濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

震災-原発報道斜め読み

2011-04-22 00:31:32 | Weblog
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現在、日本では、震災の復興支援の義援金を募っている。
そして、多額の義援金が集まっているが、この震災以前にすでにあった多くの悲劇を忘れてはならない。
たとえば、サハラ以南のアフリカではエイズ孤児が千九百万人存在し、また、世界中で死んでいく子供達は一日三万人以上で、その一番の死亡原因は下痢性の脱水症状である。
彼らに一パック十円ぐらいの経口補水塩を与えれば、一日間、命をつなぐことができるという。
こうした実情をユニセフはかなりの広告費をかけて訴えてきたが、今回の震災のような共感は日本では得られなかった。
世界のことよりも国内のことが優先されるのは当然だが、義援金を惜しまない我々日本人が、死にゆく最貧国の子供達をこれまで見殺しにしてきたことも確かだ。
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現在、予備校や高校の授業で、今回の震災に関する感想を記すことをを生徒に求めているが、上記はその1つである。
日本人は我々の生命というもの自体が、最貧国の人々の犠牲に成り立っていることを忘れている、忘れたうえで、自分たちのQOL(生きがい)を追求し、国内の被災者にのみ同情を寄せている、そうした欺瞞を鋭く指摘した文章だと思う。

また、過去の悲惨な歴史に比べて、今回の震災とそれに伴う原発事故報道が少し騒ぎすぎだという意見も聞かれる。
たとえば、敗戦で満州や樺太から引き上げざるを得なかった人々の苦労は、今回の福島の被災者の苦労に匹敵する、あるいはそれを凌駕するかもしれないというのだ。
他にも、メディアに大して騒がれることなく、歴史の闇に葬り去られた無名の人々の悲劇も数多くあるだろう。
(かくいう小生にとっても、中学時代に炭鉱が閉山になり、同級生が次々に転校していくのを見送った、そうした悲しい記憶をもっている。)

いずれにせよ、震災-原発報道に関して、少し斜めから読む読み方も必要なようだ。
そんな読み方を教えてくれている1つとして、河野敏鑑「原発事故の悪影響は放射線だけか」(http://synodos.livedoor.biz/archives/1738986.html)が見つかった。
少し引用すれば、筆者はチェルノブイリ事故について

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チェルノブイリ・フォーラム(IAEAやWHO等から構成)が作成した報告書によると、皮肉なことに事故後に自ら村に戻った住民の方が、より放射能の影響を受けていない地域に移住した住民よりも心理的な状態が良かったという。
(ただし、肉体的な状態についてはこの報告書では触れられていないので、元の場所に戻る方が総合的にみて健康を損ねる可能性は否定されていない。)
その理由について報告書では触れられていないが、おそらくは知らない土地で過ごすストレスが健康に悪影響を与えたのではないだろうか。
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と述べている。
健康被害を防ぐための警戒区域の立ち入り規制という今回の政府の対策も、どこか一面的でステレオタイプな反応に過ぎないようにも思われてくる。

ニッポンのメインテナンス

2011-04-15 01:51:32 | Weblog
「がんばれ、ニッポン」というテレビから流される言葉が、どこかむなしく聞こえてくるこの頃である。
そんな中で、福島原発事故の評価がレベル7にまで引き上げられた。
「現代ビジネス」のサイトで、「想定される『最悪の事態』とはどんな事態なのか」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2410)を読み、また、京大原子炉実験所助教の小出裕章氏や反原発の先鋒、広瀬隆氏などのインタビューをYoutubeで聞いてみると、福島原発の現状は予想以上に深刻なようだ。
原発という巨大な利権がからむ事故だから、テレビや新聞報道などではマル秘の部分も多く、そうした部分を暴いているのが彼らの発言だ。
受け取り方によっては、単に人心をあおっているだけのようにも思われるが、小生のような「にわか原発評論家」は、彼らの危機感や真実を伝えたいとする使命感の強さに共鳴するしかない。
最近、高校生たちに原発事故を含めた震災の印象を語ってもらった。
「自分たちにできることは義援金を送ることぐらいしかない」などというステレオタイプなものが多かったが、その姿勢は真摯なもので、頼もしくもあった。
それに反して、いままで原発についてあまり深く考えず、現代物質文明にどっぷり漬かっていた自分が反省されてきた。
ここでは、少し古い記述になるが、死者2名と667名の被曝者を出した1999年の東海村JCO核燃料加工施設臨界事故を論じた村上陽一郎氏の文章を引用しておきたい。

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今後かりに日本が国策を変更して、ドイツのように、原子力発電からの緩やかな撤退を図るとしてさえ、それまでの機構のメインテナンスを確実に維持し、あるいは廃炉、廃棄物などの処理を着実に実行するためには、まだまだ研究と開発に力を注がなければならない領域は豊かに広がっており、優秀な人材を多く確保しなければならないことは明らかである。
とくに国家政策の問題として付け加えておかなければならないのは次の点である。
これまでの技術と産業の関わりの歴史のなかでは、政府が開発の先鞭を付けて、それが技術的に成熟すれば、産業として民間に渡していく、というパターンを、どの国でもとってきたし、日本も明治以来例外ではなかった。
しかし、原子力発電のような国策と直結するような産業では、人材を含むリソースに対する、基礎的な国の支援は恒常的に必要であり、社会的な流行のなかで、その支援を怠ることは、より厳しいしっぺがえしを食らうことになるだろう。
そのとき起こる被害は、一九九九年九月の東海村で起こったそれをはるかに凌駕するものとなることを警告しておきたい。(「科学の現在を問う」)
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筆者は原発の建設自体に対してはニュートラルな立場だが、今日の事態を察知したような意見をもっていたことには驚かされる。
また、この文章からは、丹精込めた、自動車などの「ものづくり」については評価の高かった日本人だが、原発のような巨大装置のメインテナンスやチェックに関しては大した関心を払ってこなかったことがわかる。
職人根性だけではどうにもならない部分は、国策に任せるしかないのだが、その部分がはなはだ弱い。
ここに今日の日本の悲劇の一因があると思う。
ニッポンのメインテナンスを急がなければならないだろう。

放射線の影響は特異的か

2011-04-08 23:42:11 | Weblog
先日のNHK教育テレビの「ETV特集」で、吉岡忍氏が原発被害にさらされる福島県三春町をルポし、同地に住む作家で僧侶の玄侑宗久氏と対談した様子が放映されたが、なかなか見応えのあるものだった。
「想定外」とされがちの今回の震災だが、玄侑氏によれば、人間はしょせん大自然に仮住まいしているに過ぎず、「居候」の身分にもかかわらず、すべてを「想定」できるとするおごりが、現代日本人にあったというのである。
たしかに、宇宙を誕生させたビッグバンなど、そもそも人知を越えた想定外の出来事であり、それによって、地球も人間も存在するようになったわけだから、いかに科学技術が進歩したといっても、人間の考えることなどまだまだちっぽけなものにすぎまい。
地震にしても、東海沖ばかりが「想定」されていたことを思い出すなら、学者たちの方向音痴を証明することになるだろう。
それにしても、より深刻な問題は、天災よりも原発事故という人災だ。
住民を混乱させまいとして情報を隠蔽する体質が、人々をさらなる混乱に陥れていく。
福島の農民が野菜の売れ行きを心配して自殺したことなど、正確詳細な情報が伝えられていたなら、防げたのではないかと玄侑氏は指摘する。
番組では、放射線の被ばくを逃れて公民館に集まる人々の様子、また無人化して、犬がうろつくだけの地域の様子を映していたが、住民の今後の「さすらい」が予感され、こちらも殺伐とした心持ちになった。

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放射線の影響というと、つい放射線でなくては起こらない症状や障害がある、と思ってしまう。
ところが、放射線を浴びると現れる現象や症状はあっても、放射線でしかありえない影響というものはない。
皮膚が赤くなるのはヤケドと同じ症状だし、腫瘍になったり組織が欠けてしまうといった障害も、ほかの原因によっても発生する。
骨髄の疾患として白血病になるという現象も、放射線の影響にかぎったことではない。
消化器粘膜の損傷や出血も、ほかの病気などで観察される。
放射線の晩発障害とされる発ガンにしても、ほかのさまざまな要因で発病することはよく知られている。
このように、放射線障害という言葉は文字どおり放射線の影響としての障害なのだが、その内容は放射線特有の障害とはいえない。
放射線が細胞組織を壊すことによって、ほかの病気でも見られる症状が現れることになる。
こうした点から、「放射線影響は非特異的なものである」というところが特徴となっている。(大朏博善「放射線の話」)
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こうした知識があれば、放射線に対する恐怖心は、少しは薄れるのかもしれない。
生物は古くから放射線(自然放射線)を浴びてきており、それに対する修復能力を身につけてきたともいう。
また、現在のところ、飛散した放射線量はチェルノブイリ事故にくらべて、さほど多くはないようだ。
だが、人体への影響だけではなく、地域の荒廃、さらには人心の荒廃といったものを考えれば、やはり、それは「特異的」で深刻なものにならざるをえない。
住民のトラウマは、半減期の長い放射性セシウムや放射性ストロンチウムのように、長く心に沈潜していくのではないだろうか。