなのかもしれない。
だからこそ、西行も「年たけてまた越ゆべしと思ひきや」と深い感慨に囚われながらも、その表出を断念するかのように、「命なりけり小夜の中山」と詠じるほかになかったのだろう。

さて、花の「いのち」もまた、言葉などに頼らずに、輝くものらしい。
某日、東大植物園を蚊に刺されながら散策したが、曼珠沙華(彼岸花)が数輪、健気に咲き始めていた。
秋に燃えるが如きその姿を思い浮かべつつ、京都南禅寺元管長 柴山全慶老師の詩「花語らず」を引用しておく。

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花は黙って咲き、黙って散っていく
そうして再び枝に帰らない
けれどもその一時(ひととき)一処(ひとところ)に
この世の全てを托している
一輪の花の声であり一枝の花の真(まこと)である
永遠にほろびぬ生命(いのち)の歓びが
悔いなくそこに輝いている
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世界の片隅でささやかに起きていること(続)

2013-09-05 01:33:26 | Weblog
二学期の授業も始まり、以前、本ブログの話題にも取り上げたベルギーの双子の兄弟の安楽死について、意見感想を生徒に求めることにした。
双子の兄弟は末期患者だったわけでも、耐えがたい肉体的苦痛があったわけでもなく、ただ、耳が聞こえないことに加え、失明に至る事態の到来に、お互いがアイコンタクトをとられなくなることを悲観した末の選択だった。
近年の医学部志望生は安楽死容認派が多く、今回のように、厳密には「安楽死」というより「医師による自殺幇助」と呼ぶべき場合でも、その傾向は変わらず、なかには、「安楽死は究極的なケアである」「医療の選択肢の一つとして安楽死も含めるべきだ」といった意見も聞かれ、世代間の断絶を感じさせられた。
とはいえ、世代間の断絶で片付けていい問題ではない。小生なりの立場をまとめてみることにした。
まず、かつて吉本隆明は「心的現象論」で

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現存する聾唖や全盲の心性(その表現)は、〈痛ましさ〉の感じに連絡している。それは時代を同じくし、焦眉の社会問題であり、また政治問題であることを知っているところからくるのではない。
また、〈もしもじぶんが聾唖や全盲であったら〉という感情移入の可能性からくるのでもない。(中略)
たぶんわたしたちは現代の〈生存〉そのものの〈痛ましさ〉を集約してくれている存在を、不具・障害・病気の心的世界にみているのだ。
わたしたちは、不具・障害・病気に出遇ったときに感ずる〈痛ましさ〉を、しばしばすぐに心情・倫理・同情におきかえようとする。しかし、この短絡はおもいちがいを含んでいる。
わたしたちが感ずる〈痛ましさ〉は、じぶんの生存することにまつわる〈痛ましさ〉についての自己省察の反映であるという本質をもっている。
わたしたちは、じぶんの生存を大なり小なり〈痛ましさ〉の感じで受けとめているからこそ、不具・障害・病気にたいして〈痛ましさ〉の感じを喚起されるのである。
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と述べており、兄弟の〈痛ましさ〉が、我々が生存する自分自身の〈痛ましさ〉、あるいは我々の関係自体の〈痛ましさ〉に通じていることを指摘している。
もしここで、安楽死を容認してしまえば、そうした通路が分断され、兄弟の〈痛ましさ〉は兄弟が特殊に味わう悲劇とされ、その結果、あくまで二人の自己責任の問題とされ、社会全体でそうした悲劇をいかに解決していくかが論じられることもなくなる。
それこそ「世界の片隅でささやかに起きていること」で終わってしまうのだ。

次に生後5ヶ月で眼病を患い、3歳で右目、9歳で左目を失明、18歳のときに失聴し全盲ろう者になった福島智(東大教授)の体験談を紹介しよう。

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私は神戸の出身で、神戸の海沿いの町に育ったのですが、非常に景色のいいところです。
瀬戸内海に沈む夕日とか、明石海峡の向こうに淡路島が見えたり、とても素晴らしい風景ですが、その風景が見えなくなったことがつらかった、悲しかったというのではないのです。
あるいは、聴こえているときに音楽ができていたのに、それができなくなった。その他、きれいな物音が聴こえていた、例えば風鈴の音であるとか、小鳥のさえずりであるとか、そういった音が聴こえなくなったのがつらいというのでもないのです。
何がつらかったかというと、それはコミュニケーシヨンができなくなったということです。
自分でも驚いたのですが、家族とか、友人とか、身近な人たちとコミュニケーシヨンができなくなったというのが、どれほど私にとって大きな衝撃だったか、いかに生きる上での力を弱める衝撃的なことだったかということを今も思い出します。
1980年の暮れごろですので、もう21年になりますが、そのときの何とも言えない気分……。
私の場合は痛みを伴ったりする病気ではありませんでしたので、痛くもかゆくもない。
ただ静かに暗い世界に自分が吸い込まれていくような気分、あるいは夜の海の底に沈んでいくような気分、あるいは私だけがこの世界から消えてしまって、別の世界に移されていくような感じです。
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というように、視聴覚の機能の喪失よりもコミュニケーシヨンの可能性の喪失がいかに恐怖をもたらしたかが語られている。
だが、その恐怖は母の考案した「指点字」によって解消されていく。
手と手、指と指、それだけでも心を通じ合い、雄弁に語ることができるのだ。
双子兄弟の安楽死の選択の理由も、兄弟間でのコミュニケーションの喪失から説明できるだろうから、触覚的なコミュニケーションツールを開発すれば、一応の解決が図られたであろう。
こうした方向に人類の英知が進む可能性が閉ざされるという点でも、安楽死および自殺幇助の欠陥が指摘できるだろう。