濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

現代システム考

2014-12-31 01:31:52 | Weblog
年末のあわただしい一日、去年の薬用植物園に引き続き、今年も懇篤な園芸家に誘われて、ご自宅近くの浅川周辺を散策することにした。
時にはカワセミなども見かけるという小さな沼には鳥たちが群がり、冬枯れの光景が手つかずのまま放置されていて、イルミネーション輝く都心の人工的・無機的な美しさとは対照的な、ひなびた風情を感じさせる。

かつて村上春樹はエルサレムでの講演で次のようなことを語った。
「硬い大きな壁とそこにぶつかって割れる卵があれば、自分は常に卵の側に立つ。
我々はみんなひとつの卵で、我々が直面する壁はシステムだ」と。

このときのシステムとは、巨大で複雑な仕組みを持ち、目に見えないながらも我々を拘束し、個人の力では容易に抵抗できないもの、というイメージになるのだろうが、私には、コンビニやファーストフード店で働く若い店員の「当店はそのようなシステムになっていますので」という取りつく島のない接客用の言葉が真っ先に連想されてくる。
いや、その店員自身、システムという不可視の壁にぶつかって、日々苦悩している人間なのかもしれない。
そして、浅川周辺のひなびた風情の自然の多くもまた、システムの手によって、いずれ開発の対象にされてしまうのだろう。

脳科学者の茂木健一郎と吉本隆明は次のような対談をしている。

茂木:現代において古典的知識性に相当するような権力をもっているのはシステムではないかなと思うときがあります。
われわれ一般社会の人間がインターネットにつないで電子メールを送ったり情報を得たり、あるいは携帯電話を使うとき、じつはわれわれはそうしたシステムを設計して運営している人たちの手の平の上で踊っているのではないか。

吉本:そのあたりのことはぼくも一生懸命考えるところで、一般論としていえば、そういうシステムは全部肯定して受け入れてしまえ、ということがひとつあります。
科学なら科学、産業なら産業の進歩にはそうした現象が付きものだからです。
それからもうひとつ、その裏側みたいなものですが、知識やシステムが進むと、ほんとうはそんなものは権力でも何でもないんだけど、しかしだんだん権力と同じような役割を果たすようになる。
これが裏側にある問題だと思います。
(中略)
やっぱり表の面と裏の面を肯定しながら否定するというか、ふたつの問題を同時に考えていくことが必要だと思います。


両者とも、今日の巨大で高度なシステムには相当手こずっているような印象を受ける。
小林秀雄の言葉に「和やかな眼だけが恐ろしい」とあるが、今日のシステムに立ち向かおうとしたら、和やかで柔らかな眼と心を持つことが何よりも大切になるのではないだろうか。
浅川の自然とその有様を紹介する園芸家の奇をてらわない様子を回想するうちに、ふとそのような考えに至った。

さて、本ブログを書くうちに、いよいよ大晦日ともなった。
読者の皆様が良き年を迎えられんことを祈って筆を置こう。

浅川に浮かぶカイツブリ
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8年目のジレンマ

2014-12-05 21:10:57 | Weblog
総選挙が近づいてきたが、今から8年前、私が倒れ、病院で意識を取り戻したときに真っ先に聞こえてきたのが、安倍晋三氏の首相就任を告げるラジオのニュースだったことは、以前のブログにも書いたことがある。
そして、二度目の入院をした今年、アベノミクスの是非を問う選挙が行われることになって、何かの因縁を感じる。
そこで、この8年間はなんだったのか、少し整理しておきたい。
一言で言ってしまえば、「美しい日本」「アベノミクス」などと政治的キャッチフレーズは派手だが、生活実感としては、あまり変化がないように思われる。
平田オリザはすでに2001年に次のように述べている。

「日本人がいま感じている閉塞感や、将来に対する漠然とした不安の核心はなんだろう。
私は、それは、経済の不安や、政治に対する不信から来るものだけではないと思っている。
この不安の核心を一言で示そうとすれば、それは、「自分の幸せを自分で決めなければならないことに対する不安」とでも言えるだろうか。


こうした自己決定・自己責任の傾向は、2000年あたりから日本人の特に若者の心の底に芽生え、現在も続いているかもしれない。

1度目に入院した2006年以降、国際的な出来事としてはイラク戦争の終結、リーマンショックと世界的金融危機、オバマ大統領の就任、ビンラディンの銃殺などが起き、また、国内的には秋葉原通り魔事件、そして東日本大震災と福島原発事故、民主党から自民党への政権交代などが起きている。
この中で、なんといっても日本人にとってショッキングだったのは、東日本大震災と福島原発事故であろう。

日本学術会議総合工学シンポジウムで「福島第一原子力発電所事故最大の教訓」が発表されている。
• 福島第一事故では放射線被ばくによる急性の死亡は発生しなかった
• また、長期にわたっても被ばくの影響による障害発生確率は極めて低いと評価されている(IAEA,WHO他)
• しかし、強制避難により約15万人の地元住民が個人生活とコミュニティを破壊された
• 自然科学・技術的視点での安全目標では社会的受容が得られないことが明白にされた


ということで、「自然科学・技術的視点」と「社会的受容」との乖離が際立っている。
実質的な危害よりも将来が見えないという恐怖心のほうが現実を動かしているという点では、地震・津波の被害とは対照的で、本格的なリスク社会の出現といわざるをえない。
しかも、原発を廃止するにせよ再稼働するにせよ、それ相当のリスクを覚悟しなければならず、それは過去のようなイデオロギー的な対立というよりは、それぞれ個人が自己決定していくしかないものであるように思われる。
日本人は豊かさを得た代わりに、平田オリザの言葉で言えば「閉塞感や、将来に対する漠然とした不安」をより強く共有することになったのだ。
このことは、私の現在の治療におけるジレンマとも重なっているかもしれない。
自然治癒力を無視して、クスリを飲み続けることは先の見えないリスクを抱えるが、クスリを止めることも、また十分リスキーなことなのだ。
にもかかわらず、中庸的な態度は取れない・・・

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