The value of movies: Naomi Kawase at TEDxTokyo
河瀬直美はいまや日本を代表する映画監督といわれているが、『殯(もがり)の森』をはじめとする彼女の作品を私はまったく観ていない。
このプレゼン映像の冒頭で、両親を知らないという彼女の誕生秘話が語られているが、実父と生き別れ実母とも離別し、母方の祖母の姉に育てられたという特殊な体験の持ち主らしい。
しかし、彼女の告白には出自にまつわる悲惨なイメージはなく、むしろ、それが彼女の物腰の柔らかさの中に秘められた芯の強さを形作っているようにさえ思われた。
「どうして私はここにいるんだろう?
「私はなんのために生まれてきたのかな?」
こんな実存への問いを幼い頃から抱き、そうした問いが、彼女の独特のしなやかなアイデンティティーを形成していったのだろう。
人間の出生は、たんなる生命的・生物学的な出来事ではなく、人間がこの世に生まれてきた「意味」に関わる出来事であり、個人の「かけがえのなさ」や「尊厳」の基盤にかかわる重大な出来事であることをつくづくと思う。
ところで、そんな出生の哲学を編み出したのはハンナ・アーレントだ。
アーレントにおいては、人間の誕生的性格は、何か新しいことを巻き起こす可能性をいつもはらんでおり、生きているかぎり、新しい始まりを突発させることへと導かれているという。
アーレントの言葉を引用する。
生命が非有機体から生まれたというのは、非有機体の過程から見ると、およそありえないことである。
同じように、地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。・・・
したがって、新しいことは、つねに奇蹟の様相を帯びる。
そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。
それができるのは、やはり、人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。
話を河瀬直美のことに戻そう。
やがて、彼女は8ミリフィルムという表現手段を見出し、彼女の祖母を映し始める。
新しい始まりだから、それは彼女にとって「奇蹟」ともいうべきことだっただろう。
「カメラを回していた自分とおばあちゃんに触れていた自分、瞬時でしたが、私が二人存在しました。主観と客観というのかな……」
これこそ、アーレントのいう「第二の誕生」なのかもしれない。アーレントは次のように言っている。
言葉と行為によって私たちは自分自身を世界に挿入する。この挿入は第二の誕生に似ており、そして、この誕生において、私たちはもともと肉体として出現したのだというという明白な事実を確証し、それを自分に引き受けるのである。
そして、祖母の映像は海外に渡り、見知らぬ人々に鑑賞されていく。
「私のおばあちゃんのことをまったく知らない人たちが、おばあちゃんの畑仕事を見ていてくれている。感覚を共にできるんだなと思いました。共にできる感覚ほど強いものはありません。なぜならそれはその人たちの心の中に存在するものだから。そしてその存在したものは自分が裏切らないかぎり、必ずつながっていくからです。」
「私はこの世に生まれた意味が分からずにずっと過ごしていました。なぜだか分からないけど、ここに映画がやってきたんです。私はその役割を、また新しい人とのつながりに変えたいと思いました。
ここで繰り返される「つながり」という言葉は彼女のキーワードでもあろうが、それは未来に関わろうとする動きを秘めている。
とすれば、この言葉を「約束」に言い換えるなら、これまたアーレントの主張と重なっていくのではないだろうか。
「約束の力」は不確実な未来にかかわり、人間の予言不可能性と結びついている。
他者と結ぶ約束こそが、予言不可能な未来の大海に「安全な小島」を打ち立てることを可能にし、永続的で信頼のおける人間関係を樹立することができる。
と同時に、他者と約束を交わし、その約束で自分を拘束し、実行することによってはじめて、自らの「アイデンティティー」を維持することができる。
約束とは、なによりも「他者」との約束である。約束の概念は他者の存在と人間の複数性を前提にするのである。
ただし、河瀬直美にとって、「他者」は不特定の「みなさん」なのではなく、「みつき君」とか「藤沢さん」というように「名前のあるあなた」ではなければならないというのだ。
「名前のあるあなたとつながりたい。」
どうやら、これが出自の段階で父母というアイデンティティーの核を奪われてしまった彼女の最大のメッセージに思えてならない。
河瀬直美はいまや日本を代表する映画監督といわれているが、『殯(もがり)の森』をはじめとする彼女の作品を私はまったく観ていない。
このプレゼン映像の冒頭で、両親を知らないという彼女の誕生秘話が語られているが、実父と生き別れ実母とも離別し、母方の祖母の姉に育てられたという特殊な体験の持ち主らしい。
しかし、彼女の告白には出自にまつわる悲惨なイメージはなく、むしろ、それが彼女の物腰の柔らかさの中に秘められた芯の強さを形作っているようにさえ思われた。
「どうして私はここにいるんだろう?
「私はなんのために生まれてきたのかな?」
こんな実存への問いを幼い頃から抱き、そうした問いが、彼女の独特のしなやかなアイデンティティーを形成していったのだろう。
人間の出生は、たんなる生命的・生物学的な出来事ではなく、人間がこの世に生まれてきた「意味」に関わる出来事であり、個人の「かけがえのなさ」や「尊厳」の基盤にかかわる重大な出来事であることをつくづくと思う。
ところで、そんな出生の哲学を編み出したのはハンナ・アーレントだ。
アーレントにおいては、人間の誕生的性格は、何か新しいことを巻き起こす可能性をいつもはらんでおり、生きているかぎり、新しい始まりを突発させることへと導かれているという。
アーレントの言葉を引用する。
生命が非有機体から生まれたというのは、非有機体の過程から見ると、およそありえないことである。
同じように、地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。・・・
したがって、新しいことは、つねに奇蹟の様相を帯びる。
そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。
それができるのは、やはり、人間は一人一人が唯一の存在であり、したがって、人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれるためである。
話を河瀬直美のことに戻そう。
やがて、彼女は8ミリフィルムという表現手段を見出し、彼女の祖母を映し始める。
新しい始まりだから、それは彼女にとって「奇蹟」ともいうべきことだっただろう。
「カメラを回していた自分とおばあちゃんに触れていた自分、瞬時でしたが、私が二人存在しました。主観と客観というのかな……」
これこそ、アーレントのいう「第二の誕生」なのかもしれない。アーレントは次のように言っている。
言葉と行為によって私たちは自分自身を世界に挿入する。この挿入は第二の誕生に似ており、そして、この誕生において、私たちはもともと肉体として出現したのだというという明白な事実を確証し、それを自分に引き受けるのである。
そして、祖母の映像は海外に渡り、見知らぬ人々に鑑賞されていく。
「私のおばあちゃんのことをまったく知らない人たちが、おばあちゃんの畑仕事を見ていてくれている。感覚を共にできるんだなと思いました。共にできる感覚ほど強いものはありません。なぜならそれはその人たちの心の中に存在するものだから。そしてその存在したものは自分が裏切らないかぎり、必ずつながっていくからです。」
「私はこの世に生まれた意味が分からずにずっと過ごしていました。なぜだか分からないけど、ここに映画がやってきたんです。私はその役割を、また新しい人とのつながりに変えたいと思いました。
ここで繰り返される「つながり」という言葉は彼女のキーワードでもあろうが、それは未来に関わろうとする動きを秘めている。
とすれば、この言葉を「約束」に言い換えるなら、これまたアーレントの主張と重なっていくのではないだろうか。
「約束の力」は不確実な未来にかかわり、人間の予言不可能性と結びついている。
他者と結ぶ約束こそが、予言不可能な未来の大海に「安全な小島」を打ち立てることを可能にし、永続的で信頼のおける人間関係を樹立することができる。
と同時に、他者と約束を交わし、その約束で自分を拘束し、実行することによってはじめて、自らの「アイデンティティー」を維持することができる。
約束とは、なによりも「他者」との約束である。約束の概念は他者の存在と人間の複数性を前提にするのである。
ただし、河瀬直美にとって、「他者」は不特定の「みなさん」なのではなく、「みつき君」とか「藤沢さん」というように「名前のあるあなた」ではなければならないというのだ。
「名前のあるあなたとつながりたい。」
どうやら、これが出自の段階で父母というアイデンティティーの核を奪われてしまった彼女の最大のメッセージに思えてならない。