リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

和のすすめ(49)白波や 蝉鳴く断崖 城ヶ崎【蝉のような自分を悟る伊豆城ヶ崎海岸に立ち、俳句の巨星、芭蕉を思う】

2016-08-25 21:46:07 | Weblog


白波や

蝉鳴く断崖

城ヶ崎


しらなみや            shi ra na mi ya
せみなくだんがい   se mi na ku da n ga i
じょうがさき           jo u ga sa ki





説明は必要ないと思う。

句の通りであるから。


伊豆の景勝地、城ヶ崎の断崖に立った時、落下する恐怖にとらわれた。

蒼い海に、崖を一歩踏み外せばそのまま。

城ヶ崎は、映像や音で記録することは出来る。

言葉でも。

しかし、気持ちを伝えることは、音や映像ではなかなか出来ない。

同じ状況でも、感じ方は人それぞれだからだ。



言葉を使って、映像や音そして「思い」を伝えることが出来る世界最短の短詩型文学は、俳句以外ないだろう。

その巨星が「芭蕉」である。

芭蕉が登場して、芭蕉を超える巨星は出てきていない。

「和歌」が貴族や武家など趣味人の閉じた世界の中であったものを、一気に士農工商の最も下の階級に当たる商人を含めた町人、つまり庶民の文学である「俳句」にしたのが芭蕉である。

ざっくり言えば、和歌(短歌)の5,7,5,7,7の合計35音の上半分の5,7,5の17音と季語だけにした。

字数が制限されたことにより、表現したいことを絞らざるを得ない。

これが、大成功したのだ。


だから、師匠として招かれ、命の危険がある「奥の細道」を行くことが出来た。

そして、金字塔「奥の細道」を完成した。

その巨大な金字塔は、永久に続くであろう。



私は、断崖からの美しい海、そこから落下する恐怖、そこに立つ緊張感を句に込めようとした。


しかし私は、城ヶ崎の断崖の上の安全な立ち位置に立って鳴く、蝉でしかない。

芭蕉つまり城ヶ崎の断崖の前に立てば、誰もが蝉にしか過ぎないのでは?

恐れ多い。


 


 

 

芭蕉が奥の細道で作った一句、

「荒波や佐渡に横たふ天の河」

が脳裏にこびりついていた。

「白波や蝉なく断崖城ヶ崎」を作句して、この句を思い出した。


芭蕉を超えようとチャレンジすることは、今や世界中の誰もが出来る。

しかし、芭蕉を超えようと思ったら、「奥の細道」は読まない方がいいかも知れない。

脳裏から離れなくなるから。(^-^)


でも、芭蕉を超えることが出来る可能性のある人はいる。

可能性のあるのは宇宙飛行士だ。

国際宇宙ステーションや月、火星に行ったらどんな句が出来るのだろう?

「季語」の問題はあるにしても。


楽しみだ。(^-^)

 


和のすすめ(48)黒曜石 縄文の夏 海越えて【美味の鍵、黒曜石に命をかけた縄文人】

2016-08-11 23:21:20 | Weblog


黒曜石

縄文の夏

海越えて





こくようせき         ko ku yo u se ki
じょうもんのなつ   jo u mo n no na tsu
うみこえて          u mi ko e te




出雲への旅行の帰り、妻と私の乗った全日空機は、ちょうど神津島の上空を飛行した。

これも何かの定めであったようだ。


眼下の神津島は、伊豆の下田から直線距離で約200キロメールちょっと。

縄文人は、この距離を丸木舟等で黒曜石を求めて、命がけで神津島に渡った。

往復なら400キロメール以上。

その光景を、想像で句にした。


 




私の疑問は、どうしてそこまで危険を冒して、片道200キロメール以上の神津島まで、約1万5000年から前の縄文人が渡ったかだった。

なぜ、黒曜石に縄文人がこだわったのか?

(黒曜石はWikipediaにもある通り、南関東の縄文時代の遺跡でそれこそ無数に発見されている。しかも、分析の結果、神津島産と同定されている)

結論は、黒曜石が美味を求める縄文人にとって、何より必要だったからだと考えている。


 




黒曜石は、Wikipediaにあるとおり、ガラス質で断片が鋭利である。

そのために、矢じりの先につけると、獲物を簡単に捕獲することが出来る。

動きの速い小さな魚はもちろんのこと、冬場の海の獲物が少ない時期の、鹿や猪を狙うときも、鋭利な刃先が獲物の身体に食い込み、ダメージを与えることが出来、捕獲が容易である。

もちろん、捕獲した獲物を分けるにも重宝したに違いない。

刃先が鋭利だから、スパッと切れる。

つまり、獲物の味を損なわない。

獲物の味を損なわないから、美味しい。


 




ちょっと考えてみれば分かるが、刺身を食べるのに表面がザラザラな食感だったら、美味しくない。

つまり、縄文人はグルメを追求した。
1万5000年以上も前から。

また、刃先が鋭利だから、ぶつぶつにならず、等分に分けられる。

等分に切れなければ、食料をめぐっての争いは、熾烈を極めるのは、昔も今も変わらない。
だから、争いも少ない。

他の時代に比べて、争いが少ないということも研究結果として発表されていて、このことを裏付けてもいる。


 




和の国の人たちが、江戸時代に寿司を発明したのも、縄文人が美味を求めて、神津島まで命がけで黒曜石を求めたそのDNAを受け継いでいるからと考えている。

お米は確かにカロリーは高い。
しかし、無味に近い。

そこで、華屋与兵衛は、縄文人の美味追求のDNAで縄文時代人のように、本来の美味しい海鮮をさらに美味しく食べる方法を発明したのだ。

それが、握り寿司だ。


 




因みに、縄文人は米が大陸から渡来したにもかかわらず、米食に移行しようとはしなかった。

これも、縄文時代人の環境が米食に移行する必要のないほど恵まれていたからである。

火山の島(和の国)は、噴火の噴出物で森は恵まれ、森の栄養で海も恵まれていたからである。

そこに、黒曜石があれば、獲物は豊富に捕獲することが出来る。

その上、鋭利な刃先で美味を追求出来る。

さらに、美味な獲物を鋭利な刃先で美味なまま、スパッと等分出来る。

争いが少ないのは当然なのだ。

それに、米作をすれば土地や水争いは増え、美味は追求できなくなる。

美味を追求できない米作より、恵まれた環境で美味を追求することを縄文人は、選択してきたのだ。



 




しかし、私が本当に言いたいことは違う。

和の国の人々は、この縄文人のDNAを多かれ少なかれ受けついでいるということだ。

命がけでたぶん丸木舟で200キロメール以上の海を越えて、何百回も何千回も、神津島まで黒曜石を採りに行って来たという勇気あるDNAを。

今でも、美味を追求して、ラーメン、カレー、寿司 など、よりよい味を追求している。

神津島まで渡った、縄文人のDNAと変わらない。

美味を求めるDNAはあらゆる分野で、よりよいものを今でも追求している。


和の国のルーツを知りたければ、是非、縄文時代の遺跡を訪ねていただききたい。

そこで、あなたは縄文の日本人に会うことが出来るから。


 


 

 


因みに私たち夫婦は、そうした勇気ある縄文人が暮らしたであろう丘の上で、毎日生活させてもらっている。

何と光栄なことだろう。

そして、誇りだろう。



 



 

上の写真の上から2段目が黒曜石である。

左から3番目は、特に断面が鋭利である。

鏃(やじり)にされて、獲物を効率的に捕獲できたと思われる。

この写真は、古代出雲歴史博物館に展示されていたものである。

黒曜石は、ここだけでなく、各地の縄文時代の博物館に展示されている。



和のすすめ(47)ウグイスと 弥生の道を 海求め 【和の原点 むきばんだ遺跡(鳥取県)】

2016-08-04 23:21:50 | Weblog

ウグイスと
弥生の道を
海求め

 


うぐいすと        u gu i su to

やよいのみちを ya yo i no mi chi o

うみもとめ        u mi mo to me 


 

 

ウグイスは、春の季語である。

しかし、弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀中頃)の遺跡「むきばんだ遺跡」を訪ねたのは、先週である。

句の「やよい」とは、弥生時代のことをさす。

むきばんだ遺跡(妻木晩田遺跡)の弥生人と同じように、弥生の村から夏の海を求めた。


村から海へと道は、少しずつ下る。

すると、目の前に日本海が広がる。(冒頭の写真)

遠くに島根半島。

美保湾である。

妻と二人で、びっくりした。

弥生人はこんなにも素晴らしい景色を、毎日見ていたのか?

夏の青空の下の日本海を、しばし見とれていた。

まさにパノラマである。

しかも、その美しいとまだ知らないパノラマ写真のような光景を求める道すがらでは、ウグイスが鳴いて迎えてくれた。


 




私たちが想像するより、はるかに豊かな生活を弥生人たちはしていたに違いない。

実際、我々がむぎばんだ遺跡を訪ねたその日は、気温が摂氏35度にも上がり、高温注意情報が防災無線から流れていた。

しかし、復元された竪穴式住居の中の気温は、ご覧のように、摂氏27.7度、

湿度74%。

外よりはるかに気温は低く、風通しがよいので、うっすら汗をかいていたのが、すーっと引いていく。

風は、入り口から竪穴式住居の上部に空いた開口部から抜けていくので、想像以上に通気性がよい。

また、半地下式なので、床からは冷気が伝わってくる。


今、自宅で午後5時過ぎで、網戸にしても摂氏30度ある。

扇風機なしでは、汗が止まらない。


この状況と比較しても、まったく遜色ないどころか、快適性では、むきばんだ遺跡の竪穴式住居のほうが完全に上回っている。

しかも、蚊取り線香を炊かなくても、そんなに虫は来ない。

冷気のせいと当時は、焚き火で住居が燻蒸されていて、虫が近寄りがたかったと想像できる。


むきばんだ遺跡は、今では海から遠いように感じるけれど、弥生人にとっては、ちょっと丘を下って漁に行ってくるといった感覚ではないかと想像できる。

現代人よりはるかに良く歩いていたと思われるし、だいたい歩かなければ生活が成り立たなかったでろう。

農耕するにも、漁をするにも。


つまり、生活するには最高に快適な環境だったに違いない。

竪穴式住居395基、掘建柱建物跡502基(多くは高床式倉庫として用いられたらしい)、墳丘墓24基の数の多さがその何よりの証拠である。

 


 

 

むきばんだ遺跡は、開発の計画があったが、現地調査をして、面積170ヘクタールにも及ぶ広大なものであることが、判明したという。

この弥生人の生活の様子を、開発を中止してでも後世の世界の人々に残したことは、まさに世界遺産を1つ残したと同じと個人的には考えている。

何故なら、和の人々の生活の「原点」が、遺跡から見えてくるからである。


例えば、今使っている蚊取り線香。

弥生人たちが、炊事用に使っていたのだが、その煙による燻蒸作用に着目して作られたのが、蚊取り線香と考えていいと思う。

庭で草取りをしていても、蚊取り線香を焚いていると、ほとんど蚊は近寄って来ない。

室内で使っていても、除虫菊の嫌な臭いを毛嫌いして、虫は入ってきても、近づかない。


また、屋根をふいていた茅も雨よけと同時に防虫用と考えられる。

適度な通気性がありながら、虫は通過させないというアイディアは、網戸や蚊帳(かや)に受け継がれている。

蚊帳は、今ではアフリカで重宝されているらしい。


縄文時代と弥生時代を合計すれば、約14000年もの間、文化が継続した秘密がむきばんだ遺跡にはある。

もちろん、ここ以外のすべての遺跡がそうであろう。

2つほど例を挙げたけれど、注意すればいくつも挙げられるだろう。


 




私たちはたまたま、むきばんだ遺跡で「原点」を体験したので、こちらを是非お勧めするけれど、和の国には首都圏や関西圏以外でもたくさん復元された遺跡があるので、実際に竪穴式住居等に入ってみて、体験して頂ければと思う。

そこから、和の国の人々が何を考え、何を積み重ねてきたかご理解いただけると思う。

そして、現代の「和の国の人々」が「縄文人や弥生人」から、何を受け継いでいるかを。


これからも、本ブログでは「和の国の人の原点」を縄文や弥生の遺跡から探っていきたい。

しかし、皆様に実際に訪れていただければ、より深くご理解いただけると思う。

今回のむきばんだ遺跡を始め。