本ブログを立ち上げて、はや十年になった。
懇篤なる読者に支えられながらも、我ながら、よくここまで続けられたと思う。
十年前というと2005年、小泉劇場の自民党が圧勝し、ホリエモン全盛期で「勝ち組/負け組」などという言葉が流布していた年だが、自分は負け組の悲哀を噛みしめつつ、それでも、あわよくば、もう一花咲かせようなどと思って街を彷徨い歩いていた頃だ。
そんなある日、ふと新宿のジャズ喫茶に入ったときに流れていたのが、Billie Holiday の ‘I’m a fool to want you’ で、聴いた瞬間に大きな衝撃を受け、CDを買い求め、ブログ最初の投稿に次のような言葉を記したのだった。
かつてスタンダールはモーツアルトの音楽を「疾走する悲しみ」といっていたと思いますが、レディー(Billie Holidayの愛称)の場合は「優しく包み込む悲しみ」なのです。
レディー本人は、レコーディングの際、この曲のプレイバックを聴きながら泣いていたというけれど、そして、彼女の人生は悲惨きわまりないものだったけれど、こうして、21世紀になっても聴きつがれているということは、その悲しみが癒しにまで昇華されたからだと思います。
いま聴いても、レディーの暗い声には心動かされる。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治「右大臣実朝」)という言葉の意味を実感する。
十周年の記念にぜひ試聴してほしい。
Billie Holiday "I'm A Fool To Want You"
さて、これまで、心地よい緑の風が吹きすぎていくようなリリシズムあふれるブログづくりを理想にしてきたのだが、最近はフェイスブックの細切れの情報の洪水に押され、停滞ぎみになってしまった。
また、開設当時に比べれば、近年は大災害や大事故が起きたり、血なまぐさい事件が増えたりと、リリシズムどころではなくなっている。
憲法改正を目論む政府と平和を志向する皇室の間に微妙な不協和音が聞かれるなど、新しい状況も垣間見られる。
よほどしっかり考えなければ、判断の難しい時代になっているといえそうだ。
何か手がかりがないものかといえば、いささか時事的に過ぎようが、さしあたり「イスラム」に注目してはどうか。
名づけられぬもの、比べようもないものにこそ、良かれ悪しかれ、未来の種子が含まれているからだ。
たとえばISISの凶行は、日本の少年たちの残虐なイジメ事件にまで影響を及ぼしている。
単にテロに屈しないとするのではなく、彼らの行動や心性、背景を深く理解すべきだと思う。
世界的なイスラム学者の井筒俊彦は、かつてイスラムの民について次のように述べていた。
灼熱の太陽の下に、あの荒漠たる沙漠を、僅かの草と水とを求めて漂泊し往復して行くノマド(遊牧民)達にとっては、遥かにうごめく動物の姿を眼ざとく見付け出し、或は無上の憩いを与えてくれる木立を発見し、或はまた地平線の彼方に巻起る砂塵を見て直ちに敵軍の陣形やその武器を知る事は、容易ならざる生活上の重大事であったのである。(「アラビア文化の性格」)
そんなノマドたちが築いたのは「政治と宗教とが渾然たる一体をなす新しい共同体」であり、彼らにとって信仰を受け入れるか否かの心の分割線こそが重要なのであり、国境など意味をなさないのだ。
ちなみに、イラン革命の際に、ミシェル・フーコーはこんな言葉を残している。
政治力としてのイスラームの問題は現代の、またこれから数年の、本質的な一問題である。
いささかなりと知性をもってこの問題に取りかかるための第一条件は、はじめから憎悪をもってこないことである。
ちょうど地下鉄サリン事件も二十年を迎えた。
二十一世紀の今日、宗教は人類にとって古くて新しい問題であり続けるだろう。
懇篤なる読者に支えられながらも、我ながら、よくここまで続けられたと思う。
十年前というと2005年、小泉劇場の自民党が圧勝し、ホリエモン全盛期で「勝ち組/負け組」などという言葉が流布していた年だが、自分は負け組の悲哀を噛みしめつつ、それでも、あわよくば、もう一花咲かせようなどと思って街を彷徨い歩いていた頃だ。
そんなある日、ふと新宿のジャズ喫茶に入ったときに流れていたのが、Billie Holiday の ‘I’m a fool to want you’ で、聴いた瞬間に大きな衝撃を受け、CDを買い求め、ブログ最初の投稿に次のような言葉を記したのだった。
かつてスタンダールはモーツアルトの音楽を「疾走する悲しみ」といっていたと思いますが、レディー(Billie Holidayの愛称)の場合は「優しく包み込む悲しみ」なのです。
レディー本人は、レコーディングの際、この曲のプレイバックを聴きながら泣いていたというけれど、そして、彼女の人生は悲惨きわまりないものだったけれど、こうして、21世紀になっても聴きつがれているということは、その悲しみが癒しにまで昇華されたからだと思います。
いま聴いても、レディーの暗い声には心動かされる。
「人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治「右大臣実朝」)という言葉の意味を実感する。
十周年の記念にぜひ試聴してほしい。
Billie Holiday "I'm A Fool To Want You"
さて、これまで、心地よい緑の風が吹きすぎていくようなリリシズムあふれるブログづくりを理想にしてきたのだが、最近はフェイスブックの細切れの情報の洪水に押され、停滞ぎみになってしまった。
また、開設当時に比べれば、近年は大災害や大事故が起きたり、血なまぐさい事件が増えたりと、リリシズムどころではなくなっている。
憲法改正を目論む政府と平和を志向する皇室の間に微妙な不協和音が聞かれるなど、新しい状況も垣間見られる。
よほどしっかり考えなければ、判断の難しい時代になっているといえそうだ。
何か手がかりがないものかといえば、いささか時事的に過ぎようが、さしあたり「イスラム」に注目してはどうか。
名づけられぬもの、比べようもないものにこそ、良かれ悪しかれ、未来の種子が含まれているからだ。
たとえばISISの凶行は、日本の少年たちの残虐なイジメ事件にまで影響を及ぼしている。
単にテロに屈しないとするのではなく、彼らの行動や心性、背景を深く理解すべきだと思う。
世界的なイスラム学者の井筒俊彦は、かつてイスラムの民について次のように述べていた。
灼熱の太陽の下に、あの荒漠たる沙漠を、僅かの草と水とを求めて漂泊し往復して行くノマド(遊牧民)達にとっては、遥かにうごめく動物の姿を眼ざとく見付け出し、或は無上の憩いを与えてくれる木立を発見し、或はまた地平線の彼方に巻起る砂塵を見て直ちに敵軍の陣形やその武器を知る事は、容易ならざる生活上の重大事であったのである。(「アラビア文化の性格」)
そんなノマドたちが築いたのは「政治と宗教とが渾然たる一体をなす新しい共同体」であり、彼らにとって信仰を受け入れるか否かの心の分割線こそが重要なのであり、国境など意味をなさないのだ。
ちなみに、イラン革命の際に、ミシェル・フーコーはこんな言葉を残している。
政治力としてのイスラームの問題は現代の、またこれから数年の、本質的な一問題である。
いささかなりと知性をもってこの問題に取りかかるための第一条件は、はじめから憎悪をもってこないことである。
ちょうど地下鉄サリン事件も二十年を迎えた。
二十一世紀の今日、宗教は人類にとって古くて新しい問題であり続けるだろう。