濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

紫陽花の頃

2008-06-30 23:39:27 | Weblog
ひとりの寂しい人が死んだ。

その人が「死にたい」という言葉を洩らすようになってから、

すでに15年ほどの歳月が経っていた。

病院での治療も拒んだ末の

無残な死だったらしいが、

私には、15年かけての緩慢な自死のようにも受けとめられた。



もっと優しくすれば……

もっと親しくすれば……

凡庸な思いを超えた向こう側で

いつも苦しい呼吸をしていた人だった。

生きるにはナイーブすぎた?

生きるには不器用すぎた?

いやいや、今となっては、そんなことはない。

懸命に非望を重ね、

立派に本懐を遂げたというべきではないか。

涙も出ない、寂しい六月の夜の底で

私はせめて、一輪の花を手向けることにした。

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通夜の日も、葬儀の日も

六月にしては冷たい雨が降り続けた。

雨音を聞いているうちに、ふと、私はその人の昔の姿を

──紫陽花の咲くそばで、傘をさして優しく微笑んでいる姿を、

思い出していた。


出棺の正午、

私は私の位置で短い黙祷を捧げた。

もうこれ以上、うなされることもない

至福の眠りにつくことができるようにと。

そして、私は静かに余白の街へと向かった。


忘れえぬ人々

2008-06-21 00:47:50 | Weblog
しばらくブログの更新が途絶えていたが、何を隠そう、我が母校、三井美唄小中学校卒業生の還暦同期会が北海道で十月に開催されることになったのだ。出席は丁重に断ったものの、案内状の往復葉書とHPの作成を頼まれ、せめての罪滅ぼしにと、作業に没頭することになった。クールでホットな(!?)サイトは以下のとおりである。ご笑覧いただければ幸いである。

還暦浪漫 in 美唄
http://www1.c3-net.ne.jp/60-mitsuibibai/

さて、裏方の仕事に没頭したにもかかわらず、なぜ参加しようとしないのか、微妙な自分の心のうちを少し語ってみることにする。 
確かに、卒業アルバムや住所・勤務先を記した名簿などを改めて眺めていると、さまざまな思いがよみがえってきて、しばし時が経つのを忘れてしまう。名簿には、よく遊んだ幼な友だちの名、お礼をしなければならない恩師の先生たちの名が並んでいる。しかし、真に懐かしいと思い、もう一度逢ってみたいと思う人にかぎって、その名は見当たらず、消息不明になっているのだ。彼らは、当時から既に薄幸のかげりを感じさせ、私にいやおうなく人生ののっぴきならない真実を味あわせてくれた──たとえば、家庭の事情で叔父・叔母の家に引き取られてきた女生徒だったり、少年鑑別所から出てきたばかりの、学生服を端正に身にまとった寡黙な男生徒だったりする。
私が今回参加を固辞した理由をあえて述べれば、そうした人たちへの、そこはかとない、だが切実な思いが、私の中にまだ残っているからで、同期会という晴れがましい場に出て、単純な懐旧の念に支配されれば、そうした思いが一気に消えてしまうのではないかと思ったからである。
もし、そうした私の思いに似たものを強いて探せば、国木田独歩が「忘れえぬ人々」で述べている次のような一節かもしれない。

僕は今宵のような晩に一人夜更けて燈に向かっていると、この生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催して来る。そのとき僕の主我の角がぼきり折れてしまって、何だか人懐かしくなって来る。色々の古い事や友の上を考えだす。そのとき、油然として僕の心に浮んでくるのは即ちこれらの人々である。そうでない、これ等の人を見た時の周囲の光景の裡に立つこれ等の人々である。我れと他(ひと)と何の相違があるか、皆これこの生を天の一方地の一角に享けて悠々たる行路を辿り、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起って来て我知らず涙が頬をつたうことがある。その時は実に我もなければ他もない、ただ誰もかれも懐かしくって、忍ばれてくる。

独歩が「忘れえぬ人々」として取り上げた人物とは、風景や生活にとけ込んだ無名の人々ばかりだった。それと同じように、私の「忘れえぬ人々」も、小中学校時代のヒーローでもヒロインでもなく、アンチヒーロー、ヒロインでさえなく、ひっそりと人生の不幸を抱えて、無言のまま、ともに無窮の天に帰っていこうとする人々だったからこそ、彼らの姿は、当時の時代背景や雰囲気と渾然一体となって、私の思い出の一部になっているのではないだろうか。
こう考えてくれば、同期会など、毎日、自分の心の中で繰り広げれば、それで足りるのであり、その余ったエネルギーは、むしろ今後の我々の行方を考える時間にあてるべきではないだろうか。少し感傷的かもしれないし、へそ曲がりかもしれないし、ムキになっているのかもしれないが、いまはそんな気がしている。


海を渡る

2008-06-01 23:39:44 | Weblog
村山七郎「日本語の起源と語源」によれば、

「渡る」とは、原始オセアニア語(ポリネシア・メラネシア語の祖形)のwasaに由来する「ワタ」(=海)を動詞化したものだ

という。そういえば、「わたつみ」(海の霊、神)などという言葉もある。
それにしても何という壮大なロマンだろう! 伊良湖崎でヤシの実が漂流しているのを見て、やがて「海上の道」を構想した柳田国男の感慨に近いものがあるのではないだろうか。言葉の起源を探ることは、日本人の起源を探ることでもある。まだ見ぬ何かを求めて、島から島へ、少しの水と食料を小舟に積み込んで、危険を冒してでも<海を渡る>……やがて彼らはヤポネシアにまで渡ってきた。もちろん、彼らを突き動かしていたのは、土地を耕し、稲を植え、家族を増やしていくという現実的な欲求だったのかもしれないが。

人は際限もなくヤシの実のように海上にただようていられないのみならず、幸いに命活きてこの島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻娘を伴うて、永続の計を立てねばならぬ(柳田国男「海上の道」)

柳田国男の説が十分生活者的・常民的なので、私は、その代わりに<海を渡る>ことには、やはり未知へのあこがれがあったと強調したい。あるいは、以前に紹介した石原吉郎の詩のように、
「愛することは/海をわたることだ」
とうそぶきたい。にもかかわらず、私を含めた現代人はこうしたロマンチシズムと無縁になってきていることもつくづく感じてしまう。

ちなみに、少し長くなるが、福永武彦の見事なエッセイを紹介しておこう。

先ごろ「海市」という小説を書いたが、そこでは二人の男女のそれぞれが持つ海のイメージがまるで違ったものであり、そして二人の間にもまた海があることを示したいと思った。彼等はその海を決して渡ることが出来ない。なぜならばこの海は架空であり、また不可知であり、記憶をその底に沈めたまま、彼等の運命を先天的に決定しているからである。そして彼等は、彼等が魂の中に持っている海が如何に恐ろしいかを、決して理解することは出来ないのである。
私にとって、海は常にある。潮風は心の上を吹いて遠い海の呟(つぶや)きを伝え、砂と貝殻とは足許に砕け、鴎(かもめ)は飛沫の上を舞って悲しい声で呼ぶ。私は海の渾沌を愛する。原始の海のすさまじい呼び声を聞く。それと同時に、私は人間的なさまざまのことを考え、遠い祖先を偲(しの)び、妣(はは)の国を想い、妣を想う。そして私の内部の衝迫に促されて、海を見に行く。太平洋を、日本海を、また瀬戸内海を、オホーツク海を。海には違った風景があり、それは人の心のように複雑であり、美しいもの醜いもののすべてを蔵している。私はそこに何を見るのだろうか。恐らくは私が昔から見て来たもののすべて、人間的渾沌のすべてを、この海という自然の刻々に変る風景の中に、一つの煮つめられたエッセンスとして、眺めるのであろう。そして私は永遠というものが人間の手の届かぬところにあることを、冷たい水に指先を洗いながら、感じるのであろう。(「海の想い」)

渡ろうとしても渡れぬ渾沌とした海を過剰に抱いていたため、少し前の我々は熱く孤独だった。だが、「渡る世間は鬼ばかり」の現代では、自分の心に海を感じることすらないというべきか。だとすれば、大澤真幸「不可能性の時代」(岩波新書)にあるように、
<「現実」からの逃避>ではなく、<「現実」への逃避>
が顕著な現代において、あえて、ロマンを求めるのも、閉塞感を克服する一つの方法かもしれない。

反歌「潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」