濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

草食系の死生観

2009-05-24 13:59:56 | Weblog
「死ぬのって、なかなか難しいものなんだ」

これは、我が愛しき甥っ子の実感のこもった言葉だが、折口信夫は「上代葬儀の精神」という講演の中で、

いったい、死ぬということは神道ではどう扱ってきたか、死は現実にはあることだが、神道の扱い方の上では、それはなかったので、つまり死は、生き返るところの手段と考えられていたらしいのです、つまり、日本の古代信仰は、死ぬものは生き返ってこなければならないと考えているから、本当の死ということはないわけです。

と話している。たしかに、古代日本人の死生観は、植物的なものであって、いま流行の言葉で言えば「草食系」の思想だったのだろう。簡単に図式化してしまえば、

1 しなう、しおれる、しぼむ <肉体的な死>
2 かれる(枯れる、離れる) <霊魂の離脱>
3 も(喪=裳)、もがり(仮の喪)
4 ふゆごもり
5 みたまのふゆ、魂ふり <霊魂の復活儀式>
6 春(晴れ) <復活、誕生>

というように、四季の変化を反映した死と再生のドラマとしてイメージされていたらしい。やはり、古来から「死ぬのは難しかった」ようだ。

さらに、折口は、神武天皇(神倭伊波禮毘古=カムヤマトイハレヒコ)が東征の折、熊野の国で突然、熊の来襲によって倒れ伏した様子を伝えた『古事記』の

ここに神倭伊波禮毘古の命 にはかにをえまし、また御軍も皆をえて 伏しき

という記述の「をえ」という言葉に着目して、

「あ」行の「お」を書くと年が寄る「おゆ」になるでしょう。すると、その反対に若くなるということが「わ」行の「を」を使った「をゆ」になるのです。

と指摘している。
事実、その後、高倉下というシャーマンが太刀を奉ったところ、神武天皇は「長寝しつるかも」といって起き上がり(若返り)、荒ぶる神を征伐するのだ。
折口説に従えば、「をゆ」という言葉は、⑴疲弊、衰弱する、という意味の他に、⑵若返る、という矛盾する二重性を帯びていることになる。死と再生、衰弱と再起はコインの裏表のように、何かのきっかけで簡単に反転するものとして想定されていたのではないだろうか。

ちなみに、「おつ」は「落ちる」や「劣る」というマイナスイメージにつながるのに対して、「をつ」は生き返るという意味で、「をとこ」「をとめ」も生命力のあふれた若い男女を示している。また、万葉集には

美濃国の多藝(たぎ)の行宮にして大伴宿禰東人の作る歌一首
古(いにしへ)ゆ 人の言ひける老人(おいびと)の をつと云ふ水ぞ 名に負ふ瀧(たぎ)の瀬
(訳)これが昔から人の言い伝えてきた、老人も若返るという水だ、その水で名高い奔流の浅瀬だ。

という歌も残されている。「お」から「を」へ、これが当時のアンチエイジング対策だったのだろう。

哀愁のハバナ

2009-05-08 16:52:03 | Weblog
福地誠『教育格差が日本を没落させる』(洋泉社新書)によれば、現代日本では、上はハーバード大受験専門の進学塾に通う生徒から、下は給食費や教材費を支払うことすらできない家庭の子供まで、教育環境にも大きな格差が生じてきているという。
機会均等を標榜する教育現場でも、一億層中流時代に育ったわれわれの実感以上に二極化傾向が強まっているようだ。
そうした中、5月3日放映のETV、湯浅誠・内橋克人の対談において、湯浅氏の「格差社会のほうが社会を維持するためのコストは高くなる」という発言は、なかなか説得力があったと思う。6日放映のNHKスペシャル「35歳を救え!」とともに、日本社会の厳しい現状と将来を改めて考えさせられた。

話は変わって、アメリカの隣国でありながら、高度成長からすっかり遅れをとり、「日陰の花」といったイメージがある社会主義国キューバ。その首都ハバナへ、スチールギターの名手ライ・クーダーがベテランミュージシャンの再発掘のためにやってくる。
やがて、現地で「中高年たそがれバンド」を旗揚げし、練習を重ね、最終的にはカーネギーホールで演奏し、大成功を収める──その様子をロードムービーの形式で映画化したのが、ヴィム・ヴェンダース監督の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1998)である。GW中にふと懐かしくなって、その映像をもう一度見ることにした。

もちろん、彼らにはもはや往年(革命前)の華やかさはなく、生活も歌も哀愁に満ちたものだが、それでも、その哀愁は、 貧しくてもどこか温情の感じられるハバナの光景とうまくマッチして、 「みじめさ」とは一線を画すものとなっている。
その点では、公園のベンチで身を縮めるようにして座っている日本の中高年ホームレスとは明らかに違う。
「健康で文化的な最低限の生活を営む権利がある」とする福祉社会の実現という意味では、教育面でも医療面でも日本よりキューバのほうが、かえって先進国なのかもしれないのだ。

映画が、アカデミー賞候補になったことについては、『パリ・テキサス』で話題を呼んだ監督の手腕が何としても大きかったのだろうが、十年経って見直してみれば、経済的繁栄が臨界点を迎えつつあった当時の先進国の人々が、崩壊の予兆を感じ、どこか郷愁を誘うような生活への回帰を願っていたような気がしないでもない。
(もちろん、「隣の芝生はきれいに見える」だけのことにすぎないのかもしれないし、キューバという亜熱帯の土地柄、そこに住む人々の楽天的な気質も多分に影響しているかもしれないのだが)

さて、今回のYoutubeは映画の冒頭シーン、バンドの晴れのリサイタルの様子を映しつつ、途中から、ライ・クーダーたちがメンバーを探しにバイクでハバナの町に繰り出す場面に移る。キューバ革命の立役者チェ・ゲバラの肖像をさりげなく映している点など、心憎いほどの演出である。
映像と音楽で「哀愁のハバナ」を味わってほしい。

buena vista social club - chan chan



メタ・ブログ

2009-05-01 15:29:49 | Weblog
このブログ「濃さ日記」を開設してから、もう4年がたったが、アクセス数がどれほどなのか、どんな人がどれほど熱心に読んでいるのか、ということにはあまり関心がないことについては、これまでも折に触れて述べてきた。
たまにサイトに立ち寄る知人からは、その閑散とした状況に同情されたり、「自己完結型」のブログだからだと注意されたりしたが、 誰に迷惑をかけているわけでもない、自己責任の問題なのだからと軽く受け止めて、あまり気にせず、何の工夫もすることもなかった。

むしろ、書きたいように書く──それは一種の自己解放(カタルシス)につながるはずだから、「誰にも読まれなくても、かまわない」というスタンスは、変えないようにしようと思ってきた。ところが、最近、大澤真幸の次のような文章を目にして、ハッとさせられた。大澤氏は

われわれは監視されることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に──われわれを常時監視しうる「超越的」とも言うべき他者に──まなざされていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者がどこにもいないかもしれないことにこそ不安を覚えているのではないだろうか。私生活をただ映すだけのサイトや、ブログのような私的な日記を公開するサイトが流行るのも、こうした欲望や不安を前提にしないと説明できまい。あるいは、若者がケータイへの着信やメールを待ち焦がれるのは、自らがだれかのまなざしと配慮の下にあることを確認し、安心するためであろう。(「不可能性の時代」)

と述べ、この「超越的な他者」とは「抽象的な神」だとして、さらに次のような考察をしている。

(ブログでは)抽象的な神が、日記サイトを訪れる具体的な他者に置き換えられている。だが、この日記は、手紙や電子メールではない。つまり、ブログがそれへと向けられている読者は具体的であっても、よく知っている親密な他者(のみ)であっては不十分なのである。親しいつもりでいた友人のブログを読んだとき、そこに自分がまったく知らない秘密が書かれていて、驚くことがある。インターネットの日記サイトでは、ときに(当人にとって)重要で内密なことが、未知の匿名の他者に向けて語られるのである。(「アキハバラ発」)

こう考えるなら、昨年、アキハバラで「炎上」した青年Kも私も、「超越的な他者=神」を求めて発信してきたという点では同じだったのかもしれない。
そして、残念ながら、膨大なカキコを残したKも、私も、その声が神に聞き届けられた形跡はない点でも共通している。
もし、強いて両者の違いを考えるなら、Kの場合、「誰にも読まれなかった」ことが引き金となって、「誰でもよかった」という犯行に及んだのに対して、私の場合、「誰にも読まれなくても、かまわない」として、「柳に風」の態度を取る余裕があるということだけなのかもしれない。

閑話休題
我がブログで紹介する歌は、「誰にも聴かれなくても、かまわない」というわけではなく、やはり「あなただけには聴かせたい」ものばかりを選んでいるつもりである。
今回は前回に引き続き、Fiorella Mannoiaの初期の曲、Le notti di maggio(五月の夜に)から選んでみた。
何といってもハスキーな彼女の声が魅力で、すっかりとりこになっている。ニュアンスたっぷりの歌唱力も素晴らしいもので、往年のちあきなおみと比較してみたい気にさせる。
それにしても、こんな歌に聞き惚れていると、五月の夜、確かに何かが起こりそうな気配がしてくるのだが・・・

Le notti di maggio - Mannoia