過日、近代文学を研究している女性と歓談する機会があった。
文学談義に花が咲く中で、女史が大の旅行好きでもあるということで、芥川龍之介をはじめとする近代文学者に影響を与えたジョイスを知るために、実際にダブリンに赴き、マーテルロー塔など、「ユリシーズ」の舞台ともなった場所を見学したときのことが話題に上った。
そのとき、女史の口から漏れた「エピファニー」(もともとは神の降臨を意味する語だが、ジョイスは、人々の何気ない会話の中に事物の「魂」が突如として現れることの意味で使っている)という久しぶりに聞く言葉は、私にとっても珠玉のような響きであった。
じつは大学時代、ある女性との別れが訪れた際、手渡されたのが、ジョイス「ダブリン市民」の文庫本であり、その後は、彼女の形見のように思いなし、ジョイス文学の読破に励んだ時期があったからである。
懐かしさのあまり、先日、段ボールにしまっておいた当時のジョイスに関する草稿を探し出して、何十年ぶりかで手にし、PCに入力することにした。次に紹介するのは、その冒頭の一節である。
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リジョイス・ジョイス
いま、苦悩にうちひしがれた者が私の部屋を訪れたとする。その乾ききった唇、ひび割れた肌、逆さだった髪など、幾重にも刻まれた受難の跡に心が引き寄せられ、その苦悩を分かち合おうとするとき、「憐憫」となる。
一方、その異貌、その歪んだ影、その心の奥に秘められた、ただならぬ気配に見入るならば、「恐怖」となる。そして、この二つの感情は互いに交錯して、交錯の様態といったものが、私の態度を決めるといってよい。
この微妙な事情について、ジェームス・ジョイスは『若き日の芸術家の肖像』の第五章(正確にはすでに「パリ・ノートブック」に書き留められていたものだが)で、スティーブン・ディーダラスに「悲劇的情緒とは『憐憫』と『恐怖』という二つの相をもった静的なものだ」として、次のように記させている。
──憐憫とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止(arrest)せしめ、それを苦悩する者と結びつける感情である。恐怖とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止せしめ、それを隠れたる原因(secret cause)と結びつける感情である。──と。
例えば、ここに墓がある。それはまさに「重大にして不易なるもの」の象徴だろう。それを前にして立ち尽くし(arrest)た一人の詩人は、
塚も動け 我泣聲は 秋の風(松尾芭蕉『奥の細道』)
と吟ずる。過去の受難者へとなだれこむような憐憫の情に激しく動かされながらも、「泣聲」という人間的表出を「秋の風」という無機的な気象へといったん昇華させることによって、再び「塚も動け」と呪詛に近いかたちで、その悲劇的情緒を定着させる。静的なものとはいえ、その際の内的格闘は壮絶なものではないか。
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ちなみに、草稿に述べた「苦悩にうちひしがれた者」とは、これまた、なんという運命の巡り合わせだろう! 今年、他界した私の兄(いわゆる「腹違い」の兄で、じつに多難な人生を送った)のことを念頭に置いたものであった。
年を終えるに当たり、過去からの「因果の鎖」といったものを感じつつ、草稿とともに「ダブリン市民」の「死者」の最後の一節をブログにアップし、兄の喪に服したい。
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──アイルランドじゅうすっかり雪なのだ、雪は中部の平野のいたるところに降っている。樹木のない山々に降っている。静かにアレンの沼地に降っていた。さらに西にいって、乱れ騒ぐ暗いシャノンの川浪にも静かに降っていた。さらにまた、マイケル・ヒューリーが埋葬されている、丘の上の寂しい墓地の隅々にも降っている──ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍先に、荒れ果てた茨に、雪は吹き寄せられて厚く積もっている。天地万物をこめてひそやかに降りかかり、なべての生けるものと死せるものの上に、それらの最後が到来したように、ひそやかに降りかかる雪の音を耳にしながら、彼の心はおもむろに意識を失っていった。
文学談義に花が咲く中で、女史が大の旅行好きでもあるということで、芥川龍之介をはじめとする近代文学者に影響を与えたジョイスを知るために、実際にダブリンに赴き、マーテルロー塔など、「ユリシーズ」の舞台ともなった場所を見学したときのことが話題に上った。
そのとき、女史の口から漏れた「エピファニー」(もともとは神の降臨を意味する語だが、ジョイスは、人々の何気ない会話の中に事物の「魂」が突如として現れることの意味で使っている)という久しぶりに聞く言葉は、私にとっても珠玉のような響きであった。
じつは大学時代、ある女性との別れが訪れた際、手渡されたのが、ジョイス「ダブリン市民」の文庫本であり、その後は、彼女の形見のように思いなし、ジョイス文学の読破に励んだ時期があったからである。
懐かしさのあまり、先日、段ボールにしまっておいた当時のジョイスに関する草稿を探し出して、何十年ぶりかで手にし、PCに入力することにした。次に紹介するのは、その冒頭の一節である。
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リジョイス・ジョイス
いま、苦悩にうちひしがれた者が私の部屋を訪れたとする。その乾ききった唇、ひび割れた肌、逆さだった髪など、幾重にも刻まれた受難の跡に心が引き寄せられ、その苦悩を分かち合おうとするとき、「憐憫」となる。
一方、その異貌、その歪んだ影、その心の奥に秘められた、ただならぬ気配に見入るならば、「恐怖」となる。そして、この二つの感情は互いに交錯して、交錯の様態といったものが、私の態度を決めるといってよい。
この微妙な事情について、ジェームス・ジョイスは『若き日の芸術家の肖像』の第五章(正確にはすでに「パリ・ノートブック」に書き留められていたものだが)で、スティーブン・ディーダラスに「悲劇的情緒とは『憐憫』と『恐怖』という二つの相をもった静的なものだ」として、次のように記させている。
──憐憫とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止(arrest)せしめ、それを苦悩する者と結びつける感情である。恐怖とはすべて人間の苦悩における重大にして不易なるものに直面して思念を停止せしめ、それを隠れたる原因(secret cause)と結びつける感情である。──と。
例えば、ここに墓がある。それはまさに「重大にして不易なるもの」の象徴だろう。それを前にして立ち尽くし(arrest)た一人の詩人は、
塚も動け 我泣聲は 秋の風(松尾芭蕉『奥の細道』)
と吟ずる。過去の受難者へとなだれこむような憐憫の情に激しく動かされながらも、「泣聲」という人間的表出を「秋の風」という無機的な気象へといったん昇華させることによって、再び「塚も動け」と呪詛に近いかたちで、その悲劇的情緒を定着させる。静的なものとはいえ、その際の内的格闘は壮絶なものではないか。
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ちなみに、草稿に述べた「苦悩にうちひしがれた者」とは、これまた、なんという運命の巡り合わせだろう! 今年、他界した私の兄(いわゆる「腹違い」の兄で、じつに多難な人生を送った)のことを念頭に置いたものであった。
年を終えるに当たり、過去からの「因果の鎖」といったものを感じつつ、草稿とともに「ダブリン市民」の「死者」の最後の一節をブログにアップし、兄の喪に服したい。
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──アイルランドじゅうすっかり雪なのだ、雪は中部の平野のいたるところに降っている。樹木のない山々に降っている。静かにアレンの沼地に降っていた。さらに西にいって、乱れ騒ぐ暗いシャノンの川浪にも静かに降っていた。さらにまた、マイケル・ヒューリーが埋葬されている、丘の上の寂しい墓地の隅々にも降っている──ゆがんだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍先に、荒れ果てた茨に、雪は吹き寄せられて厚く積もっている。天地万物をこめてひそやかに降りかかり、なべての生けるものと死せるものの上に、それらの最後が到来したように、ひそやかに降りかかる雪の音を耳にしながら、彼の心はおもむろに意識を失っていった。