年が改まっても、相変わらず、ついていないことが続いて、このブログで触れるのもはばかられるほどで、自分が「メエルシュトレエムに呑まれて」いるといった感じがしないではない。
しかし、それが一つの与えられた試練なのであれば、甘受するしかあるまい。
「ダメなときほど運はたまる」とは、萩本キンちゃんの本のタイトルである。
また、「危機」の「危」とは危ないことだが、「機」はチャンス、挑戦のことだというのは、アルフォンス・デーケン神父である。
本当に私はついていないのか?
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どうやらヒトには元来、秩序や因果を発見しようとする強い認知傾向があるようです。本来意味やつながりがないとわかっているランダムな出来事や事象にも、意味や因果、あるいは法則を見出そうとする。これは非常に根強い、ヒトの本質的な性向です。
逆にいえば、ヒトは無秩序や、因果関係のなさを嫌うのです。言いかえれば、意味の「真空状態」を嫌うのです。それはたぶん、ほんとうは秩序や意味や因果関係があるときにそれを見落とすことが、生物の生存にとって致命的になりかねないからでしょう。
「電話は同時にまとめて鳴る」とか「傘を持って出ると晴れる」「車を洗うと雨が降る」などの、いわゆる「マーフィーの法則」は、そのあらわれとみることができます。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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というのが実際のところかもしれない。
ところで、毎日、さまざまな事件、事故の報道がされているが、そこでも、わたしたちは、表面的な因果関係で解釈しようとしすぎているように思う。
すべてが偶然に支配されているということになれば、不安は募るばかりだからかもしれない。
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「渦巻きの中心を凝視する」「顔など、周囲の事物に目を移す」といった、一見当たり前の機能も健常に発育していたこと自体が、ことばで綴れば膨大な量の「来歴」を物語っているといえるでしょう。そのことばは、身体の発生と発達や、脳と感覚・知覚機能の発達に言及し、さらに環境との相互作用の経験と記憶に言及しなくてはならないはずです。芋づる式にありとあらゆる要因が出てきて、とうてい書ききれないものなのです。
私がいう「来歴」とは、単に遺伝記号のことでもなければ、狭い意味の記憶だけのことでもありません。知覚だけでもなければ身体だけでもなく、ましてや脳神経の活動だけでもない。あえていえば、過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体である。そのようなことを実感していただけたのではないでしょうか。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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どんな事件でも、その真実を理解するためには、こうした「来歴」を知らなければならないのだ。
他者の関与する事件の場合は、他者が生きている環境世界とともに、「過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体」としての「来歴」に肉薄していかなければならないことになる。
少なくとも我々の世代は、最近指摘される「萎縮」とは対照的な右肩上がりのムードだった。
アメリカ仕込みの契約社会はまだ根付いていなかったから、訴訟とかインフォームドコンセントとか著作権といった「自己決定・自己責任」がからまずに、「義理人情浪花節」で十分やっていけたのだ。
現代の事件を考えるなら、こうした「来歴」がまったく無効になってしまったときの焦燥感や自暴自棄の感情が微妙に関与しているようにも思われる。
しかし、それが一つの与えられた試練なのであれば、甘受するしかあるまい。
「ダメなときほど運はたまる」とは、萩本キンちゃんの本のタイトルである。
また、「危機」の「危」とは危ないことだが、「機」はチャンス、挑戦のことだというのは、アルフォンス・デーケン神父である。
本当に私はついていないのか?
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どうやらヒトには元来、秩序や因果を発見しようとする強い認知傾向があるようです。本来意味やつながりがないとわかっているランダムな出来事や事象にも、意味や因果、あるいは法則を見出そうとする。これは非常に根強い、ヒトの本質的な性向です。
逆にいえば、ヒトは無秩序や、因果関係のなさを嫌うのです。言いかえれば、意味の「真空状態」を嫌うのです。それはたぶん、ほんとうは秩序や意味や因果関係があるときにそれを見落とすことが、生物の生存にとって致命的になりかねないからでしょう。
「電話は同時にまとめて鳴る」とか「傘を持って出ると晴れる」「車を洗うと雨が降る」などの、いわゆる「マーフィーの法則」は、そのあらわれとみることができます。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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というのが実際のところかもしれない。
ところで、毎日、さまざまな事件、事故の報道がされているが、そこでも、わたしたちは、表面的な因果関係で解釈しようとしすぎているように思う。
すべてが偶然に支配されているということになれば、不安は募るばかりだからかもしれない。
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「渦巻きの中心を凝視する」「顔など、周囲の事物に目を移す」といった、一見当たり前の機能も健常に発育していたこと自体が、ことばで綴れば膨大な量の「来歴」を物語っているといえるでしょう。そのことばは、身体の発生と発達や、脳と感覚・知覚機能の発達に言及し、さらに環境との相互作用の経験と記憶に言及しなくてはならないはずです。芋づる式にありとあらゆる要因が出てきて、とうてい書ききれないものなのです。
私がいう「来歴」とは、単に遺伝記号のことでもなければ、狭い意味の記憶だけのことでもありません。知覚だけでもなければ身体だけでもなく、ましてや脳神経の活動だけでもない。あえていえば、過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体である。そのようなことを実感していただけたのではないでしょうか。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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どんな事件でも、その真実を理解するためには、こうした「来歴」を知らなければならないのだ。
他者の関与する事件の場合は、他者が生きている環境世界とともに、「過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体」としての「来歴」に肉薄していかなければならないことになる。
少なくとも我々の世代は、最近指摘される「萎縮」とは対照的な右肩上がりのムードだった。
アメリカ仕込みの契約社会はまだ根付いていなかったから、訴訟とかインフォームドコンセントとか著作権といった「自己決定・自己責任」がからまずに、「義理人情浪花節」で十分やっていけたのだ。
現代の事件を考えるなら、こうした「来歴」がまったく無効になってしまったときの焦燥感や自暴自棄の感情が微妙に関与しているようにも思われる。