濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「音」を「楽」しむということ

2009-07-08 09:39:11 | Weblog
池上彰氏は7月6日の『朝日新聞』夕刊「新聞ななめ読み」で、最近、ピアノコンクールに優勝した辻井伸行氏について『朝日新聞』『読売新聞』二紙の文化欄の文章を引用しながら、

我々は『全盲』のレッテル抜きで、芸術家としての辻井さんの今後を冷静に見守っていくべきではないだろうか…辻井さんは、点字楽譜を使わず、左手と右手を別々に録音した音源を聴いて曲を覚えるそうです。この方法だと最初に他人の演奏を介して音楽を触れることになる…これには、他人の音楽の解釈をコピーにしてしまう危険がつきまといます。コピーの危険から逃れるには、音楽を自らの内に沈潜させる並はずれた努力が、これからもっと求められるだろう

と述べている。
じつは辻井氏の演奏家としての技量を疑問視する声は以前にもあって、ある友人は、ピアノ指導の専門家である奥様からの受け売りだと思うが、「彼のピアノは聴きづらい」との印象を私に伝えていた。そこで、念のため、知人の作曲家に尋ねたところ、やはり異口同音の返事が返ってきて、コピー音源がそもそもあまり上質ではなかったのではないかという見解を示していたのである。

ノリが第一のジャズピアノにすっかり汚染されている私の場合、辻井氏の演奏についてコメントする資格など、まったくないのだが、辻井氏がここまで時代の寵児に祭り上げられたメカニズムについては多少興味がある。
そこで、想像をたくましくすれば、親の過剰な愛や期待、音楽家やメディア関連など取り巻きのさまざまな思惑、そして閉塞した時代状況に光明を求める一般オーディエンスの同情やら欲求やら、こうしたものが相乗効果をもたらし、大きなムーヴにまで発展しているようにも思われる。このとき、辻井氏の障害は、いわばリバレッジ(てこ)の働きをしているのかもしれない。だが、そうした事情に彼の若い才能がもみくちゃにされてしまうのでは、あまりに悲惨である。

白川静『字統』によれば、そもそも「音」という漢字は、神のおとづれ、おとないを示すものであり、また「楽」は神を喜ばせる鈴を表しているという。日本でも、「管弦の遊び」といえば、神を遊ばせることだったはずだ。今回の動きの背景には、そうした神との交信という要素を失った現代芸術の一面が見え隠れしているのではないだろうか。
『音楽社会学』を著したマックス・ウェーバーは、もともと宗教的(非合理的で神秘的な)性質をもっている音楽のうち、近代西欧音楽だけが、なぜ独特の合理化を果たしたのか、という問題提起をし、そこにピアノの大量生産と調律(十二音平均律)の固定化など、資本主義の浸透を指摘していたという。

とすれば、原点に戻って、神との交信のツールとしての音を楽しむという境地に向かうことが、辻井氏の「音楽を自らの内に沈潜させる並はずれた努力」にもつながることになるのではと思うが、どうだろうか。