濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

明るい廃屋

2015-04-18 20:02:18 | Weblog
保坂和志の「夢のあと」というのは、平凡な日常が淡々としたタッチで描かれているだけの、まったく人々に知られていない小説なのだが、読後、妙に気になった作品だった。
あらすじをいえば、主人公とれい子は、笠井さんが小さい頃に通い、今は取り壊されることになってしまった幼稚園へと案内される。
六月の明るい日が射す園内に入ったときの様子は次のように描写されている。

廊下の隅に小さな、本当に小さくて積木のような椅子ががらくたの山みたいに積み重ねられていて、椅子の小ささに驚いて少しのあいだそれを見ていたら、ここがまちがいなく捨て置かれた場所なのだと思えてきた。
廊下に並んだ手洗い場も、これも子どもたちが手を洗ったりコップで水をくんだりするのに合わせた低さで、しかもそれがステンレスではなくて小さなタイルを貼った流しに真鍮の蛇口がついているというのが三十年前につくったものなのかそれより前なのか、とにかくいかにも昔のまだ貧しかった頃の日本の様子をしていて、なんていえばいいのか、普通に目にしている時間とか時代とかのリアリティのようなものから外れていて、全体が一つの夢のあとのように感じられてきた。


そして、「全体が一つの夢のあと」だという主人公の感想を聞いた笠井さんは、
「そういうのって、なんか、簡単すぎるじゃない」
と答えて、かすかな不満を漏らす、といったストーリーである。

ここで、かすかな不満を持つ笠井さんのために、「簡単すぎ」ない方向で考えてみることにしよう。
幼少期の身体感覚を思い出させる小さな椅子とレトロな手洗い場から醸し出される軽い違和感や喪失感、「過去にあったもの」と「現実にあるもの」との交錯というように、六月の午後の日射しを浴びた明るい廃墟は、実在の光景よりも雄弁になにかを語り出してくるが、主人公も笠井さんもその実態をうまく言い表せないでいるのだ。

そうした事情について、佐々木中は次のように述べている。

ここに椅子がありますね。特に破壊などしなくても、十年後、この椅子は古び、変わっているでしょう。
だんだん朽ちていく。この十秒でも、一秒でも、だんだん朽ちていく過程の最中にあることは変わらないわけです。(中略)
Of course all life is a process of breaking down. 
スコット・フィッツジェラルドは「いうまでもなく、すべての生とは一つの崩壊の過程である」と言いました。
われわれは崩壊の過程を生きているんです。
というよりも、この崩壊の過程こそが生なのです。
もっと正確に言えば、「崩壊の過程」こそが結果として「生」と「死」の区別を産出し続けている。(「踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ」)


どうやら小説「夢のあと」の核心部分に肉薄してきたようだ。
私たちは、かすかな、そして穏やかな「崩壊の過程」を生きているのだ。
さらに私見を加えれば、こうした生の本質は時代状況と共鳴して、かすかな不満や不安、不如意を感じつつも、それを明確な危機としては受容できないでいる現代日本人の心象風景とも重なってくるように思われる。

そこで、最後に、もう一歩、光と影のコントラストがよりはっきりした詩を紹介してみよう。
旧ソ連、スターリンの圧政時代に息子がラーゲリ(強制収容所)に入れられることになったのを知ったときの女性詩人アンナ・アフマートヴァの作品(内村剛介訳)である。

息子の判決を知って

そして墜ちた ことばの石が。
まだ生きているわたしの胸に。
平気よ、覚悟していたもの。
なんとかやってみるわ。

きょうのすることの多いことーー
思い出という思い出は みなつぶしつくさねばならず
心を石に固めねばならず
生きることを あらためて覚えねばならず……

でないと……夏の木立の火照るざわめき。
窓の外はお祭りみたい。
ひさしく感じてきたことーー
この明るい日射し それに この廃屋。(一九三九年夏)


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若者の光と影

2015-04-05 00:04:35 | Weblog


三月某日

三月四月は人事異動の季節、そして受験生にとっては卒業と入学の季節だ。
予備校でも合格者の祝賀会を毎年行っているが、今年はどうしても気になっている多浪生がいた。
成績は伸び悩み状態、むしろ失速気味で、今年も合格は厳しいと思ったが、一縷の希望を抱き、祈る気持ちで祝賀会に出席することにした。
果たして、その生徒は現われなかった。
合格者の高らかな談笑が会場に響く中で、他の講師から彼の消息を聞くと、もう予備校にはいられないということで、地方の実家に帰ったという。
さて、以前、私は小論文の授業で、次のような問題を口頭試問形式で出したことがある。

***************************************************************************************************
あなたが救命救急センターの担当医師なら、植物状態になった患者の奥さんの次の言葉にどう答えますか。

「先生、どうして、どうして主人を助けたんですか、こんな姿にしかならないんだったら、いっそあの時何もしないで死なせてくれた方がよかったのに……もう先生、殺してしまって下さい、私も……私も死にますから!」
***************************************************************************************************

そのとき、ういういしい頃の彼はこう答えたものである。
「奥さん、辛いお気持ちはわかりますが、そのようなことをして、ご主人が喜ばれるとお思いでしょうか。そして、天国で再び、お二人は幸せに再会できるとお思いでしょうか。今を共に生き、共に苦しむことこそ、夫婦ではないでしょうか。」

その内容はともかく、彼の答え方は実に堂々としていて、およそ十代の受験生とは思えない冷静かつ温和な態度であり、教室では誰からともなく拍手が起こったほどだった。他の生徒が、
「奥さん、気持ちを落ち着けて、お茶でも一杯」
などと答えていたのにくらべれば、内容的にも段違いの差である。
そこまで立派な回答を述べた彼がなぜペーパーテストでは不振だったのか、彼のような人間こそ、医師にするべきではないのか、自分の非力を嘆きつつ、また彼の再起を願いつつも、今日の医学部の入試制度に若干の疑問を感じている。

 


四月某日

長く音信不通状態だった教え子の女性の顔が、フェイスブックの「知り合いかも」で映し出されると、フェイスブックの情報探索能力に驚かされる一方、その面影の懐かしさにひたることになる。かつてセリーヌは

「偶然」とは街だ。限りなく真実をはらみ、変幻する街、それでいて書物より単純な街。

といったが、今日、フェイスブックはたしかにもう一つの「街」の様相を示している。
サイバーシティーの交差点ですれ違いざま、偶然にも懐かしい顔をみつけたというわけだ。
すぐさま彼女に連絡を取ると、結婚し、一子の母となり、もう一人の誕生も間近だと近況を伝えてきた。
私は「おめでとう」を三回も四回もいわざるをえなくなったのである。

彼女は慶応SFCをAO入試で受験したいという生徒だった。
AO入試のハシリだった頃、まだAO入試に関するノウハウなど持ち合わせていなかった私は、彼女の提出資料の精査に懸命になった。
そして、その資料の中に、当時まだ日本に上陸していなかったファッションブランドのベネトンの広告戦略についての言及を見たとき、かすかな手応えを感じた。
そのベネトンの広告戦略とはどんなものか、インターネットに掲載されたコメントを紹介しておこう。

1980年代末からのベネトンのポスターやカタログには、基本的に商品は登場せず、差別・紛争・難民・死刑制度といった問題をとりあげ、一枚の写真によって訴えているのが特徴です。人権問題をテーマにしたものが多いため、国連と共同でキャンペーンを展開しているのも多くあります。こうした広告スタイルは、ディレクターのオリビエロ・トスカーニの「広告はまやかしの幸福を描くのではなく、企業の社会的姿勢を示すものであるべきだ」という持論を具現化したものといえます。

そして彼女は見事栄冠を勝ち取った。
あれから十五年ほどの歳月が経つ。
決して才走った生徒ではなかったが、時代を先取りし、颯爽とした当時の姿のまま、順調に人生を送っているようだ。



……若者の光と影、こうしたことはいつの時代でもあるのだろうし、また、光と影はいつ反転するのかもしれないが、春のさなかに、人の生きることの厳しさと運命の酷薄さをつくづく実感する。
最後に無門関の序文を引用して、彼らに捧げよう。

大道無門 千差路有り
此の関を透得せば 乾坤に独歩せん

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