(01)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(02)
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
といふ「情緒的な言ひ方」をしても、『三上章、日本語の論理、1963年』に於いて、
タゴール記念会は、私が理事です。
といふ「日本語」の「論理的な構造」を説明したことには、ならない。
然るに、
(03)
(1)タゴール記念会は私が理事長です。 然るに、
(イ)倉田氏は私ではない。 従って、
(タ)タゴール記念会は、倉田氏は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(03)により、
(04)
(1)すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは私であって、yはxの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yはzと「同一」である。 然るに、
(イ)あるzは倉田であって、zは私ではない。 従って、
(タ)すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるzは倉田であって、zはxの理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(04)により、
(05)
1 (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
イ (イ)∃z(倉田z&~私z) A
1 イ (タ)∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)} ソUI
といふ「推論」、すなはち、
1 (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1 (2) T会の会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 1UE
3 (3) T会の会員a A
13 (4) ∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 23MPP
5 (5) 私b&理事長ba&∀z(理事長za→b=z) A
5 (6) 私b&理事長ba 5&E
5 (7) 私b 5&E
5 (8) 理事長ba 5&E
5 (9) ∀z(理事長za→b=z) 5&E
5 (ア) 理事長ca→b=c 9UE
イ (イ) ∃z(倉田z&~私z) A
ウ (ウ) 倉田c&~私c A
ウ (エ) 倉田c ウ&E
ウ (オ) ~私c ウ&E
カ(カ) b=c A
ウカ(キ) ~私b オカ=E
5 ウカ(ク) ~私b&私b 7キ&I
5 ウ (ケ) b≠c カクRAA
5 ウ (コ) ~理事長ca アケMTT
5 ウ (サ) 倉田c&~理事長ca エコ&I
5 ウ (シ) ∃z(倉田z&~理事長za) サEI
5イ (ス) ∃z(倉田z&~理事長za) イウシEE
13 イ (セ) ∃z(倉田z&~理事長za) 45スEE
1 イ (ソ) T会の会員a→∃z(倉田z&~理事長za) 3セCP
1 イ (タ)∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)} ソUI
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
(a)タゴール記念会は私が理事長です。 然るに、
(b)倉田氏は私ではない。 従って、
(c)タゴール記念会は、倉田氏は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」であり、それ故、
(α)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。然るに、
(β)∃z(倉田z&~私z)。従って、
(γ)∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)}。
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(07)
(α)すべてのzについて、zがx(タゴール記念会)の理事長であるならば、y(私)はzと「同一」である。
といふことは、
(a)(タゴール記念会の)理事長は、私以外にはゐない。
といふことである。
然るに、
(08)
(a)(タゴール記念会の)理事長は、私以外にはゐない。
といふことは、
(a)(タゴール記念会の)理事長は、私である。
といふ、ことである。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
といふことは、
(a)タゴール記念会は、私が理事です。
(α)タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
に於いて、
(a)=(α) である。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)により、
(10)
(a)私が理事長です。
といふ「日本語」、すなはち、
(a)AがBである。
といふ「日本語」は、
(a)AはBであり、A以外はBでない(AはBであり、BはAである)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
伝統的論理学を清水滉『論理学』(1916年)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊の一冊で、なお引き続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学は、沢田允茂『現代論理学入門』(1962年)を参照することにする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(12)
少なくとも、『三上章、日本語の論理、1963年』等、並びに『竹林一志、主語・題目語をめぐる三上章の論:総合文化研究第18巻第1号(2012.8)』を読む限り、三上章先生は、
(a)AがBである。
といふ「日本語」は、
(a)AはBであり、A以外はBでない(AはBであり、BはAである)。
といふ、「意味」である。
といふことに、気付いてゐないし、仮に気付いてゐたとしも、そのことを「無視」してゐたと、言はざるを得ない。