濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

ユーフォリアという選択

2013-07-23 01:42:45 | Weblog
まだ七月後半で、学校などは夏休みを迎えたばかりだというのに、今年は熱波が前倒しでやってきたせいか、それほど気温が上がらず、多少なりとも風があるとなると、すでに夏も半ばを過ぎたかのような不思議な感覚に囚われる。
山頂まで登りきり下山し始めるときの穏やかな安息感というか、花火を見終えたときの甘美な郷愁というか、なかなかうまい言葉が見つからないが、現実の生活に多くの不如意を抱えながらも、ささやかな多幸感を味わうことができた。

多幸感(ユーフォリア)は、臨死体験の最も普遍的な感覚でもあるらしい。臨死体験と言えば、例の「お花畑が……」とか「三途の川を……」といったものがよく知られているが、「心の安らぎと静けさ」を挙げる体験者も多い。
臨死状態でそのようなユーフォリアを味わった医学者の豊倉康夫氏は次のように述べている。

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これ(ユーフォリア)は筆者だけの体験ではなく、すべての人間や動物の臨終にも起こることではないかという推測である。
自然界の動物のすべてに死を運命づけた神も、臨死には恐怖からの解放と安楽を用意していたのだといえば、もはや宗教の域に立ち入ってしまうことになる。
ただし、私には、一つだけ科学的な挑戦があるように思えてならない。
それはこのユーフォリアをもたらすものはある種の内因性の「物質」であり、脳内にはそれを一斉に受容するレセプターがあるのではないかという仮説である。
(立花隆「臨死体験」)
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どんなに苦悶や恐怖の表情を見せていようとも、臨終のときの人間の脳内は、案外、多幸感に支配されているのかもしれない。
そういう意味では、死はすべて「安楽(な)死」だということになるが・・・
なお、多幸感のメカニズムについては、

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激しくロマンチックな恋愛もまた、大脳基底核でドーパミンを放出させます。
沈む夕日、舞いはじめた雪のかけらを美しいと感じるとき、ドーパミンは前頭薬のA10神経ではたらいています。
A10神経は、「快楽神経」あるいは「多幸神経」とも呼ばれますが、視床下部から大脳新皮質の前頭前野まで広く分布しているので、その快感の度合いにも階層を生じます。
食欲、性欲を満足するものから、創造性を発揮するよろこび、そして、至福といった感覚までを生じさせることができるのです。
乳幼児の笑いは、前頭葉の眼窩前頭皮質の発育・成長に伴い、そこに形成されるA10神経のドーパミンによる湧き立つ興奮です。
心の転換があり、新しいものによろこびを見出したとき、A10神経は興奮・活性化します。
そしてそれは視床下部や周辺の神経回路にはたらきかけ、感情的障害により欝滞していた神経・免疫系の流れを治癒の方向へと転換させます。
(松野哲也「病気をおこす脳 病気をなおす脳」)
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というように、神経伝達物質のドーパミンとA10神経の合わせ技だという考えが定説になっている。
一方、心肺停止状態に陥った私に施された脳低温療法の開発者、林教授によると

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植物状態患者の脳から戻ってくる内頸静脈血液を調べると、ドーパミンと黄体形成ホルモンの値が著しく低くなっていることがわかっている。
ドーパミン不足が脳の神経細胞の活性を失わせている原因の一つであるなら、ドーパミンを与えれば、神経細胞を賦活化させる可能性があるからだ。
では、ドーパミンで脳のどこを刺激するのか。
林教授が注目したのは、A10神経群だった。A10神経群が脳の損傷によって機能障害を起こしていることが、植物状態の大きな原因になっているとみられる。
そこで、ドーパミン系の薬物によって、機能障害を起こしているA10神経群を賦活化しようという作戦を考えたのだ。
実際の治療としては、アマンタジンとプロモクリプチンというドーパミン活性化薬の投与や、エストラジオールというホルモン系薬とアルギニンの併用投与をしている。
その結果、95年から96年にかけての二年間に、脳低温療法による救命後に植物状態からなかなか覚醒できないでいた五人の患者の回復に成功した。(柳田邦男「脳治療革命の朝」)
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こうしたドーパミン活性化薬やホルモン系薬、アルギニンが私にも投与されたかどうか定かではないが、救急医の話では、三日間の意識不明状態の際、激しいけいれんを起こしていたという。
にもかかわらず、そのとき、以前、このブログでも述べたが、

秋という季節の底に身を横たえ、その心地よい透明な空気とぴたりと合っていたのである。それは、今から振り返れば、あるいは一瞬の至福(ブリス)だったのかもしれない。

などと、人の心配をよそに、甘美な臨死体験を味わっていたことになる。
ところで、高校時代の知人に言わせれば、どうも私の性格が当時とはすっかり変わってしまって、昔の気むずかしい雰囲気が感じられないらしい。
人との接し方が世慣れてきただけだとは思うが、臨死体験以後、あるいはドーパミン活性化薬などの影響が持続していて、生きているだけでハッピーな心境に至っているからなのかもしれない。








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