濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

六年後の敗北考

2012-09-29 21:43:58 | Weblog
前回のタイトルが「三度目の敗北」だったため、ある方から安否を心配するお電話をいただいた。
誠に有り難いことで、大いに感謝するとともに恐縮しているが、存外、「敗北」をかみしめながらも無聊な生活を送っている。

「三度目の敗北」とは何のことかと思う読者もいるかもしれないから、ここで少し説明すると、一度目は「家庭的な敗北」であり、二度目はこのブログでも多く取り上げている「身体的な敗北」であり、三度目の敗北は「経済的な敗北」である。
かくも多様な敗北を喫してきたのだから、私は「敗北のプロ」「伝説の敗北者」でなければならない。
そして、そうした矜持を持ちつつ、残る人生、敗北のいわれを問うていくしかないのだろう。

それにしても、二度目の「身体的な敗北」からすでに六年が過ぎてしまった。
透明な秋の空気の中に倒れ臥してから六年……歳月の過ぎることのなんと速いことか!
多くの人に励まされ、「何かをするために生き返ったのですね」といわれても、その「何か」がいまだにうまく見出せないでいる。
このままだと、フーコーのいう「生権力」(人間の生命に配慮し、人間を有用かつ従順に生きさせようとする権力)にからめとられてしまうだけだろう。

ここで、一人の女性の運命を紹介してみたい。
ヘンリエッタ・ラックスは子宮ガンの疑いから、病理検査のため組織の一部を切り取られたが、彼女がガンで死んだ後も、その細胞は旺盛に増殖し続け、研究用にこれまで培養された細胞は、推定で計5000万トン超、今日でもその細胞(ヒーラ細胞)の子孫は研究用に購入が可能だという。
こうした事態を受け、美馬達哉は「〈病〉のスペクタクル」で次のように指摘する。

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もっとも重要なことは、ヒーラ細胞という培養細胞系列の樹立が、ひろがりつつある人体の資源化の起源の一つとなったという点だろう。
人体(とその一部分)が、人間主体という存在から切り離されたまま、長期に(半永久的に)維持されることが可能となったために、これまで疑われることのなかった人間や生命をめぐる定義や境界は流動化し、「たんなる生命」の問題系を現代的なポリティクスの中心へと押し上げつつあるのだ。
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ヒーラ細胞──この奇妙な不死の生命のかけらに対する当惑、これは生き存えてしまった私の抱えた「敗北」とも通底しているような気もする。
ヒーラ細胞に複雑に同調して、「敗北」の定義や境界までが流動化し、対応を難しくしている。





3度目の敗北の弁

2012-09-06 23:22:19 | Weblog
これが3度目の敗北だった。
それで、その敗北の原因は?
現代の経済社会が、関係の基礎をなすべき信頼によって仲立ちされず、利害損得によってのみ動いていくものであるにもかかわらず、安易に他者の愛情や友情を期待しすぎていたからである。
現代の商品は、個々人の間の信頼関係の喪失ないし欠如を前提として、そこに介在し流通する。そしてそれが流通すればするほど、その不信感を増幅しつづけ、大量に投下される。──そうした非情なメカニズムに対して洞察を加えることがなかった、逆に言えば、「個々人の間の信頼関係」の本当の意義に気づかなかったからだ。

それにしても、何と明るく可能性に満ちた敗北であることか!
こんなときこそ、他者からの思いがけぬ温情を感じるときがある。
どんなささやかな温情でも、それは希望へのエンジンになりうるのだ。
これは東日本大震災以降、特に感じられるものかもしれない。
ある論者は、日本が今回のオリンピックの団体競技で好成績を示したのも、「絆」の大切さを自覚したからではないかと指摘している。

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「人間という生き物は、ピンチな事態や突発的な出来事が起こったり、危機が迫ったりしたら、お互いにカバーし合って助け合います。
それは人間こそ社会的生き物であるということです。」(石川憲彦「心の病いはこうしてつくられる」)
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いやいや、こうしたことすら、利潤を求める現代人のしたたかな心によってもたらされているのかもしれないが・・・

ところで、敗北するにしろ勝利するにしろ、舞台となる現代はリスクに満ちた社会である。
こうした状況で、今後、どう動くべきなのか。

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リスクファクターとは、安全でないものを排除するということだと思います。
でも、実際には、事故が起きるときは殆ど安全だと思っているときです。
一時期、てんかんの子どもや喘息の子どもは学校のプールに入れてもらえなかったのですが、それは安全が確保できないからという理由でした。
ところが、安全ではないと大人が考えているときは、まず事故が起こらないのです。
というのは、人間の存在自体が本来、安全でないという大前提を思い出すからなのです。
ところが、リスクファクターを除けば安全な確率が高まるという安全神話に取り憑かれると、人間が人間でなくなるのです。
つまり安全だと思っちゃった瞬間、安全性は低下するという、まさにパラドクスがおこる。(前掲書)
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ここでも東日本大震災と福島原発問題の一面が思い出されてくるような指摘がされている。
ともあれ、敗北した後も、ますますイバラの道を歩いていくのだという自覚があれば、逆に「安全」に生活できるようになるということなのかもしれない。
それにしても道は果てしなく遠い・・・