濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

30年ぶりの小田実

2007-08-30 15:49:10 | Weblog
先日逝去した小田実の追悼番組がNHKの深夜テレビで流されていた。といっても、2000年に彼がドイツを訪問した折り、多くの政治家にインタビューしたものの再編集版である。

日本と同じく第二次世界大戦の反省から反戦平和の願いの強かったドイツだったが、90年代後半、コソボなどバルカン半島での民族紛争が激化したのを機に、「人道的介入」という美名のもと、自国の憲法の一部を修正して、NATO軍に参加し、悪名高き無差別空爆の一翼を担うことになった。
そうした政治的決断をしたのは、緑の党や社会民主党など、かつては小田たちと同じく反戦平和を提唱した側の人物たちだったのである。そうした彼らの責任を追及する小田の姿勢は容赦なく、往年を偲ばせる迫力があった。抑揚のない言葉が機関銃のように矢継ぎ早に出てきて、懐かしかった。
だが、それと同時に、私は、ドイツの変貌ぶりに日本の近未来の一つの方向を見るような思いもした。それは、日本で、もし憲法改正があるとしたなら、国民の内発的な合意というのではなしに、むしろ外圧的な事情で、しかも「人道的介入」などといった大義名分、美辞麗句のオブラートにくるまれて、隠微な形で遂行されるかもしれないということだ。そして、それは正義派の日本人にとっては、一種のガス抜きにもなるだろう。

ところで、「<戦争>自体が、最大の敵なのだ」とする小田の考えなど、<テロ>を最大の敵とする今日のアメリカ主導の国際協調体制からすれば、色あせてしまったとも思うが、戦争や暴力を好む傾向は、人間にいまだに受け継がれてきている優性DNAである。とすれば、彼は、私を含めた大多数の人類を敵に回して戦ってきたわけで、そうした点では、反戦平和というロマンに徹した人間の一つの典型であったと思う。
「展望」も「試行」も「思想の科学」もすっかり消えた現代ではあるが、敵ながら、改めて追悼の意を表したいと思う。

10年ぶりの中谷美紀

2007-08-14 01:18:37 | Weblog
ほぼ10年くらい前だが、めっぽう音楽にくわしい後輩が、中谷美紀という歌手兼女優の才能を高く買っていて、彼女のCD(cure)を勧めてくれたことがある。確か、当時、彼女はテレビ番組でオカルト的で不思議な雰囲気を漂わせていたような記憶がある。その後、後輩の口車に乗せられ、好奇心半分でCDを買ってみた。坂本龍一のプロデュースだけあって、曲の作りは凝っているのだが、なんといっても声量が足りず、歌詞が聞き取りにくい。結局は「耳通し」のいい音楽として、精選CDコーナーからは外され、お蔵入り寸前の状態だった。

今回、暑さしのぎに家の片づけをしているうちに、そのCDとほぼ十年ぶりのご対面ということになった。(この間、彼女が女優として日本アカデミー賞まで獲得していたらしいのだが、それも詳しくは知らない。)さて、再度、CDを聴いてみたが、やはり佳作どまり、という感じしか残らなかったのだが、聞き取りにくい歌詞が妙にひっかかった。
ここで、そこに収められた「砂の果実」(作詞:売野雅勇 作曲:坂本龍一)を紹介してみると、序奏の後、いきなりサビで、

「あのころ 僕らが 笑って軽蔑した 
恥ずかしい大人に あのとき なったんだね」

と始まる。その後、「弱虫の偽善者」「堕落していくボク」などというフレーズがあり、もう一度、サビに戻り、

あのころ 僕らが 笑って軽蔑した 
からっぽの大人に 気づけば なっていたよ
生まれてこなければ 本当はよかったの?
ボクは砂の果実 氷点下の青空

と続き、最後はなんと「あらかじめ 失われた革命のように」で終わる。
じっくり読んでみれば、やれやれ、我々団塊の世代の「不毛な青春」「青白きアドレッセンスの挫折と終焉」そのものをテーマにしているのだった。もちろん、我々の場合は、徒党を組み、「自己否定だ!」「ニヒリズムだ!」「アンチロマンだ!」といって、大騒ぎしたのだが、それを個人の内部に凝縮し、ソフィストケイトされたパッケージ商品として歌われているのだ。そして、それを歌うのはなるべく無表情で透明感のある内向的な存在でなければならなかったわけだ。

とまあ、こんなことを参考にして、下記のyoutubeのビデオで、「砂の果実」をご覧になり、ついでに10年前の雰囲気を味わっていただきたい。坂本龍一が若いなあ、というぐらいで、私には時代の違いがあまり感じられない。となると、十年間、いや、青春の終焉以降、なにをしていたんだ、私は?!

youtube「砂の果実」

トホホなホトケ

2007-08-05 15:10:22 | Weblog
「(仏)ホトケ」とは「ブッダ」を日本的に発音した「ホト」に「サムケ(寒気)」や「ネムケ(眠気)」の「ケ」が付いた言葉で、ブッダ自身を指すのではなく、ブッダ的な雰囲気が漂う人やかたち(仏像)のことである。今時の若者風に言えば「何気にブッダがかぶっているみたいな~」というところだろうか。

ここまでが前フリで、以下本筋に入る。
過日、ホトケのメッカ、奈良にお住まいのある大学教授が私のことを「ホトケ」として崇めているといううわさを漏れ聞いた。ちょうど、仏像の写真集を企画中だったので、毎日、仏像ばかり見ていると、こんなこともあるのかなどと思って、その教授が上京された際、早速お会いすることにした。
お話を聞いてみると、教授のご専門は古英語(チョーサー「カンタベリー物語」が代表的)で、六五歳になった記念に、学者仲間や弟子の論文を集め、相当なボリュームの論文集を出すことにした。ところが、古英語特有の文字(上図参照)や発音記号もまじった雑多な原稿にベテラン編集者もおじけづき、引き受け手がいない状態だったらしい。そんな時、事情をあまり知らない私が、いとも簡単に仕事を引き受けたから、ホトケにまで祭り上げられたというのが、実際の経緯のようだ。
「論文というものは、有能な若い学者が自説を発表できる数少ない場、その可能性をいたずらに奪ってはなりません」――やや古めかしいエリート主義的発言であったが、老教授の言葉に納得させられた。

 さて、その後、初校、再校と組版の仕事は何とか順調に流れた。そこで、私は、「ホトケ」の名に恥じぬよう、三校のデータをも送信することを約束してしまった、私の心づもりとしては、あくまでも「念校」で、どうしても直してほしいところだけ、という類のものだった。わざわざプリントアウトまでして、細かな直しを求めてはこないだろうというのが、こちらの読みだったわけだ。
 あにはからんや、知らぬがホトケであった。その後、教授からは何と600枚に及ぶ校正紙がFAXで送られてきたのだ。それも大半は単なる形式的な直しで、とても内容に深く関係するものとは思われない。このとき、私は教授が「鬼」だったことにようやく気がついたのである。鬼といっても、学問の鬼などではない。単なる校正の鬼である。
 もっとも、相手が鬼だろうが蛇だろうが、慈しみと憐れみをもって微笑むのがホトケの品格というものである。だが、残念ながらホトケの顔も三度までで、FAXが200枚を越えたあたりから、「成仏」しそこなった過去の自分の事情も災いしてか、すっかり地金が出て、「仏頂面」になってしまったのである。そして、校了を明日に控えた深夜、「有能な若い学者」の一人から最後の原稿が届けられた時には、大童(オオワラワ 敵に囲まれて闘う武士の悲惨なオカッパ頭を想像してほしい)の状態で対応するしかなかったのである。

 何とも波瀾万丈の仕事だったが、その後、装幀・カバーデザインの立派さにも助けられ、何とか本は刊行され、仕事は「オシャカ」にならずにすんだわけだが、「生き仏」として崇められることの難しさを改めて思い知らされた次第である。
 もっとも、上には上がいて、ジェームス三木「君は神になりたいか」によれば、豊臣秀吉などは、ホトケになることには不満で、自らを「豊国大明神」などと名のっているという。「明神」とはこの世に姿が見えるカミのことらしい。