六月も、はや半ばを迎えようとしてきて、さすがにうっとうしい日々が続いている。
またたちかへる水無月の
嘆きを誰に語るべき
沙羅のみづ枝に花さけば
かなしき人の目ぞ見ゆる
上は、先日、ある方からのメールに添付されていたもので、芥川龍之介「相聞」の一節だというが、芥川にこんな文語詩のあったことは寡聞にして知らなかった。
とはいえ、時が過ぎ、去年のあの頃と同じ季節が再びめぐってくることについては、「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず」という詩もあるように、誰しも、深い感慨が浮かんでくるのを禁じえないのではないだろうか。
私事になるが、「かの人」が身まかって、一年がたとうとしている。
すっかり遠ざかってしまったという思いがする一方、その死に接して、割り切れなかったものは、いまだにわだかまったまま残されているような気もする。
折口信夫は「鳥の声」というエッセイで、
信濃なる すがの荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時すぎにけり
という「万葉集」の歌を取り上げ、どんな時が過ぎ去ってしまったのか、肝心なところがわからない、「春に帰る約束だったのに、ほととぎすが鳴いているのを聞くと、もう、その時も過ぎて、夏が来てしまった」と解釈をしても、まだすっきりしないとして、
昔の歌は、深く考えて行くと九分九厘まではわかるのですが、ごく僅かなところがわからないで残るのが常なのです。そして、実は、それを明らかにしきれない部分が、次の時代へその歌の伝わってゆく生命になるので、ある時代に解釈が固定してしまって、生きてゆく部分のなくなった歌は、伝わって行きません。
と述べている。まさに卓見というべきで、「鳴く声聞けば」と「時すぎにけり」との間には、沈黙という無限の自己表出、無限のポエジーが隠されているのではないだろうか。
だとすれば、私の中で割り切れず、わだかまったままで残っている思いも、次の時代が持ち抱えていくしかない何かとして、あるいは伝わって行くのかもしれない。それはまた、「かの人」が、私のうちで、なお、かすかに息づいている証のようにも思われてくるのだが・・・
そろそろ紫陽花の咲く頃である。せめて、近くの公園に、うっすらと色をつけた花を見にいこうかと思っている。
IVANO FOSSATI - C'è tempo
またたちかへる水無月の
嘆きを誰に語るべき
沙羅のみづ枝に花さけば
かなしき人の目ぞ見ゆる
上は、先日、ある方からのメールに添付されていたもので、芥川龍之介「相聞」の一節だというが、芥川にこんな文語詩のあったことは寡聞にして知らなかった。
とはいえ、時が過ぎ、去年のあの頃と同じ季節が再びめぐってくることについては、「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず」という詩もあるように、誰しも、深い感慨が浮かんでくるのを禁じえないのではないだろうか。
私事になるが、「かの人」が身まかって、一年がたとうとしている。
すっかり遠ざかってしまったという思いがする一方、その死に接して、割り切れなかったものは、いまだにわだかまったまま残されているような気もする。
折口信夫は「鳥の声」というエッセイで、
信濃なる すがの荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時すぎにけり
という「万葉集」の歌を取り上げ、どんな時が過ぎ去ってしまったのか、肝心なところがわからない、「春に帰る約束だったのに、ほととぎすが鳴いているのを聞くと、もう、その時も過ぎて、夏が来てしまった」と解釈をしても、まだすっきりしないとして、
昔の歌は、深く考えて行くと九分九厘まではわかるのですが、ごく僅かなところがわからないで残るのが常なのです。そして、実は、それを明らかにしきれない部分が、次の時代へその歌の伝わってゆく生命になるので、ある時代に解釈が固定してしまって、生きてゆく部分のなくなった歌は、伝わって行きません。
と述べている。まさに卓見というべきで、「鳴く声聞けば」と「時すぎにけり」との間には、沈黙という無限の自己表出、無限のポエジーが隠されているのではないだろうか。
だとすれば、私の中で割り切れず、わだかまったままで残っている思いも、次の時代が持ち抱えていくしかない何かとして、あるいは伝わって行くのかもしれない。それはまた、「かの人」が、私のうちで、なお、かすかに息づいている証のようにも思われてくるのだが・・・
そろそろ紫陽花の咲く頃である。せめて、近くの公園に、うっすらと色をつけた花を見にいこうかと思っている。
IVANO FOSSATI - C'è tempo