リフォーム徒然なるままに Reform turezure naru-mamani

我が家のリフォーム日記です。忘れないように記録していきます。参考になれば幸いです。

最悪を考えて準備したけれど、危機は続いている。それでもこの町に住み続けたいのは・・・

2011-05-12 21:08:51 | Weblog

東日本大震災から2ヶ月以上がたった。

これまでのことを簡単に報告する。


 最悪を考えて準備しておいた

3月11日、震災当日、これで自宅も崩れ去っていると覚悟を決めて帰宅した。

しかし、事前の対策で被害としてはほとんどなかった。

特に、リフォームしたキッチン周辺では、被害はほとんどなかった。

リフォームしたバスの窓際においていた入浴剤が落下して、水道の栓(上下に回転するコック式)が1/2くらい開き、水が出っぱなしになった失敗があったが。

 (これを防ぐために、入浴剤等は、すぐに窓際から下ろして、水道栓に当たらないようにした)

 

このほかには、リビングの茶箪笥(これもロープで壁にくくりつけておいた)のワイングラス1個が中で割れたのと、使用していなかった(バックアップ用)プリンタが落下して壊れた。

 

本棚から多数の本が落下したり、小物入れや落下して中のものが散らばったり、位牌が落下したりということはおそらく東日本の家ではどこでもあったと思う。 

それらのものを一通り片付け終わった頃、帰宅難民となった知人二人が訪ねてきて、その日は一緒に一晩を過ごした。

 

実は、自宅が崩壊したらどうするかということも考えていた。

外で一晩過ごすことも考えて、庭の柿の木の枯れ枝など、万一に備えて一晩過ごせるくらいの量を屋外に蓄えていた。

近くの空き地や公園などで、それを燃やして暖をとり、近所の方や通りがかった人たちと協力して、何とかして寒さをしのぐことまで考えて。

自分と家族のためでもあり、近所やたまたま近くを通った方々のためにも絶対必要と考えていた。

だから、帰宅難民となるかもしれない知人には、帰宅できない場合は何とか過ごせそうな算段があったので、帰宅できなかったら我が家にくるよう震災後すぐに連絡してあった。

 

幸い、家は壊れなかったし、停電もしなかったので、おかげさまで知人二人と余震に恐怖を覚えながらも心強い思いで、過ごすことができた。

結局、その日は知人が来なければ、私一人だったので、私も大変ありがたかった。 

 

とにかく、最悪を考えて準備しておいた。


  自分も被災者
今回、被災した東北地方で特に津波の被害に遭われて亡くなった方々には、謹んでご冥福をお祈りする。

だが、自分も被災者であった。

必要な物資はスーパーからなくなるし、水道水は放射性物質で汚染されているというし。

東北地方等で大きく被災した方たちには比較できないが。

亡くなった方たちのご冥福を祈って私ができたのは、春の彼岸におはぎを作って、義母や昨年亡くなった父の霊とともにこの震災で亡くなった方たちの霊にお供えしたことくらいだ。

 

なんとか、放射性物質に汚染されない備蓄しておいた水道水を使って作って。

そして、作ったおはぎは近くの知人や子供たちや、孫たちに食べてもらって元気を少しでもつけてもらった。


 

  未だに「危機」が続いている


問題は、原発の問題が未だに続いているということだ。

 

 

大震災の後関西方面へ行く予定があった。

どうしようか迷ったが、汚染されていない水も必要だったので、それもかねて東名高速を車で行くことにした。

 

そのとき、東名を高速で走りながら感じたのは、「東名高速」が寸断されたらどうしようもないということだ。

第一に、万が一の時の「避難路」として。

第二に、「救援路」として。

第三に、日本の東西の経済圏を結びつける「動脈」として。

(3つとも東から西へ、そしてまた西から東へ双方向に意味がある)

 

 

これが、寸断されたら、どうしようもない。

中央高速や北陸道など迂回路はあるとはいうものの。

 

事実、東北方面へは自衛隊の関西地区からの救援車両が続々と東北へ向かっていた。

 

関西では、平和な日常があった。

公園では、親子が楽しそうに遊んでいる。

放射能の危機もなく。


 

 それでもこの町に住みたいと思ったのは?


日曜日の昼、近くの中華料理店で、チャーハンと餃子を食べた

 30年以上この町で営業しているお店だ。

 私は、体調を崩し、2,3日床に伏せていた。

やっと、食事ができるようになり、この店のチャーハンが食べたくなった。

いつものチャーハンとスープの味は、体重の減った身体には栄養が染み渡った。

 

私より先にきていた家族連れや餃子などを買いにきた小さな女の子や男性が、先に店を出ていく。

 

その誰もが、「ごちそうさま、おいしかったわ」

とか、

「ありがとう」

とか、

口々に中華料理店のおばさんとおじさんにお礼の挨拶をして、出て行く。

 私は、おいしいチャーハンをいただきながら目頭が熱くなってきた。

そして、思った。

 「ほんとうにいい人たちだな」

「いいお店だなあ」

 感謝の気持ちをちゃんと言葉にして、お店の方へ伝えていく。

 

「こんないい人たちと同じ店に来られて幸せだ」

「この人たちと一緒においしい食事をすることができて幸せだ」

なあと。

 この人たちとずっと一緒にこの町に住み続けたいなあ。

と。

 こんないい人たちの住む国に生まれてよかったなと。

 

車での帰り道、自転車で小学生と中学生らしき兄弟が左カーブを曲がってくる。

兄は、車の右側面を大回りして巻き込む心配はない。

  私は、車の左側面のカーブを、近道をして車と接触するかもしれないくらいの弟の自転車がとおり過ぎるまで、車を停止させて、やりすごした。

 その直後、兄の声がかかった。

 

「ありがとうございます」

 なんていい兄なんだろう。

しっかりと挨拶ができる。

自分の感謝のメッセージをきちんと伝えられる。

 

ほんとにいい町に住んでいるなあ、いい国に住んでいるなあと一日うれしかった。

 

みんな一生懸命、この危機的な状況に踏ん張ってがんばっている!

 

*** 以下次回へ。