リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

夢のオートクルージング:車の高速道路での移動時間の意味が全く変わる!!!

2009-03-09 22:22:22 | Weblog
   (3)

前回にも書いたように、中長距離の旅行、特に高速を使った移動で車を利用する時の最大の問題点は、乗車時間のほとんどが無駄になるということである。
短距離では、車は渋滞さえなければ、前回書いたように時間を生み出すためにとても役立つのに。

しかし、車でもシステムさえ変われば、劇的に「時間の利用価値」が変わる可能性があるのではないか?



観光を考えてみれば分かるが、高速を使って走行しているほとんどの時間は「移動」のために使っている。
もちろん、高速からでもすばらしい景色は多い。
が、まさか景色に見とれるわけにはいかない。
一瞬のよそ見が、命取りになる。

観光地近くは一般道を比較的低速で走るので、フロントガラスから自然にきれいな景気が目に入り「観光」もできる。
だが、一旦高速に乗れば、運転している限りそのほとんどは、何もできない。
ただ、「移動」ということに費やされる。

高速に乗ってただ移動している限り、「時間が奪われる」自動車となってしまう。
移動時間は、何も価値を生み出さない。
ただ、地点aから地点bへの移動にすぎない。



だが、仮に「運転」から「開放」されるとしたらどうだろう?

移動中の時間もほかのことにフルに活用することができる。

前回、
「新幹線を利用すれば、乗車時間のほとんどが価値ある時間に生まれ変わる。」
と書いたが、
「高速で車を利用すれば、乗車時間のほとんどが価値ある時間に生まれ変わる。」
と書ける日が来るのではないか?

             

夢見ているのは、高速に乗ったらすべての車がオートクルージング機能によって、適当な車間距離をもって入り口から出口まで走行することだ。

もちろん、混雑していなければ別に電車のように、「連結」している必要はない。

だが、一旦、高速でオートクルージングに入ったら、極端な話、前を見ていなくても自動的に運転が制御されるので、あとは何をしていても大丈夫という夢のような未来である。

よく考えてみると現状としても、個々の運転手がこのことを実現しているに過ぎない。
もちろん、運転から「解放」されてはいないが。

インターから入った車は、速度を上げて「流れ」に乗る。
あとは、緩急があるもののクルージング。
中には、お急ぎの車もあるが。

出口に近づけば、減速してクルージングから脱して、一般道に入る。
この繰り返しではないか。

     

高速のゲートを入った瞬間に自動的にオートクルージング機能が入る。
高速走行中は、オートクルージングが働き、他の車との間で、自動的に連携を持ちながら走ることができる。
高速走行中の「オートクルージング」の時間はまったく次元の異なる時間となる。

自動走行だから、まず渋滞は起こらない。

コンロトールされているから、
 コーヒーが飲める。
 携帯で電話もできる。
 本も読める。
 食事もできる。
 写真も撮れる。
まるでクルーザーの乗客のようになれる。
(クルーザーに乗船したことがないのでよく分からないが(笑))

渋滞の原因はそもそも車間距離の詰めすぎ。
それもなくなるだろう。

こうした「価値」のある時間を過ごすことができるなら、「高速代金」と「オートクルージング機能を持った車」には、十分お金を払う価値がある。
オートクルージングの時間は、新幹線「のぞみ」の車内の時間と全く同じ意味を持つようになるだろう。

何よりも、
「高速で車に乗っている時間」のほとんどが価値ある時間に生まれ変わる。



別に、この時勢に車を利用することはないと思うかも知れない。

だが、「介護」を考えてみれば分かるが「人の移動」は、実は大変なこと。
健康で元気なら新幹線で全く問題ないが、「介護」が必要になったら、新幹線ではつながりが「分断」されてしまう。

家から出てまず車いすに乗る。
外で待っている車に乗る。
駅に着いたら車から降りて、エスカレーターないしはエレベーターに乗る。
ホームに着いたら、狭い乗車口を通って在来線で新幹線ターミナルまで乗車。
そこで降りて又新幹線に乗って、到着したらまた降りて、またエレベーターに乗って・・・と限りない「分断」。

とてもドアツードアというわけにはいかない。



オートクルージングなら、それこそ移動中に介護が必要な人にたいして、一人でも
お世話することができるかも知れない。
「連結」という形で個々の車は、適当な車間をおいてつながっているのと同じだから。
それだけの可能性があると思う。

何よりも、車のもつ意味、「次元」が全く異なる。
高速走行中の車内は、文字通り「サルーン」になるだろう。

そして、一人一人がその「サルーン」で各自のもてる時間を最大限に活用して、人生をいきいきと生きることができるのではないか?



コンピューターがコミュニケーションがとれなかった人々との会話を可能にしたように、高速でのすべての車のオートクルージングは、あらゆる人間の「人間性」を回復する大きな可能性を持っていると言えるのではないだろうか?
高速での事故は、限りなく少なくなりそうだし。



そんな未来が来たら、私はその車の中で何をしているだろうか?



未来って、何年先かって?

早ければ、2~3年先にはできているのではないか?
それも、むしろインフラが整っていない開発途上国や地方の方が早くできているかもしれない。
道州制を先取りして、一部地域で連携して、実験的に早くやってみることも可能だろうし・・・。

みんなそこには行きたがるだろう。
私もそんなところがあったら、今でも行きたい。
みんな行きたいだろうから、入り口で「通行税」(注1)を徴収するようにすればいい。
みんな喜んで通行税を払うだろう。



注1 イタリアでびっくりしたのは、高速の途中で「通行税」を徴収する。
バスに載っていたが、しばらく待たされたので、印象深かった。