濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

ブログ開設十周年の弁

2015-03-20 11:06:44 | Weblog
本ブログを立ち上げて、はや十年になった。
懇篤なる読者に支えられながらも、我ながら、よくここまで続けられたと思う。
十年前というと2005年、小泉劇場の自民党が圧勝し、ホリエモン全盛期で「勝ち組/負け組」などという言葉が流布していた年だが、自分は負け組の悲哀を噛みしめつつ、それでも、あわよくば、もう一花咲かせようなどと思って街を彷徨い歩いていた頃だ。
そんなある日、ふと新宿のジャズ喫茶に入ったときに流れていたのが、Billie Holiday の ‘I’m a fool to want you’ で、聴いた瞬間に大きな衝撃を受け、CDを買い求め、ブログ最初の投稿に次のような言葉を記したのだった。

かつてスタンダールはモーツアルトの音楽を「疾走する悲しみ」といっていたと思いますが、レディー(Billie Holidayの愛称)の場合は「優しく包み込む悲しみ」なのです。
レディー本人は、レコーディングの際、この曲のプレイバックを聴きながら泣いていたというけれど、そして、彼女の人生は悲惨きわまりないものだったけれど、こうして、21世紀になっても聴きつがれているということは、その悲しみが癒しにまで昇華されたからだと思います。


いま聴いても、レディーの暗い声には心動かされる。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治「右大臣実朝」)という言葉の意味を実感する。
十周年の記念にぜひ試聴してほしい。

Billie Holiday "I'm A Fool To Want You"



さて、これまで、心地よい緑の風が吹きすぎていくようなリリシズムあふれるブログづくりを理想にしてきたのだが、最近はフェイスブックの細切れの情報の洪水に押され、停滞ぎみになってしまった。
また、開設当時に比べれば、近年は大災害や大事故が起きたり、血なまぐさい事件が増えたりと、リリシズムどころではなくなっている。
憲法改正を目論む政府と平和を志向する皇室の間に微妙な不協和音が聞かれるなど、新しい状況も垣間見られる。
よほどしっかり考えなければ、判断の難しい時代になっているといえそうだ。
何か手がかりがないものかといえば、いささか時事的に過ぎようが、さしあたり「イスラム」に注目してはどうか。
名づけられぬもの、比べようもないものにこそ、良かれ悪しかれ、未来の種子が含まれているからだ。
たとえばISISの凶行は、日本の少年たちの残虐なイジメ事件にまで影響を及ぼしている。
単にテロに屈しないとするのではなく、彼らの行動や心性、背景を深く理解すべきだと思う。
世界的なイスラム学者の井筒俊彦は、かつてイスラムの民について次のように述べていた。

灼熱の太陽の下に、あの荒漠たる沙漠を、僅かの草と水とを求めて漂泊し往復して行くノマド(遊牧民)達にとっては、遥かにうごめく動物の姿を眼ざとく見付け出し、或は無上の憩いを与えてくれる木立を発見し、或はまた地平線の彼方に巻起る砂塵を見て直ちに敵軍の陣形やその武器を知る事は、容易ならざる生活上の重大事であったのである。(「アラビア文化の性格」)

そんなノマドたちが築いたのは「政治と宗教とが渾然たる一体をなす新しい共同体」であり、彼らにとって信仰を受け入れるか否かの心の分割線こそが重要なのであり、国境など意味をなさないのだ。
ちなみに、イラン革命の際に、ミシェル・フーコーはこんな言葉を残している。

政治力としてのイスラームの問題は現代の、またこれから数年の、本質的な一問題である。
いささかなりと知性をもってこの問題に取りかかるための第一条件は、はじめから憎悪をもってこないことである。


ちょうど地下鉄サリン事件も二十年を迎えた。
二十一世紀の今日、宗教は人類にとって古くて新しい問題であり続けるだろう。

恋愛と原子バクダンと梅の花

2015-03-09 16:03:44 | Weblog
先日のブログでは太宰治について取り上げたので、もう一人、太宰と同じく破天荒な人生を送った無頼派の作家、坂口安吾についても触れておこう。
格別愛読していたわけではない作家にこだわるのは、高度経済成長がすっかり息切れして、その最期を知らせるかのように3・11の震災が起きた、その後の混乱・荒廃した現在の状況が、太宰と安吾の活躍した戦争終了直後と似通っているからなのかもしれない。
さて、安吾は「太宰治情死考」において、

太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに、生きるであろう。
元々、本当に女に惚れるなどということは、芸道の人には、できないものである。
芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。
だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。
(中略)
太宰の遺書は体をなしておらぬ。
メチャメチャに泥酔していたのである。
サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。
尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。
太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。


と、かなり辛辣な発言をしているが、私も安吾のこうした見方は真実に近いのではないかと思う。
むしろ、情死した同伴者のサッチャンのほうが肝がすわっていて、主犯格だったようにも思われてくる。

かつて、「恋愛論」を著したスタンダールは

女のことになると、ぼくは幸いなことに、いつも二十五の青年かなにかのように、欺されてばかりいた。

といったエスプリに満ちた言葉を残しているが、男とは女にダマされることを幸せとするしかない動物なのかもしれない。

それでは、安吾の恋愛観はどうなのか、彼の「恋愛論」を読んでみると

恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。
ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。


とあるように、恋愛の情は名辞以前の本能的な直感だとしているが、

(恋愛とは)所詮幻影であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。
それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。
つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。

恋愛は人間永遠の問題だ。
人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。
人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。


というように恋愛こそが人生であり、真実だといわんばかりに、恋愛に対して真剣そのもので、情熱的である。
もちろん、こうした恋愛を冷めた目で眺めれば「嘘の骨頂」に映るしかないことも十分承知で、

恋なしに、人生は成りたたぬ。
所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。


と愚かな恋愛を擁護し、最後の言葉は

孤独は、人のふるさとだ。
恋愛は、人生の花であります。
いかに退屈であろうとも、この外に花はない。


と結ばれており、生命=恋愛至上主義の立場が貫かれている。

ところで、こうした彼の目から見て、同時代に体験した原爆とはなんだったのか、そして太宰の死とはなんだったのか。

原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。
子供の遊びです。
これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。
子供の遊びです。
はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。


とある。
安吾がこの言葉を発してから何十年にもなるが、原子バクダンも自殺もこの世からなくならず、それを適度にコントロールするオトナの学問が生まれているのかどうかさえ、疑わしい。
せめて、梅の花の写真を画面に飾り、生命=恋愛を愛でることにしよう。


懐かしさの根源に向けて

2015-03-01 21:26:19 | Weblog
かのひととの何十年ぶりかの再会に胸をときめかせてから、はや二年の歳月が過ぎようとしている。
振り返れば、私たちが再びめぐりあったことは、偶然でもあり必然でもあるような不思議な出来事であるに違いなく、その奇跡に近い因縁の深さに、しばし酔いしれることになった。
そして、二年の時を経た今、抱いているのは、一言で言えば懐かしいという想いである。
ただし、この「懐かしい」という言葉は多義的だから、補注を付け加えるべきだろう。たとえば

霞立つ 長き春日(はるひ)を かざせれど いやなつかしき 梅の花かも(万葉集)

においては、毎年咲く梅の花が特に思い出深いわけではなく、梅の花への愛着が歌われているのであり、

お玉のためには岡田も只窓の外を通る学生の一人に過ぎない。しかし際立って立派な紅顔の美少年でありながら、己惚(うぬぼれ)らしい、気障(きざ)な態度がないのにお玉は気が附いて、何とはなしに懐かしい人柄だと思い初めた。(森鴎外「雁」)

という場合でも、お玉と岡田は以前からの知り合いであったわけではないから、「懐かしい」というお玉の想いは旧懐の情ではなく、思慕である。

というわけで、そもそも「懐かしい」は「なつく」に由来する語で、<愛着や思慕>の意味で使われていたが、現代で流通している、想い出深いものへの<旧懐の情>の意味がそれに加わったのである。
だが、こうした二つの意味を「懐かしい」という一語が含みもっていることに、私などは深い感慨にとらわれる。
そして、次のような妄想に浸ってしまう。
……<愛着や思慕>が生まれるのは、花であれ異性であれ、いわば父母未生以前の遠い過去の中で一度すでに出会ったことがあり、その頃を思い出して親しみを覚えるからではないだろうか。
だとすれば、<愛着や思慕>も<旧懐の情>も、始源に向けて延長していけば、郷愁という想いに収束していくのではないか、と。

ところで、この二年の間、私たちは死者や廃墟についてよく語り合ってきた。
死者も廃墟も、在りし日の全き姿をもう二度と目の前に見せることはない、そうした痛切な喪失感を覚えさせると同時に、過去の記憶を鮮やかに蘇らせ、現実よりもかえって雄弁に何かを語り出してくるようにさえ思われてくる。
そして、心を研ぎ澄ませれば、それは哀切にして甘美な郷愁へと私たちを誘っていく……

シャトーブリアンによれば、「時の仕業」としての廃墟にはなんら不快なところがない。
なぜならそこには長年にわたる自然の作用があって、建物の残骸には花が咲き、墓には鳩が巣をつくっているからである。
自然はたえず再生しながら、死を生の最も甘美な幻想で取り囲むのだ。
(谷川渥「形象と時間」)


タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の1シーン