濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

被災者とはだれか、被災地とはどこか

2011-09-25 22:47:02 | Weblog
宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」を読んだ。
「代理外傷」「目撃トラウマ」「共感疲労」「メディア被災」などの語句で矢継ぎ早に心理分析されると、被災者でも支援者でもない自分までもが、今回の「同時多発災害」の立派な被災者の一人だという気にもなってくる。少し引用しておこう。

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 メディアの情報は、距離の混乱を生みます。
直接被災せず、被災地にいなかったからこそ見ることのできた震災の映像は、特に物理的な距離と心理的な距離を混乱させます。
遠くにいるのに、身近で体験している人よりもよく知ってしまった、知るべき人たちにはまだ届いていないであろう情報を、先に知ってしまったという混乱です。
 リアルタイムの映像は、私たちに「知った者」の責任を感じさせます。
知ったからには、何かするべきではないか。
少なくともその情報が役に立つ人に知らせるべきではないか。
けれども、今おきていることなのに、なすすべはありません。
実際は遠く離れ、駆けつけようがないのです。
連絡を取りたい人にも連絡はつながりません。安否を確認したい人がいても、確認できず、焦るばかりで、結局はただ見ていることしかできないのです。
 「目撃トラウマ」という言葉があります。
自分が被害にあわなくても、悲惨な状況を目撃することによっておきるトラウマです。
現実の場面だけでなく、テレビなどの映像によってもおきることが知られており、9・11のツインタワーの崩壊や、米国のスペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ失敗事故の映像が視聴者に与えた衝撃が有名です。
目撃しながらなすすべがないという無力感は心理的負担を非常に高めるのです(PTSDの診断基準によるトラウマ的な出来事の三要素が、恐怖、無力感、戦慄であることを思い出してください)
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こんな一節を読みながら、母の死後のセレモニーの一つである納骨のために、北海道に向かった。
故郷は震災の影響をほとんど受けなかった聖域にも感じられ、幾分、タイムスリップして、ほんの少し前の「健全な日本」に戻ったかのような気分にもなってきた。
さて、父に加えて母も喪って廃屋と化した実家で、家を売ろうかという案も兄弟の中から出て来たのだが、そこはさすが、被災地に近い山形の義兄である。彼からはこんな言葉が発せられた。
「いつ被災者が転居を希望するかもしれないから、売らずに残しておいたほうがいいよ」
これに対して姉はすぐにこんな言葉を返してきた。
「でも、泊(泊発電所…北海道古宇郡泊村にある北海道電力の原子力発電所)の原発からそんなに遠くはないわ」
どうやら、北海道も「聖域」とはいえないようだ。
だれもが被災者であり、どこもが被災地であるという想像力が必要なのかもしれない。
コメント
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