前回、「人々は恋愛を男女の生理と心理が複雑に絡み合う愛憎の劇と見なしがちだ」と指摘したが、今回は、逆に「恋愛を生理と心理が複雑に絡み合う愛憎の劇」とみなしてしまえばどうなるのかを考えてみよう。
ただし、「男女の関係」を「母子の関係」に置き換えることにする。
なぜそんなことをするのかといえば、一つには恋のかけひき、男女の機微に精通した先輩諸氏が多くの文章を残しているはずで、私など、そうした文章にとても太刀打ちできそうにもないからであり、もう一つは男女の愛憎の根源には母と子の愛憎があると思うからだ。
「母の形式は子どもの運命を決めてしまう」
というスリリングな文章から始まる吉本隆明の『母型論』によれば、母が子を抱き授乳し養育をする、そうした母と子どもの物語には、じつは女性と男性の愛の物語が投影されているという。
つまり、母が男性(父)に抱く愛と憎、受容と否認のすべてが胎児、乳児の無意識に刷り込まれるというわけだ。
吉本隆明の『母型論』から具体的に母と子の愛憎のドラマを抜き出してみる。
1 子どもが、じぶんをやさしい母親だとみなしていると感じると、それに対応できず、母親の方が「不安」になり「腰がひけ」た状態になる。そうでないときは、やさしい母親を演技し(作為し)、子どもにもそうであることを認めるよう強要する。すこしニュアンスをかえれば、子どもと親和する場面になるとパニックに陥って不安や強迫を感じてしまう母親。
これはすぐに次のような男女の恋愛の場面に転換できる。
⑴ 男性がじぶんをやさしい女性だとみなしていると感じると、それに対応できず、女性は「不安」になり「腰がひけ」た状態になる。そうでないときは、やさしい女性を演技し(作為し)、男性にもそうであることを認めるよう強要する。すこしニュアンスをかえれば、男性と親和する場面になるとパニックに陥って不安や強迫を感じてしまう女性。
2 子どもに「不安感」や「敵意」をもっている。それなのに認めようとせず、それを匿すため、あくまでも「やさしい」母親を装う。子どもにも「やさしい」ことを認めさせようと強制する母親。
⑵ 女性は男性に「不安感」や「敵意」をもっている。それなのに認めようとせず、それを匿すため、あくまでも「やさしい」女性を装う。男性にも「やさしい」ことを認めさせようと強制する女性。
こう変換してみると、「海より深い母の愛」など錯覚に過ぎないように思われるかもしれないが、母の愛を微分化すれば、不安や敵意を抱く瞬間もあるということにすぎないのだから、世のお母様方はご安心あれ。
母親は養育の際、愛情を全身で子に注いでいるばかりではない。周囲の環境次第で様々に揺れ動いているのだ。ただし、母は授乳の主導権を握っている。
恋愛でも事情は同じで、女性は男性に比べてはるかに敏感に状況を察知し、揺れ動く気持ちを抱えているが、主導権だけは手放そうとしない。
3 いま乳児が母親の乳房に触れながら乳首から乳汁を吸っているとき、母親の無意識が乳児に敵意をもち、おもわず心の腰がひけてしまった。だが見掛けのうえではやさしさの擬態を失わない。乳児の対応は母親の敵意を感受しながら、やさしさの擬態を本来のものとして受け入れる。これがパターンとして持続される状態がつづけば、乳児は「擬態」と「本来」が区別されない構造に滑りこみやすくなる。
3は母と子の物語の枠組が不定になった場合として挙げられたものである。
これと似た体験を私の記憶の中から取り出せば、小学校の頃、父母と旅行に出て、途中乗るべき列車を間違えて、動き出した列車にあわてて乗り換えたとき、私は振り落とされないように必死でデッキの鉄の棒を握っていた、それを眺める母の表情が思い出される。
それは我が子を愛おしみ励ますというよりも、何か異物でも眺めるかのような、不安げで冷めたものであった。「腰がひけていた」のかもしれない。それ以来、私は母の愛が「本物」なのか「擬態」なのか、疑わしく思うようになった。
さらに私の貧しい恋愛体験も動員すれば、男性が一途なのにくらべ、女性は、男性への「敵意」や「不安」を潜ませながら、「擬態」でやさしく接するという演技に巧みである。
その結果、男性は「擬態」と「本来」が区別されない構造に滑りこみやすくなり、物語なき愛の砂漠をさまようことになる。
残る問題は、女性はなぜ、こうしたアンビバレンツな態度をとるのかということである。中村礼治はブログで次のように述べている。
男性にとって性交が母胎の楽園への帰還の代替行為であるのに対し、女性にとってのそれは楽園の再建の代替行為を意味する。男性は単に楽園に戻るだけなのに対し、女性は楽園をつくる、複雑な作業を強いられる。だから、作業には助けが要る。モデルとなるのは、神の子を神に助けられながら懐胎し、分娩したイエスの母マリアだ。実際にはかなわぬことなので、女性は相手の男性に神の代役を求める。言い換えれば、相手の男性に対してわが子の役割と、妊娠・出産を助ける神の役割とを求める。
女性は男性に対して、最も強い絶対の神と、最も弱いが未来を担う子孫を同時に要求するように人類史から命じられているわけで、そうした受動的な二重性が不安定きわまりない態度を導き出していると思われる。
ただし、「男女の関係」を「母子の関係」に置き換えることにする。
なぜそんなことをするのかといえば、一つには恋のかけひき、男女の機微に精通した先輩諸氏が多くの文章を残しているはずで、私など、そうした文章にとても太刀打ちできそうにもないからであり、もう一つは男女の愛憎の根源には母と子の愛憎があると思うからだ。
「母の形式は子どもの運命を決めてしまう」
というスリリングな文章から始まる吉本隆明の『母型論』によれば、母が子を抱き授乳し養育をする、そうした母と子どもの物語には、じつは女性と男性の愛の物語が投影されているという。
つまり、母が男性(父)に抱く愛と憎、受容と否認のすべてが胎児、乳児の無意識に刷り込まれるというわけだ。
吉本隆明の『母型論』から具体的に母と子の愛憎のドラマを抜き出してみる。
1 子どもが、じぶんをやさしい母親だとみなしていると感じると、それに対応できず、母親の方が「不安」になり「腰がひけ」た状態になる。そうでないときは、やさしい母親を演技し(作為し)、子どもにもそうであることを認めるよう強要する。すこしニュアンスをかえれば、子どもと親和する場面になるとパニックに陥って不安や強迫を感じてしまう母親。
これはすぐに次のような男女の恋愛の場面に転換できる。
⑴ 男性がじぶんをやさしい女性だとみなしていると感じると、それに対応できず、女性は「不安」になり「腰がひけ」た状態になる。そうでないときは、やさしい女性を演技し(作為し)、男性にもそうであることを認めるよう強要する。すこしニュアンスをかえれば、男性と親和する場面になるとパニックに陥って不安や強迫を感じてしまう女性。
2 子どもに「不安感」や「敵意」をもっている。それなのに認めようとせず、それを匿すため、あくまでも「やさしい」母親を装う。子どもにも「やさしい」ことを認めさせようと強制する母親。
⑵ 女性は男性に「不安感」や「敵意」をもっている。それなのに認めようとせず、それを匿すため、あくまでも「やさしい」女性を装う。男性にも「やさしい」ことを認めさせようと強制する女性。
こう変換してみると、「海より深い母の愛」など錯覚に過ぎないように思われるかもしれないが、母の愛を微分化すれば、不安や敵意を抱く瞬間もあるということにすぎないのだから、世のお母様方はご安心あれ。
母親は養育の際、愛情を全身で子に注いでいるばかりではない。周囲の環境次第で様々に揺れ動いているのだ。ただし、母は授乳の主導権を握っている。
恋愛でも事情は同じで、女性は男性に比べてはるかに敏感に状況を察知し、揺れ動く気持ちを抱えているが、主導権だけは手放そうとしない。
3 いま乳児が母親の乳房に触れながら乳首から乳汁を吸っているとき、母親の無意識が乳児に敵意をもち、おもわず心の腰がひけてしまった。だが見掛けのうえではやさしさの擬態を失わない。乳児の対応は母親の敵意を感受しながら、やさしさの擬態を本来のものとして受け入れる。これがパターンとして持続される状態がつづけば、乳児は「擬態」と「本来」が区別されない構造に滑りこみやすくなる。
3は母と子の物語の枠組が不定になった場合として挙げられたものである。
これと似た体験を私の記憶の中から取り出せば、小学校の頃、父母と旅行に出て、途中乗るべき列車を間違えて、動き出した列車にあわてて乗り換えたとき、私は振り落とされないように必死でデッキの鉄の棒を握っていた、それを眺める母の表情が思い出される。
それは我が子を愛おしみ励ますというよりも、何か異物でも眺めるかのような、不安げで冷めたものであった。「腰がひけていた」のかもしれない。それ以来、私は母の愛が「本物」なのか「擬態」なのか、疑わしく思うようになった。
さらに私の貧しい恋愛体験も動員すれば、男性が一途なのにくらべ、女性は、男性への「敵意」や「不安」を潜ませながら、「擬態」でやさしく接するという演技に巧みである。
その結果、男性は「擬態」と「本来」が区別されない構造に滑りこみやすくなり、物語なき愛の砂漠をさまようことになる。
残る問題は、女性はなぜ、こうしたアンビバレンツな態度をとるのかということである。中村礼治はブログで次のように述べている。
男性にとって性交が母胎の楽園への帰還の代替行為であるのに対し、女性にとってのそれは楽園の再建の代替行為を意味する。男性は単に楽園に戻るだけなのに対し、女性は楽園をつくる、複雑な作業を強いられる。だから、作業には助けが要る。モデルとなるのは、神の子を神に助けられながら懐胎し、分娩したイエスの母マリアだ。実際にはかなわぬことなので、女性は相手の男性に神の代役を求める。言い換えれば、相手の男性に対してわが子の役割と、妊娠・出産を助ける神の役割とを求める。
女性は男性に対して、最も強い絶対の神と、最も弱いが未来を担う子孫を同時に要求するように人類史から命じられているわけで、そうした受動的な二重性が不安定きわまりない態度を導き出していると思われる。