すでに人生のターミナルステージを迎えている母の見舞いのため、しばらく帰省することにした。
さすがに齢九〇も超えてしまうと、「身を切られるような思い」とはほど遠く、大往生の「いい日旅立ち」を迎えさせるためのちょっとしたリハーサルといった感じの小旅行だった。
すでに点滴のほかにモルヒネなどの投与も始まり、意識はなかば混濁しているとはいえ、さすがに我が母、話題には事欠かない。
私が見舞いに行ったときは、しきりに「じいさん(我が父)」のことを話していた。
「じいさんが死んだのは三年前だったかな?(本当は、二〇年近く前のことだ)」などと聞いてくる。
「じいさんと一緒になって幸せだったかい?」
とこちらがたずねてみると
「幸せだったかどうかわからないけど、悪い人じゃなかった」
と、なかなか泣かせるようなせりふが返ってくる。
そこまで思わせるようであれば、じいさんも夫冥利に尽きることだろう。
「末期患者のQOL(Ouality Of Life)」などは医学部入試の小論文ネタとして好まれるが、「末期患者のQOL(Ouality Of Love)」についてもぜひ問うてほしいものである。
機に乗じて、「じゃあ、そろそろ、じいさんのいる所に行きたいかい?」という誘導尋問をすると、
「いや、まだまだいやだ」
と断固、この世に食い下がろうとしているから、ここは当分、待ちの姿勢が続きそうである。
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いうまでもなく、対幻想としての特異な位相をたもちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属する以外に道はない。それが六十歳をこえた老人が「蓮台野」に追いやられたことの根源的な理由であり、一般的には姨捨の風習の一般的な意味である。(吉本隆明「共同幻想論」)
*****************
形ばかりのターミナルケアを済ませて、病室を離れようとすると、
「帰るんだったら、窓を閉めていけ」
と鋭い言葉が、逃げ腰の息子の背中めがけて、浴びせられた。
さすがに齢九〇も超えてしまうと、「身を切られるような思い」とはほど遠く、大往生の「いい日旅立ち」を迎えさせるためのちょっとしたリハーサルといった感じの小旅行だった。
すでに点滴のほかにモルヒネなどの投与も始まり、意識はなかば混濁しているとはいえ、さすがに我が母、話題には事欠かない。
私が見舞いに行ったときは、しきりに「じいさん(我が父)」のことを話していた。
「じいさんが死んだのは三年前だったかな?(本当は、二〇年近く前のことだ)」などと聞いてくる。
「じいさんと一緒になって幸せだったかい?」
とこちらがたずねてみると
「幸せだったかどうかわからないけど、悪い人じゃなかった」
と、なかなか泣かせるようなせりふが返ってくる。
そこまで思わせるようであれば、じいさんも夫冥利に尽きることだろう。
「末期患者のQOL(Ouality Of Life)」などは医学部入試の小論文ネタとして好まれるが、「末期患者のQOL(Ouality Of Love)」についてもぜひ問うてほしいものである。
機に乗じて、「じゃあ、そろそろ、じいさんのいる所に行きたいかい?」という誘導尋問をすると、
「いや、まだまだいやだ」
と断固、この世に食い下がろうとしているから、ここは当分、待ちの姿勢が続きそうである。
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いうまでもなく、対幻想としての特異な位相をたもちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属する以外に道はない。それが六十歳をこえた老人が「蓮台野」に追いやられたことの根源的な理由であり、一般的には姨捨の風習の一般的な意味である。(吉本隆明「共同幻想論」)
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形ばかりのターミナルケアを済ませて、病室を離れようとすると、
「帰るんだったら、窓を閉めていけ」
と鋭い言葉が、逃げ腰の息子の背中めがけて、浴びせられた。