震災・原発事故の後遺症のせいか、これまでの自分がどうも生物的感傷主義といったものに陥っていたように思えてきた。
つまり、地球における生態系はどんなことがあっても死守すべきであり、人間の努力でそれは可能だという考えを疑ってこなかったのだ。
だが、自然はそんなに甘くはない。
最近は、そうしたことをディスカバリーチャンネルの番組から多く学ばされている。
現在シリーズとして放映されているのは、「地球の最期」というもの。
おりしも、今年はマヤ文明の想定した人類滅亡説の年に当たるという。
これまで、小惑星の衝突、氷河期の到来、火山の爆発、大地震、放射線などによって、地球とそこに住む生物の運命はたやすく翻弄されてきたし、今後も翻弄されていくのだろう。
いずれも宇宙視線から眺めれば、「想定内」の出来事として考えた方が良さそうだ。
これは単なるペシミズムではない。
そうした覚悟で生きた方が、「星の子」である人間として理にかなっており、精神的に安定するというものだ。
しかしながら、ここまではあくまでクールな「科学的認識」で、一方の「人間的認識」というものもやはり根強く残っている。
唐突ながら、ここで実存主義の哲学者ハイデガーとその教え子だったハンナ・アーレント(写真)とを比較した文章を引用しておこう。
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ハイデガーは、死すべき可能性をつねにすでに抱えながら生きているわれわれのあり方のことを、「終わりへの存在」というふうに術語化した。
死という未了の終わりを内蔵していることで全体性が構成されているような、そのつどのわれわれの終末論的な生が、そう表示されたのである。
これに対して、アーレントにおいては、何か新しいことを巻き起こす可能性をいつもはらんでいる実存の「誕生的性格」──「始まりへの存在」──が、問題の中心となる。
生きているかぎりわれわれは、新しい始まりを突発させることへと不断にさしかけられている、というのである。(森一郎「死と誕生」)
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第2次世界大戦で亡命したアーレントの考えに従えば、人間はどんな状況でも、悔い改めて、新しい人生を切り開くことができる存在だということになる。
深い絶望に陥っている者、自信を失っている者にとっては、いくぶんかの希望が与えられる考えではないだろうか。
こんなことを考えていたところ、朝日新聞の論壇時評で、山内明美の論考「〈東北〉が、はじまりの場所になればいい」が取り上げられていた。
論考は読んでいないが、いかにも東北の女性らしいしなやかでしたたかな生命力が垣間見えてくるようだ。
ちなみに、インターネットから彼女の発言を拾ってみた。
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東北という多様に広がる土地を、ひとくくりにできようもない。
そして、〈東北〉という場所を、どこかの限られた一地域に限定もしない。
東京にも〈東北〉があり、東北の中にも、さらなる〈東北〉がある。
絶後の困難の中で、東北は、止揚の場所になれるだろうか。
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つまり、地球における生態系はどんなことがあっても死守すべきであり、人間の努力でそれは可能だという考えを疑ってこなかったのだ。
だが、自然はそんなに甘くはない。
最近は、そうしたことをディスカバリーチャンネルの番組から多く学ばされている。
現在シリーズとして放映されているのは、「地球の最期」というもの。
おりしも、今年はマヤ文明の想定した人類滅亡説の年に当たるという。
これまで、小惑星の衝突、氷河期の到来、火山の爆発、大地震、放射線などによって、地球とそこに住む生物の運命はたやすく翻弄されてきたし、今後も翻弄されていくのだろう。
いずれも宇宙視線から眺めれば、「想定内」の出来事として考えた方が良さそうだ。
これは単なるペシミズムではない。
そうした覚悟で生きた方が、「星の子」である人間として理にかなっており、精神的に安定するというものだ。
しかしながら、ここまではあくまでクールな「科学的認識」で、一方の「人間的認識」というものもやはり根強く残っている。
唐突ながら、ここで実存主義の哲学者ハイデガーとその教え子だったハンナ・アーレント(写真)とを比較した文章を引用しておこう。
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ハイデガーは、死すべき可能性をつねにすでに抱えながら生きているわれわれのあり方のことを、「終わりへの存在」というふうに術語化した。
死という未了の終わりを内蔵していることで全体性が構成されているような、そのつどのわれわれの終末論的な生が、そう表示されたのである。
これに対して、アーレントにおいては、何か新しいことを巻き起こす可能性をいつもはらんでいる実存の「誕生的性格」──「始まりへの存在」──が、問題の中心となる。
生きているかぎりわれわれは、新しい始まりを突発させることへと不断にさしかけられている、というのである。(森一郎「死と誕生」)
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第2次世界大戦で亡命したアーレントの考えに従えば、人間はどんな状況でも、悔い改めて、新しい人生を切り開くことができる存在だということになる。
深い絶望に陥っている者、自信を失っている者にとっては、いくぶんかの希望が与えられる考えではないだろうか。
こんなことを考えていたところ、朝日新聞の論壇時評で、山内明美の論考「〈東北〉が、はじまりの場所になればいい」が取り上げられていた。
論考は読んでいないが、いかにも東北の女性らしいしなやかでしたたかな生命力が垣間見えてくるようだ。
ちなみに、インターネットから彼女の発言を拾ってみた。
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東北という多様に広がる土地を、ひとくくりにできようもない。
そして、〈東北〉という場所を、どこかの限られた一地域に限定もしない。
東京にも〈東北〉があり、東北の中にも、さらなる〈東北〉がある。
絶後の困難の中で、東北は、止揚の場所になれるだろうか。
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