濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

Quality Of Love

2011-02-27 00:46:41 | Weblog
すでに人生のターミナルステージを迎えている母の見舞いのため、しばらく帰省することにした。
さすがに齢九〇も超えてしまうと、「身を切られるような思い」とはほど遠く、大往生の「いい日旅立ち」を迎えさせるためのちょっとしたリハーサルといった感じの小旅行だった。

すでに点滴のほかにモルヒネなどの投与も始まり、意識はなかば混濁しているとはいえ、さすがに我が母、話題には事欠かない。
私が見舞いに行ったときは、しきりに「じいさん(我が父)」のことを話していた。
「じいさんが死んだのは三年前だったかな?(本当は、二〇年近く前のことだ)」などと聞いてくる。
「じいさんと一緒になって幸せだったかい?」
とこちらがたずねてみると
「幸せだったかどうかわからないけど、悪い人じゃなかった」
と、なかなか泣かせるようなせりふが返ってくる。
そこまで思わせるようであれば、じいさんも夫冥利に尽きることだろう。
「末期患者のQOL(Ouality Of Life)」などは医学部入試の小論文ネタとして好まれるが、「末期患者のQOL(Ouality Of Love)」についてもぜひ問うてほしいものである。
機に乗じて、「じゃあ、そろそろ、じいさんのいる所に行きたいかい?」という誘導尋問をすると、
「いや、まだまだいやだ」
と断固、この世に食い下がろうとしているから、ここは当分、待ちの姿勢が続きそうである。

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いうまでもなく、対幻想としての特異な位相をたもちえなくなった個体は、自己幻想の世界に馴致するか、村落の共同幻想に従属する以外に道はない。それが六十歳をこえた老人が「蓮台野」に追いやられたことの根源的な理由であり、一般的には姨捨の風習の一般的な意味である。(吉本隆明「共同幻想論」)
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形ばかりのターミナルケアを済ませて、病室を離れようとすると、
「帰るんだったら、窓を閉めていけ」
と鋭い言葉が、逃げ腰の息子の背中めがけて、浴びせられた。

逆プラシーボ効果

2011-02-15 09:43:27 | Weblog
飛行機内で突然激しい腹痛に襲われた人がいて、医者が呼ばれたけれども、薬を持っていなかったので、とっさの機転で歯磨き粉か何かを薬だといって与えたら、ちゃんと治ったといった類の話がある。
つまり、医師の言葉を信じれば、それだけで病気が治ってしまうのだ。
これを「偽薬(プラシーボ)効果」という。

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患者は、医者から「治る」と言ってもらいたいから受診するのである。その言葉を信じることができれば、病状は快復に向かうかもしれない。
それはプラシーボ効果に過ぎないかもしれないが、病気が治るのであれば、これ以上いったい何を望むことがあるだろうか。
プラシーボ効果がアップするかどうかは、「本当にこの患者を治せる」という医者の自信や、その気持ちを患者に上手に伝えられるかどうかに大きく左右される。
つまり、医者の自信にあふれる態度とか、やさしい言い方にかかっているのだ。
信頼できない医者からは、患者はプラシーボ効果を得ることはできないだろう。
まさしくここに現代の医療の問題が含まれている。
患者の顔もろくに見ないで、電子カルテのモニターを眺め、マウスをいじっていることに時間を割く医者とは信頼関係ができないし、患者も信用することはない。
現代医療は患者とのコミュニケーションというもっとも基本的なものを奪ってしまった。
大学病院では相変わらず午前中三時間の診療時間で六十名もの患者を診なければいけない。
そこで十分なコミュニケーションを取る時間はない。(米山公啓「医学は科学ではない」 )
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小児科のある研修医の話によれば、医者から「治る」という一言を聞きたいがために、たとえ夜中であっても受診しにくる親子が多いという。
いかに人間(特に幼児を抱える母親)が権威ある言葉に弱いかの証拠だろう。

さて、「逆プラシーボ効果」というものを考えてみよう。
次は、医療人類学者の中川米造と哲学者の加藤尚武の対談である。

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中川…自分自身でプラシーボ効果をつくり出すためには、自分自身に依拠し、自分で考えなきゃならない。その具体的な働き方というのはリラクゼーションで、自分自身がリラックスして自然治癒力に任せるわけです。
私はたとえばガンで死ぬというのは、自殺なんだと思っているんです。動物などは、自分の身体より大きなガンをもっていても平気ですからね。ではガン動物は何で死ぬのかというと、たいてい感染なんだそうですね。
加藤…ガンと一緒に生きていくこともできるわけですね。
中川…ええ。それが人間の場合には、「あなたはガンだ」なんでいったら、もうごはんも食べられなくなっちゃう。それは何故かというと、言葉が身体に命令しているということなんですよ。つまり社会的につくられた概念が、自分の身体を縛っているわけです。
そこで何故、言葉の魔術から解放されるよう自分で努めないのか。そういう治療法も実際始まっているんです。ガンのイメージを自分で変えていくというね。
(加藤尚武「バイオエシックスとはなにか」)
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どうやら、「逆プラシーボ効果」が最大になるのは、「がん告知」のときということになる。
人間の成分分析をすれば、

人間の90%は言葉でできています。

ということになるだろう。
告知されたほうが、かえってQOLが高まるという人もいるが、普通の日本人はそこまで自我が強いわけではないはずだ。
私見では、やはりこのあたりが、臨床医学と心理学と脳科学がもう少し考えなければならない領域だと思う。
さて、ものぐさな私の場合はどうか。
主治医に「5キロ減量せよ」と命じられれば、本当に実行してしまう。
そんな従順で律儀な面があるとは、と改めて驚いている今日この頃でした。



八百長礼賛

2011-02-06 22:14:34 | Weblog
目下、居候しているパレスチナ帰りの友人の話だと、パレスチナ人は一日一人程度、イスラエル兵に殺害されているという。
しかし、こうした暴挙は北朝鮮のようにはあまり報道されたり、非難されたりしない。
それに反して、このところ、日本で騒がれている相撲の八百長騒動など、なんとたわいないことか。
友人は続けて言う。
「政治も経済も、文化は、もともと八百長的なものを含んでいて、本当のガチンコ勝負など、サバンナの動物どうしの弱肉強食の闘いなどにしかないのではないか」
たしかに、人間の場合、一対一の勝負では、プロレスもボクシングも「手加減・手心」や「無気力」という要素が入る余地があり、それで勝負が決する場合も大いにあるだろう。
逆に言えば、だれも本気で死ぬまで闘おうなどとは思わないのだ。
だから、そこには何らかの取引が成立してくることになる。
パレスチナもエジプトも、背後で「胴元」が仕掛けて、民衆の士気を煽っている「八百長」なのかもしれない。
これに対して、日本などの「和をもって尊しとなす」国では、プラスの方向に向かい、7勝7敗で千秋楽を迎えた力士に勝たせるという互助会的な「八百長」こそ、日本の美しい伝統だといえなくもないだろう。
そして、こうしたことは医療現場での「がん告知」でもいえることなのだ。

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「手遅れのがん」を患者に伝える倫理的根拠は、患者の自己決定の権利尊重である。これはもちろん「アトム的自己」を想定した個人志向的倫理だ。なんども結婚・離婚をくり返す個人主義的社会では、当然な配慮といえる。しかし緊密な人間関係の網目が発達した集団(社会)で個人の果たすべき役割が固定され、しかもその役割をきちんと演ずることが期待される状況では、そこに生きる個人は「つながりの自己」であるのが暗黙に期待されている。その場合、家族など周囲は、病者にまがまがしい致死的疾病の存在を告げないし、本人も自分では死病に侵されているのを知らないようかのように振舞うのが、臨床の場でしばしば観察される。
胃がんで亡くなった細川安東京大学医学部教授がそうであったのが、死後刊行された詩集『病者・花』にあきらかにされた。また生物学者の昭和天皇は膵臓がんだったが、病気の性質を問うことがいっさいなかった。生物学徒の天皇が、自身の疾病の性質を察しなかったとは考えにくい。いずれの場合も、周囲は病者の気持に、病者は周囲の気持に配慮した関係志向的倫理意識が現れている。(大井玄「環境世界と自己の系譜」)
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欧米とは異なり、「関係志向的倫理意識」の強い日本では、正直に告知することよりも、嘘も方便、知らぬが仏、、触らぬ神にたたりなし、告知する側もされる側も死を覚悟しながら、平静を装い続け、その姿勢は死の寸前まで貫かれることになる。
そのほうが余計な波風が立たなくていいのだ。
ここにおいて、臨床における八百長が成立する。

さて、我がブログでは、八百長は成立するのか? 
「最初は流れに任せて書いて、後でオチをつくりますから、笑ってください。最後はYoutubeを見せることにしますが、けっして、コメントなどしないでくださいね。」
「了解です。おたくのブログでは、コメントをする人などほとんどいませんから、心配しないでいいかもね」