その1より続く
四
秋元の身辺は、相変わらず多忙な日々が続いた。流山市は年間五千人近くの人口の伸びがあったから、ただでさえ行政は繁忙の毎日である。
四月に入って、鉄道誘致の特集をした流山市発行の広報グラフ版は、審議会に国鉄案を売り込んでいた国鉄関係者を喜ばせた。同じころ、月刊エコノミスト誌に「都市・交通問題解決への第三の道」と題する伊東光晴教授の論文が掲載された。
時事通信社の情報後援組織として各地域に「内外情勢調査会」があり、毎月一回、会員である市民を集めて、内外の著名な講師を招き、講演を聞き、情報交換をする。すでに六月までの講師日程は決まっていたが、七月の講演にはぜひ伊東教授を招きたかった。その願いがかなって七月二十五日の講演が実現した。講演が終わって、秋元は市内で伊東と夕食を共にした。
その席で、伊東は、なぜ自分が招かれたのか、秋元の腹の中がはじめて読めたのである。
五
「いやあ、市長さんの考えがわかりましたよ。いま、私どもが検討しているのは第二常磐線だけじゃないのです。前回の15号答申から十二年たちましてね、首都圏の交通事情も大分変わってしまった。全部で六十路線以上の鉄道計画をマナイタにのせて、旧答申で実行性のないものは、バッサバッサと切っているんです。地元から、いくら要望があったって、鉄道を作る段階で協力の姿勢がないものはだめなのです。そりゃあ昔なら、国鉄がどんどん作りましたが、いまの国鉄にはそんな体力は残っちゃいません」
伊東は、そこまで一気にしゃべった。肝心の常磐新線の話から脱線しているようにも見えたが、秋元の心を動かす何かがあった。
「大蔵省をごらんなさい。新しい鉄道なんぞに、金を出しゃしません。逆さに振ったってたたいたって、そんな金はないのです」
話は核心に入ったようだ。
「ですから、古い計画で駄目なものはまず切ってしまう。その切った分で新しい計画を立てるのです」
「第二常磐線はその新しい方に入るわけですね?」
「むろんそうですが、問題はどうやって作るか、ということです。今は言えませんが、私の頭には一つの構想があります。おそらく秋までにはまとまるでしょうがね」
「早く秋になってほしいですね」
「第二常磐線では、茨城県が面白い構想を持っています…」
自分の構想は言えない、と言いながら意外な具体例が続いた。
「茨城県には山東構想をベースにした考え方がありまして、あの筑波学園都市の西側に広大な土地がある。これを開発して、その開発利益から、鉄道資金を生み出そうというのです」
山東構想は、国土庁官官房審議官時代の山東良文が提唱したもので、市街化区域と市街化調整区域の土地の時価の差額に着目し、調整区域に新しい住宅都市群を設定する。この開発に協力する土地所有者の土地を優先して市街化区域に編入し、一定の減歩によって開発利益を生み出し、これを鉄道建設費にあてようというものだ。
「ずいぶん積極的ですね」
「そうです。これからの鉄道建設はこれでなければできるもんじゃありません。それをですよ、倒産寸前の国鉄にまかせたい、なんて言い方をする自治体があるんですから困ったもんです」
秋元には、その前に論文を読んでいたから伊東の言おうとすることがよく理解できた。国鉄にこだわっている自治体のこともよく知っていたし、常磐新線の敷設に要する巨額の資金のことを考えれば、当然だと思った。
「先生、そのためには大規模な都市計画が必要になりますね」
「そりゃあそうです。いいですか。今の農民はみんな利口です。将来何十倍にもなる土地を安く手放す農民がいますか?事業主体が、値上がりする前に安く買ってください、なんて市長さんにお願いしたら、市長さん選挙に落っこちてしまいますよ」
面白い伊東の言い回しを笑いで受ける秋元だったが《やはり、区画整理事業しかないな》と、心に念ずるものがった。
第二章 運輸省詣で
一
このころ、運輸政策審議会の東京圏都市交通部会では、小委員会を設置して首都圏の交通計画を審議していた。委員長は東大名誉教授の八十島義之助教授で、委員は伊東光晴教授ら五名。十四名の特別委員には沼田武千葉県知事も名を連ねている。この外に五名の専門員がいて、元運輸省事務次官で空港ビルディングの高橋寿夫社長や、日通総合研究所企画開発室の寺田禎之室長の名があった。寺田は野田に住んでいる。
運輸政策審議会の小委員会は、五月になって、伊東光晴がキャップを務める整備方策ワーキングに加え、ルートワーキングを設置している。これは、審議会の審議が本場に入ったことを意味していた。
伊東教授との出会いは、運輸政策審議会への大きな糸口であった。やがて、その人脈は寺田禎之・高橋寿夫:八十島義之助・井上孝・岡並木ら各委員へ広がっていくことになるのだが…。
秋元が、伊東教授の次にねらいをつけたのは、日通の寺田義之助室長であった。単独で日通の研究所を訪ねたのだ。
ワーキングの委員は、やはり学者が多かった。整備方策ワーキングにしても、座長の伊東教授の専門が経済学である。その伊東の片腕となっていたのが、伊東であった。
寺田は理論家であり、雄弁家でもあった。しかも、鉄道や交通問題の専門家である。
審議会では、いつも真っ先に発言し、機関銃のように理論を並べたてて、他の委員の機先を制した。これを受けて、座長の伊東が、
「うん、それでいいでしょう」という、『あ・うん』の呼吸と、信頼関係が二人の間にでき上っていた。
二
流山市内で審議会の伊東と会ってから、秋元の運輸省詣では一層足繁くなった。その中で、秋元は一人の人物に巡り会えることになる。大臣官房審議官の宮本春樹であった。
はじめて審議官室を訪ねた日、宮本は如才なく秋元を迎えてくれた。
「流山市長さんですか…。秋元…大吉郎…いいお名前ですね。さあ、どうぞ」
審議官は、応接セットに秋元をすすめた。
「今日はまた何ですか?」
「はい、実は私どもの市では第二常磐線につきまして大きな期待を持っております。今日は、ごあいさつを兼ねましていろいろお願いに参りましたが…」
「ああそうでしたか。沿線の市長さんが直接お見えになるのは、めずらしいですね」
「はい、それだけ私どもにとりましては重要な問題でございまして…」
「そうですね、私も千葉県人でしてね。第二常磐線の問題は関心を持ってますよ。もちろん、運輸省としても、常磐線の現状からいたしまして、このままほっとくわけにはいきません。それで、秋元市長さんは、どのように取り組むお考えですか?」
「流山市としましては、何としても第二常磐線を誘致したいのです。私どもにはまちの核というものがありません。ですから、鉄道と都市計画を整合させて、むしろ都市計画の中へ鉄道を呼び込んでいきたいと考えております」
秋元は自分の考えを率直に話した。宮本がそれを引き出してくれたこともうれしかった。
「市長さん、その考え方は良いですね。うちの圓藤君、今日はいなかったでしょ?私からよく話しておきましょう」
圓藤とは、運輸省の地域交通局交通計画課の圓藤壽穂課長のことである。
「お願いいたします。…それから…今度大臣にぜひお目にかかって、直接お願いもしたいのですが…」
「いいですよ。前もってご連絡ください。調整をいたしますから」
宮本審議官は、運輸省の中枢を渡り歩いたエキスパートで「総合交通体系」という言葉をはやらせた張本人である。木更津市出身であった。それ以降、秋元は陰に陽に宮本の助力を受けるようになる。宮本も、秋元の誠実な人間味に魅かれるものがあったと、後で話している。
その3へ続く
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