日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(23)「お前が言うな。」の「が」について。

2018-04-04 14:18:51 | 「は」と「が」
(01)
(a)
1  (1)  A→ B 仮定
 2 (2)    ~B 仮定
  3(3)  A    仮定
1 3(4)     B 13前件肯定
123(5)  B&~B 42&導入
12 (6) ~A    35背理法
1  (7) ~B→~A 26条件法
(b)
1  (1) ~B→~A 仮定
 2 (2)     A 仮定
  3(3) ~B    仮定
1 3(4)    ~A 13前件肯定
123(5)  A&~A 24&導入
12 (6)~~B    35背理法
12 (7)  B    6二重否定
1  (8)  A→B  27条件法
従って、
(01)により、
(02)
(a)
1  (1)AならばBである。    仮定
 2 (2)    Bでない。    仮定
  3(3)Aである。        仮定
1 3(4)    Bである。    13前件肯定
123(5)BでありBでない。    42&導入
12 (6)Aでない。        35背理法
1  (7)BでないならばAでない。 26条件法
(b)
1  (1)BでないならばAでない。 仮定
 2 (2)       Aである。 仮定
  3(3)Bでない。        仮定
1 3(4)       Aでない。 13前件肯定
123(5)AでありAでない。    24&導入
12 (6)Bでない。でない。    35背理法
12 (7)Bである。        6二重否定
1  (8)AならばBである。    27条件法
従って、
(02)により、
(03)
(a)
1  (1)大野ならば私である。    仮定
 2 (2)     私でない。    仮定
  3(3)大野である。        仮定
1 3(4)     私である。    13前件肯定
123(5)私であり私でない。     42&導入
12 (6)大野でない。        35背理法
1  (7)私でないならば大野でない。 26条件法
(b)
1  (1)私でないならば大野でない。 仮定
 2 (2)       大野である。 仮定
  3(3)私でない。         仮定
1 3(4)       大野でない。 13前件肯定
123(5)大野であり大野でない。   24&導入
12 (6)私でない。でない。     35背理法
12 (7)私である。         6二重否定
1  (8)大野ならば私である。    27条件法
従って、
(01)~(03)により、
(04)
③ 大野ならば私である。
④ 私でないならば大野でない。
に於いて、
③と④は「対偶(Contraposition)」であるため、必ず、
③=④ である。
然るに、
(05)
③ 大野ならば私である。
④ 私でないならば大野でない。
といふことは、
大野は私です。
④ 私以外は大野ではない
といふことに、他ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
大野は私です。
④ 私以外は大野ではない
に於いて、
③=④ である。
といふことを、「論理学(対偶)」が示すところの、「事実」である。
従って、
(07)
大野は私です。
日本の首都は東京である。
④ 私以外は大野ではない
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ「日本語」に於いて、
③=④ である。
といふことは、「学説」ではなく、「事実」である。
然るに、
(08)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(08)により、
(09)
②  私(未知)が大野(既知)です。
③ 大野(既知)は 私(未知)です。
といふことは、無いにしても、
② 私大野です。
大野は私です。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
② 私大野です。
大野は私です。
④ 私以外は大野ではない
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(11)
「逆」には、
(1)真でないときと、
(2)真であるときがあります。
そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(11)により、
(12)
① 私は大野です。
であるからと言って、必ずしも、
大野は私です。
であるとは、限らない
すなはち、
(13)
【名字】大野
【読み】おおの,おの,おおや,おうの
【全国順位】 71位
【全国人数】 およそ222,000人
であるが故に、
①(今、この場所に)大野(A)さんと、
①(今、この場所に)大野(B)さんといふ「二人の大野さん」がゐる場合は、
① 私は大野です。
であるからと言って、
大野は私です。
であるとは、言へない。
しかるに、
(14)
①(今、この場所に)大野(A)さんだけしかゐない。
のであれば、
① 私は大野です。
大野は私です。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(10)(14)により、
(15)
① 私は大野です。
② 私大野です。
③ 大野は私です。
④ 私以外は大野ではない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
然るに、
(16)
大野 智(おおの さとし[1]、1980年11月26日[1] - )は、日本の歌手、俳優、タレント、アイドルであり、男性アイドルグループ・嵐 のリーダーである[1]。愛称は「大ちゃん」「リーダー」[4]など。
然るに、
(17)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法」ではないにせよ、いづれにしても、
⑤ 大野智( )結婚!
が、「週刊誌の見出し」であるならば、
⑤ 大野智( )結婚!
に於ける、
⑤    ( )の中には、
⑤    「」が、入り、
⑤    「は」は、入らない
然るに、
(19)
⑤ 誰も知らない、何処かに住んでゐる大野さんが結婚する。
からといって、そのことが、「週刊誌の見出し」になることなどは、決して無い。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ 大野智が結婚!
といふ「週刊誌の見出し」は、
⑤(ならあの)大野智結婚!
といふ、「意味」になる。
従って、
(15)(20)により、
(21)
① 私大野です。
② 大野智結婚!
の場合は、それぞれ、
① 私は大野であって(私以外は大野ではない)。
②(なら)大野智結婚!
といふ、「意味」になる。
従って、
(21)により、
(22)
① ABである。
② ABである。
の場合は、
① AはBであって(A以外はBでない)。
②(なら)AがBである。
といふ「二通り」が、有ることになる。
cf.
「終止形としての排他的命題」=AはBであって(A以外はBでない)。
「連体形としての排他的命題」=(他ならぬ)AがBである。
然るに、
(23)
Aは「一度も窃盗をしたことが無く、刑務所とは無縁である」。
Bも「一度も窃盗をしたことが無く、刑務所とは無縁である」。
Cは「窃盗の罪で、何度も刑務所に入ってゐて、それでも尚、盗みを止める気が無い」。
とする。
然るに、
(24)
この場合、
A曰く「万引きは、絶対にしてはならない。」
B曰く「万引きは、絶対にしてはならない。」
と言ったとしても、
D曰く「お前ら言ふな!」
といふことには、ならない。
然るに、
(25)
C曰く「万引きは、絶対にしてはならない。」
と言ふのであれば、
D曰く「お前言ふな!」
といふ、ことになる。
従って、
(26)
お前が言うなとは、主に自分を棚上げした言動・表現に対して使われる言葉である。「おまえがいうな」「おまえが言うな」などの表記ゆれも見られるが、ここでは「お前が言うな」として取り扱う。
この表現は、ある事柄(社会問題など)に対し、その是非を指摘するには不自然な立場の人物が言及した際の批判やツッコミとして用いられることが多い。
突っ込まれる側は、自らを反省、過去を顧みることをせず、その場の思い付きで発言するケースが多くみられる。いくら言論の自由があっても、自分で自分を突っ込むような発言は無責任という印象を強くして自ら貶める結果を生む。
(お前が言うなとは (オマエガイウナとは) [単語記事] - ニコニコ大百科)
従って、
(23)~(26)により、
(27)
D曰く「お前が言ふな!」
といふのは、
D曰く「(AやBならばともかく窃盗の常習犯であるCよ、)お前言うな!」
といふ「意味」である。
然るに、
(28)
D曰く「(AやBならばともかく窃盗の常習犯であるCよ、)お前言うな!」
といふことは、
D曰く「(AやBならばともかく、ならCよ、)お前言うな!」
といふ、ことである。
従って、
(28)により、
(29)
「お前言ふな!」といふ「日本語」は、
「(なら)お前言ふな!」といふ、「意味」である。

(22)大野晋先生の「は(既知)・が(未知)」説は「赤点」です。

2018-04-03 18:20:57 | 「は」と「が」
(00)
「昨日(4月2日)の記事」を、書き直します。
(01)
(1) 既知(扱い)と未知(扱い)
(2) 既知(扱い)と既知(扱い)
(3) 未知(扱い)と既知(扱い)
(4) 未知(扱い)と未知(扱い)
はじめに既知がくる(1)と(2)では既知(あるいは既知扱い)の下にという助詞を使う。また(3)と(4)では未知(あるいは未知扱い)の下にという助詞を使う。これが現代日本語の文の基本的構造である。まず(1)を示そう。
(1) 既知と未知
 私は大野です。
という文は、檀の上に立って私なるものが聴衆に見えている。それで、私なる存在については相手もこれをみて知っている、すると、それを既知扱いにして「私は大野です」という。この「大野です」という部分は実は未知の部分にあたり、「私は(ダレカトイウト)大野です」の意味である。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、24・25頁)
従って、
(01)により、
(02)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
である。
従って、
(02)により、
(03)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
である以上、
① My name is 大野 =
① 私の名前(知)は大野(知)です。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)により、
(04)
① 私の名前(知)=大野(知)
である。
然るに、
(05)
① 私の名前(既知)=大野(既知)
ではなく、
① 私の名前(未知)=大野(未知)
でもなく、
① 私の名前(知)=大野(知)
であるならば、「矛盾」である。
従って、
(02)(05)により、
(06)
① I am 大野 =
① 私(既知)は大野(未知)です。
ではない。
(07)
「あの人は誰ですか」
「隣のおじさんです」
というような場合、「あの人」はすでに分り切っているので、答えでは省略された。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、32頁)
従って、
(01)(07)により、
(08)
① Who is あの人 =
① あの人(知)は誰(知)ですか。
である。
然るに、
(09)
① Who is あの人 =
① あの人(既知)は誰(未知)ですか。
であれば、
① あの人が誰であるか、分からない。
からこそ、
① あの人(既知)は誰(未知)ですか。
といふ風に「質問」してゐるはずであり、だとすれば、
① あの人(知)は誰(知)ですか。
であると、すべきである。
(10)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(10)により、
(11)
① 私大野です。
② 大野私です。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(12)
② 大野私です。
③ 大野ならば私です。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(13)
(a)
1  (1)大野ならば私である。    仮定
 2 (2)     私でない。    仮定
  3(3)大野である。        仮定
1 3(4)     私である。    13前件肯定
123(5)私であり私でない。     42&導入
12 (6)大野でない。        35背理法
1  (7)私でないならば大野でない。 26条件法
(b)
1  (1)私でないならば大野でない。 仮定
 2 (2)       大野である。 仮定
  3(3)私でない。         仮定
1 3(4)       大野でない。 13前件肯定
123(5)大野であり大野でない。   24&導入
12 (6)私でない。でない。     35背理法
12 (7)私である。         6二重否定
1  (8)大野ならば私である。    27条件法
従って、
(13)により、
(14)
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
といふことから、すなはち、「対偶」は等しい。といふことから、
③ 大野ならば私です。
④ 私でないならば大野でない
に於いて、必ず、
③=④ である。
然るに、
(15)
④ 私でないならば大野でない
⑤ 私以外は大野ではない
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
① 私大野です。
大野は私です。
③ 大野ならば私です。
④ 私でないならば大野でない
⑤ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③=④=⑤ である。
従って、
(16)により、
(17)
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(17)により、
(18)
③ 私以外は大野ではない
が、「本当」ではない場合、すなはち、
③ 私以外にも大野といふ「名前」の人物がゐる場合は、
① 私大野です。は、「ウソ」になり、
大野は私です。は、「ウソ」になり、
③ 私以外は大野ではない。は、「ウソ」になる。
従って、
(18)により、
(19)
例へば、
「大野A」さんと、
「大野B」さんと、
「大野C」さんが、ゐる場合は、
「大野さんはどちらですか。」
といふ「質問」に対して、例へば、
「大野」さんは、
「私大野です。」
と言ふか、
「私大野です。」
と言ふのであって、
「私大野です。」
とは、決して、言はない
従って、
(10)(19)により、
(20)
例へば、
「大野A」さんと、
「大野B」さんと、
「大野C」さんが、ゐる場合には、
 私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる。
といふことには、ならない。
(21)
「大野さんはどちらですか。」
「私大野です。」
に対して、
「大野A」さんとが、
「大野Aさんはどちらですか。」
といふ「問ひ」に対して、
「私大野Aです。」
と「答へる」のであれば、それこそ、
① 私大野Aです。
大野Aは私です。
③ 私以外は大野Aではない
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、ことになる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
① 私(未知)が大野(既知)です。
② 大野(既知)は私(未知)です。
③ 私(未知)以外は大野(既知)ではない。
であるが故に
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、わけではない
(24)
① 私大野です。
大野は私です。
に於いて、
①=② であって、
尚且つ、「対偶」は等しいが故に、
② 大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
②=③ であって、
それ故、
① 私大野です。
大野は私です。
③ 私以外は大野ではない
に於いて、
①=②=③ である。
とするのが、「正しい」。
(25)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
(26)
「未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
(27)
 あのチャップリン大往生。
といふのは、
ならあのチャップリン大往生。
といふ、「意味」である。
cf.
「終止形としての排他的命題」=AはBであって(A以外はBでない)。
「連体形としての排他的命題」=(A以外ではない所の)AがBである=(他ならぬ)AがBである。
(28)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(29)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
音)の音量」の方が、
「は(清音)の音量」よりも、「大きい」。
従って、
(30)により、
(31)
「あのチャップリン」の「音量」の方が、
「あのチャップリンは」の「音量」よりも「大きい」。
従って、
(25)(31)により、
(32)
「あのチャップリンは」に対する、
「あのチャップリン」は、「驚異」ではなく、「強意」を表してゐる。