濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

来歴(profiling)のために

2011-01-22 11:16:56 | Weblog
年が改まっても、相変わらず、ついていないことが続いて、このブログで触れるのもはばかられるほどで、自分が「メエルシュトレエムに呑まれて」いるといった感じがしないではない。
しかし、それが一つの与えられた試練なのであれば、甘受するしかあるまい。
「ダメなときほど運はたまる」とは、萩本キンちゃんの本のタイトルである。
また、「危機」の「危」とは危ないことだが、「機」はチャンス、挑戦のことだというのは、アルフォンス・デーケン神父である。
本当に私はついていないのか?
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どうやらヒトには元来、秩序や因果を発見しようとする強い認知傾向があるようです。本来意味やつながりがないとわかっているランダムな出来事や事象にも、意味や因果、あるいは法則を見出そうとする。これは非常に根強い、ヒトの本質的な性向です。
逆にいえば、ヒトは無秩序や、因果関係のなさを嫌うのです。言いかえれば、意味の「真空状態」を嫌うのです。それはたぶん、ほんとうは秩序や意味や因果関係があるときにそれを見落とすことが、生物の生存にとって致命的になりかねないからでしょう。
「電話は同時にまとめて鳴る」とか「傘を持って出ると晴れる」「車を洗うと雨が降る」などの、いわゆる「マーフィーの法則」は、そのあらわれとみることができます。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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というのが実際のところかもしれない。

ところで、毎日、さまざまな事件、事故の報道がされているが、そこでも、わたしたちは、表面的な因果関係で解釈しようとしすぎているように思う。
すべてが偶然に支配されているということになれば、不安は募るばかりだからかもしれない。

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「渦巻きの中心を凝視する」「顔など、周囲の事物に目を移す」といった、一見当たり前の機能も健常に発育していたこと自体が、ことばで綴れば膨大な量の「来歴」を物語っているといえるでしょう。そのことばは、身体の発生と発達や、脳と感覚・知覚機能の発達に言及し、さらに環境との相互作用の経験と記憶に言及しなくてはならないはずです。芋づる式にありとあらゆる要因が出てきて、とうてい書ききれないものなのです。
私がいう「来歴」とは、単に遺伝記号のことでもなければ、狭い意味の記憶だけのことでもありません。知覚だけでもなければ身体だけでもなく、ましてや脳神経の活動だけでもない。あえていえば、過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体である。そのようなことを実感していただけたのではないでしょうか。
(下條信輔「<意識とは何だろう>」)
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どんな事件でも、その真実を理解するためには、こうした「来歴」を知らなければならないのだ。
他者の関与する事件の場合は、他者が生きている環境世界とともに、「過去から現在におよぶ脳と身体の経験と、その経験を提供した世界の総体」としての「来歴」に肉薄していかなければならないことになる。

少なくとも我々の世代は、最近指摘される「萎縮」とは対照的な右肩上がりのムードだった。
アメリカ仕込みの契約社会はまだ根付いていなかったから、訴訟とかインフォームドコンセントとか著作権といった「自己決定・自己責任」がからまずに、「義理人情浪花節」で十分やっていけたのだ。
現代の事件を考えるなら、こうした「来歴」がまったく無効になってしまったときの焦燥感や自暴自棄の感情が微妙に関与しているようにも思われる。

CHI-CHI-CHI LE-LE-LE!

2011-01-09 09:49:25 | Weblog
「治療者は針の穴のような小さい希望でも見逃してはいけません。〈希望〉という薬にはお金もかからず手間もかからないのですよ。」(帚木 蓬生「臓器農場」)
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正月も松の内はあっという間に過ぎてしまった。
まったく先の見えない闇の中から、不意に差し込んでくる弱い光のような希望を見出すとすれば、例のペルーのサンホセ鉱山事故について、作業員たちの証言から、彼らのリーダーといわれていた頑強そうな者が、じつは単に現場監督に過ぎず、本当のリーダーは、目立たず、体調のすぐれない者だったと告げられたことである。

って、なぜ希望なのか?

私も、体力気力知力すべて貧弱に育ち、「覇気のない子だ」という評価に甘んじてきた者で、いわんやリーダーシップなど、まるで期待されてこなかった。
だから、ひょっとして、
「この俺だって、いざとなったら、まんざらでもないよな!」
という気にさせたからだ。
救急搬送にも案外強いし、「心筋梗塞」のプロだったし。。。
リーダーシップのないといわれる日本の首相にも分けてやりたいほどだ。

いやいや、極限状況の中では、人間関係の地勢図も磁気嵐にあったような混乱を生じ、常識的なヒエラルキーも転倒してしまうのかもしれない。

とまあ、ここまでが前座だが、ペルーの事故はある意味で、非常に象徴的な事件だったような気がする。

つまり、地球には有限な資源しか残されていないことがはっきりしてきた現在、「資源の発掘」から「資源の配分」に重心を移さざるを得なくなっているからだ。
その点では、「資源の発掘」に失敗した彼らが、人肉食(カニバリズム)さえ起きても不思議ではない極限状況の中で、リーダーの指示によって「資源の配分」という問題を何とかクリアしたのだ。

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ごく大ざっぱに歴史をふり返るだけでも、理性的で、尊厳性、自由、平等、幸せ追求の権利をもち、しかも自然を超えた人間像とは、共同幻想で強化された「仮構」であることが明白である。
現在解明されつつあるのは、第一に、ヒトは自然を超えた実体的属性をそなえた存在ではなく、自然界に働く多分に未知のダイナミズムに組みこまれた一生物種にすぎず、またその事実を受け入れざるをえないことだ。
脳科学のここ二十年の進歩は、人間の意識も意志も、脳に営まれる神経生理的過程の「生産物」であることを強く示唆する。
理性的「自由意志」の存在は疑わしい。
啓蒙思想とは世界が最終的に西洋的普遍文明に統合されるという信念だとすれば、その経済的表現である「グローバル化された自由市場」では、社会も環境も守ることはできないのである。
したがって、人間活動の規模が近世初期に比べて格段に大きくなった今、完全な閉鎖系地球で生存を続けるとすれば、まず大きな争いを回避すること、全地球的環境維持政策を実施すること、極端な経済格差を是正すること、そして自由・平等・幸せの権利が容認するひたすらな欲望の追求を制限することは、最低の条件となろう。
(大井玄「環境世界と自己の系譜」)
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「自由な個人が無限の可能性を追求する」という大文字の「希望」を見失った私たちに、彼らリーダーたちは、貴重なヒントを与えているような気がする。

Chile mine rescue Remix


兎角亀毛

2011-01-01 14:56:20 | Weblog
謹賀新年

例年よりいくぶん寒い元日を迎えた。
久しぶりで深夜の「朝まで生テレビ」をそれこそ朝まで通して見たせいで、少し遅い「おめざ」となった。
昨年以来、我々が歴史のターニングポイントに立たされているという認識は共通しているようで、「朝なま」では「閉塞」「萎縮」という言葉がキーワードになっていた。

番組の感想をいえば、いまや、youtube や twitter、wikiLeaks などのネット経由のメディアが既存のマスメディアをしのぐ勢いであることが実感された。
また、先日お目にかかったS先生によれば、「菅も小沢も、教え子の谷垣も、昔の政治家に比べれば、ずいぶんスケールが小さくなった、そのかわりに市民の成長・成熟が目立ってきた」という類のことを指摘していたが、確かに、情報の発達とともに、政治家や官僚、学者、知識人と市民の情報の差が質的にも量的にも狭まりつつある、こうした平準化の流れがさらに加速しているようにも感じた。
これは暗い風潮のなかでは、多少は明るい兆候なのだろう。
ただし、twitter を過大評価するのは、衆愚政治につながる危険性もあると思う。
何よりも、経験豊富な高齢者の意見が反映されなくなり、平準化が進む一方、世代間の格差は広がっていくのではないか。

また、番組中、就職難の大学生が、「就職して、ある程度の収入を得ても、果たして幸福になるのだろうか」という言葉を漏らしていたのが印象的だった。
「希望が(生活や労働の)前提だった」(玄田有史『希望のつくり方』)という時代から、我々はなんと遠くまで来たことか!
途上国の自立も視野に入れたソーシャルビジネスの可能性など、魅力的なビジョンも紹介されていたが、我々がどれだけのモチベーションをもって遂行するかが勝負だ。

いずれにせよ、すっかりステージは変わってしまったのだ。
まだ当分、日本は不安定な社会であり続けるのではないだろうか。
今年の賀状に選んだ「兎角亀毛」(ウサギの角とカメの毛のように、この世にあり得ない)という四字熟語ではないが、何事が起こるかわからないという覚悟はしておこうと思う。

最後に今年もご来光と残照のイメージの動画を選んでみた。

Oceanlab - Just Listen Video