濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

move over

2010-12-28 23:40:40 | Weblog
弔問のため、S先生のお宅を久しぶりに訪れることにした。
奥様は、がんであることを誰にも知らせずにきた7年間の闘病の末、肺に転移しての死だったという。
私とほぼ同じ年齢だから、ずいぶん足早に逝去したものである。
S先生にとっても、人知れぬ介護の日々だったのではないかと想像する。

奥様は九州大牟田出身で九大文学部を卒業し、二人のお子さんに恵まれたが離婚、一人で会計事務所を切り盛りしていたとき、S先生と出会い、再婚する。
先生もまた事件の渦中にいたこともあり、そうした豊富な(?)経歴の持ち主であるせいか、ご夫妻は私にとって最も良き相談相手であった。
「九州男児」という言葉にならっていえば、「九州おごじょ」である奥様はまた凛として、細かな心遣いのできる方で、私などは多く励まされた口だ。
訪問した日、私たち取り巻き連中が来たときのために、といって奥様が死の前に用意されていたというスペインのワインを先生と二人で飲み干した。
「良き妻だった」とは先生の述懐の言葉で、聞く者としては「ご馳走さま」というほかない。

いくぶん、当てられたせいもあったのか、珍しく相当酔って帰宅することになったが、家にたどり着いたはいいが、家のカギが見つからない。
しかたがないので、近くの安旅館に泊まることにした。
どうも枕が変わると眠れないたちなのか、睡眠薬代わりに深夜のテレビをつけたら、BSで若死にしたジャニス・ジョプリンのコンサートをやっていた。
床が微妙に揺れて建て付けの悪い安旅館で、しわがれ声のジャニスにブルースやロックを歌われたなら、たまったものではない。

そんなわけで、Youtubeのジャニスの名曲move overを奥様の霊前に捧げたいと思う。
ちなみに、move overには、席を譲るなどの意味もあるようだ。
席を譲って、早々と天国にまで行くとは!

今年最後のブログ更新であるが、訃報にはじまり訃報に終わったような一年だったような気がする。
来年は明るい話題が少しは多くなりますように。

anis joplin-move over


星の子(聖夜に)

2010-12-25 02:00:25 | Weblog
先日、日本のブリーダーの草分け的存在のK氏の招待を受け、ジャパンドッグフェステバルを見に行った。
さすが、日本中のワンちゃんの大集合で、なかには、ハッとして立ち止まるほど毛並みの揃った名犬もいた。(向こうが気づいたかどうかは定かではないが・・・)
いま、「アニマル・ウェルフェア」という言葉があるという。「動物愛護」とはちょっと違った「動物福祉」という意味であり、動物の幸福や生きがいに配慮すべきだという主張で、動物でもQOLを追求すべきだとする考え方のようだ。
日本人は犬猫のペットだけをかわいがるようだが、「アニマル・ウェルフェア」は、むしろニワトリ、馬、牛など、食肉用の動物の残虐な飼育法の反省から生まれた概念らしい。

さて、いま読んでいる大井玄『環境世界と自己の系譜』に、仏教の唯識思想の「一即是多、多即是一」(宇宙はただ一つの塊から誕生し、膨張して何千億の小宇宙に分かれた。にもかかわらず、それらはすべてつながっており、すべてはエネルギーの一つの様相にすぎない)という言葉に触れたこんな一節がある。

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私たちの身体の三分の二は、水素原子二つと酸素原子一つの水分子によって構成される水。
水素原子はビッグバンの直後に誕生し、現在でも宇宙物質の大部分を占めるが、その原子核.陽子の寿命は一〇の二三乗年(千億年の千億倍の百億倍)であると計算されている。
とすれば、私たちの身体の水素原子には、コスモス誕生以来の歴史がある。
しかも、巨大な星の中心では核融合が鉄にいたるまでの原子を創る。
しかし鉄より質量の大きい元素は、星の大爆発による死のさい、途方もない圧力があってはじめて誕生する。
とすれば、私たちの身体の構成成分で、鉄より質量の大きいセレンや亜鉛は星の死によって私たちに伝えられたものだ。
星の誕生・成長・老化・死がなかったならば私たちは存在していない。
地上のすべての生物の誕生・成長・老化・死は、星の誕生・成長・老化・死の厳密な意味でのミニアチュア版だ。
つまり私たちはすべて「星の子」なのである。
星の死によって飛散した宇宙間物質は引力などの力により集合し、ふたたび星となる。
ビッグバンで生じたエネルギー、したがって原子の数が一定であるなら、新しい星が誕生するためには星の死がなければならない。
宇宙はリサイクルにより星を誕生させている。
私たちの老化・死もまさにつぎの誕生・成長のためにある。
私の身体を構成する水素原子はだれのお古であったのか。
聖徳太子か織田信長かあるいはジンギスカンだったろうか。
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どんなに憎い者も愛すべき者も、はたまた死者も生者も、すべてがつながっているということになると、なんとなくほっとするような、釈然としないような、微妙な気分だが、それでも「星の子」とは、クリスマスイブの夜にぴったりの、気宇壮大でロマンティックな言葉である。
人間だけではなく、お犬様をはじめとするアニマル群もほぼ水の産物だから、すべて「星の子族」の一員であり、私の体の水素原子が、パトラッシュやハチ公のお古という可能性もあるのだ。
そんなこんなで、今夜は、サンタさんから、犬のぬいぐるみでも贈られてくるのではないかと期待しつつ、床に就くことにします。

ボケの花咲く

2010-12-10 11:03:32 | Weblog
高齢というトンネルに入ると、そこは痴呆病棟で、頭が真っ白になりそうだった。

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新田正三さん(八六歳)は気のいい好々爺然としているが、観察者を自分の娘と思い、沢井さんを妻だと思いこんでいる。
あるとき観察者が大学院での指導教官を病棟につれて行くと、彼はすぐさま近づいてきて「かおり(彼の娘の名前)、お客か」と聞く。
自分の先生であることを告げると、こちらを見ている妻(沢井さん)に向って、「おい、お茶っこ、お茶っこ」と命令する。
しかし沢井さんは別の男性を夫と思っているから彼の命令には応じない。
「チンプン、カンプン」となかば呟きながら遠のいてしまった。
彼は「妻の不服従」にあって、バツ悪そうにお客様に頭をさげ、それでもめげずに今度は「おい、菓子もってこい」と指示するが、当然これも無視される。
彼は「まんず、なんぼ気が利かない」と気まずそうにお客様を見るので、客もそうそうに退散せざるをえない。
彼は「お茶っこも出さないで失礼した」と、すまなそうに頭を下げた。
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たしかに、私にしても「チンプン、カンプン」ではあるが、情動的なリアリティは十分ある。いまどきの若者なら「リア充」などといって喜ぶことだろう。
これに対して、観察者(阿保順子北海道医療大教授)は次のように分析しているという(仮想世界の医療人類学的考察」)。

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第一に痴呆状態にある人びとの病棟生活は、若いころの生活の「再現」ではなく、かれら自身が「自分で構成した虚構の現実」を今、生きている。
第二に、無関係の人を自分の夫あるいは妻と思いこむ人間関係の形成は、自分が「自分自身であることを確認させてくれている」という。つまり、無関係な人たちの集団にほうりこまれるという訳のわからぬ情況では、当然不安が生ずる。したがって、自分と他者を既知の関係性のネットワークに定位させれば、混乱のなかで生ずる不安も鎮まるだろう。心理上、自己防衛的意味合いがあきらかである。
第三に、自分の「妻」と信じている女性が自分の命令に不服従でも、当惑はするが怒らない。つまり一方的関係で事足れりとしている。それは、もしこの虚構の人間関係を壊してしまえば、「感情において自分をしっかりと確認させてくれる妻や夫」という存在を失ってしまうことにほかならないからだ。深入りすれば、せっかく創り上げたバーチャルリアリティーの世界が消滅してしまう。
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以上、大井玄「環境世界と自己の系譜」からの孫引きであるが、筆者(内科医、元国立環境研究所所長)も1935年生まれで、すでにボケが始まっているという自覚は十分あるらしいから、なかなか迫力のある文章になっている。
老いが人間の熟成などと考えていた者からすれば、どこか情けなく、わびしい気もするだろうが、これが老いの自然な成り行きなのかもしれない。たとえ仮想世界であっても、QOLが高まれば、それでいいとも思う。
私などは先日の同級会のことを思い出して、我々も十年もすれば同じような場面に遭遇するのではないかと危惧し、かつワクワクしている次第である。