(01)
たとえば「こんにゃく文」と呼ばれるものです。「こんにゃくは太りません」という例文には主語があるでしょうか。
主語があるとしたら何であるかが問題になります。主語は述語と対応関係を形成します。述語の主人公が主語です。
主語が「こんにゃく(は)」で述語が「太りません」では、文の意味が[太らないとされる当事者がこんにゃく]ということになってしまいます。例文の文構造を、どう考えるべきでしょうか。
(投稿日: 2017-02-06 作成者: 丸山有彦)
然るに、
(02)
1 (1) ∀x{蒟蒻x→~∃y(人y&食yx&太y)} A
2 (2) ∀x{麺麭x→ ∃y(人y&食yx&太y)} A
3 (3) ∃x(蒟蒻x&麺麭x) A
1 (4) 蒟蒻a→~∃y(人y&食ya&太y) 1UE
2 (5) 蒟蒻a→ ∃y(人y&食ya&太y) 2UE
6 (6) 蒟蒻a&麺麭a A
6 (7) 蒟蒻a 6&E
6 (8) 麺麭a 6&E
1 6 (9) ~∃y(人y&食yx&太y) 47MPP
2 6 (ア) ∃y(人y&食yx&太y) 58MPP
12 6 (イ) ~∃y(人y&食yx&太y)&
∃y(人y&食yx&太y) 9ア&I
123 (ウ) ~∃y(人y&食yx&太y)&
∃y(人y&食yx&太y) 36イEE
12 (エ)~∃x(蒟蒻x&麺麭x) 3ウRAA
オ (オ) 蒟蒻a&麺麭a A
オ (カ) ∃x(蒟蒻x&麺麭x) オEI
12 オ (キ)~∃x(蒟蒻x&麺麭x)&∃x(蒟蒻x&麺麭x) オカ&I
12 (ク) ~(蒟蒻a&麺麭a) オキRAA
ケ (ケ) 蒟蒻a A
コ(コ) 麺麭a A
ケコ(サ) 蒟蒻a&麺麭a ケコ&I
12 ケコ(シ) ~(蒟蒻a&麺麭a)&(蒟蒻a&麺麭a) クサ&I
12 ケ (ス) ~麺麭a コシRAA
12 (セ) 蒟蒻a→~麺麭a ケスCP
12 (ソ)∀x(蒟蒻x→~麺麭x) セUI
従って、
(02)により、
(03)
① ∀x{蒟蒻x→~∃y(人y&食yx&太y)}。然るに、
② ∀x{麺麭x→ ∃y(人y&食yx&太y)}。従って、
③ ∀x(蒟蒻x→~麺麭x)。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
従って、
(03)により、
(04)
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、ある(yが人であり、yがxを食べ、yが太る)といふことはない}。然るに、
② すべてのxについて{xが麺麭であるならば、ある(yは人であり、yはxを食べ、yは太る)}。従って、
③ すべてのxについて(xが蒟蒻であるならば、xは麺麭ではない)。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
従って、
(04)により、
(05)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。然るに、
② パンは、 それを食べて、太る者もゐる。 従って、
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「日本語」は、
① ∀x{蒟蒻x→~∃y(人y&食yx&太y)}。
③ ∀x(蒟蒻x→~麺麭x)。
といふ「述語論理式」に、「相当」する。
従って、
(06)により、
(07)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
③ コンニャクは、
といふ「日本語」は、両方とも、
① ∀x{蒟蒻x→
③ ∀x(蒟蒻x→
といふ「意味」、すなはち、
① すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、
③ すべてのxについて{xが蒟蒻であるならば、
といふ、「意味」である。
従って、
(07)により、
(08)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
③ コンニャクは、
に於いて、
① =② である。
然るに、
(09)
③ コンニャクはパンではない。
に於ける、
③ コンニャクは
は、「常識的」には、「主語」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
③ コンニャクは、
に於いて、
① は「主語」であり、
② も「主語」である。
然るに、
(11)
② 蒟蒻無人食之而太者=
② 蒟蒻無〔人食(之)而太者〕⇒
② 蒟蒻〔人(之)食而太者〕無=
② 蒟蒻は〔人にして(之れ)を食して太る者〕無し=
② コンニャクは、これを食べて、太る者は、ゐない。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
② 蒟蒻は〔人にして(之れ)を食して太る者〕無し。
③ コンニャクは、パンではない。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
③ コンニャクは、
に於いて、
① は「主語」であり、
② も「主語」であり、
③ も「主語」である。
然るに、
(13)
第17節 大主語・提示語
主語・述語の順序で並べられた文章で、述語の上に置かれる語が一つの主語ではなく、主語が重なっている場合がある。
また何かについて述べようとしてその語をまず先に掲げておいて、その次にそれについて具体的に説明する場合がある。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、120頁改)
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① コンニャクは、それを食べて、太る者はゐない。
② 蒟蒻は〔人にして(之れ)を食して太る者〕無し。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
② 蒟蒻は、
に於いて、
① は「提示語」であり、
② も「提示語」である。
従って、
(01)~(14)により、
(15)
「述語論理」並びに、「漢文の文法」といふ「観点」からすれば、
① コンニャクは、太らない。
② 蒟蒻は〔人にして(之れ)を食して太る者〕無し。
といふ「日本語」に於ける、
① コンニャクは、
② 蒟蒻は、
に於いて、
① は「主語(提示語)」であり、
② も「主語(提示語)」である。
従って、
(15)により、
(16)
「述語論理」並びに、「漢文の文法」からすれば、
「主語(提示語)」といふ「用語」を、「廃止」すべきではない。
然るに、
(17)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。「象は」は、テーマを提示する主題であり、これから象についてのことを述べますよというメンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する(この場合は「長い」までをスコープとする)。また、「鼻が」は主格の補語にすぎなく、数ある補語と同じ格であるとする。基本文は述語である「長い」だけだ。
(三上文法! : wrong, rogue and log)
従って、
(17)により、
(18)
三上先生が所謂、「テーマを提示する主題」といふのは、
西田先生が所謂、「提示語」であるに、違ひない。
然るに、
(19)
「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。困ることが前提である。だから、まず困ってもらわないと、困るのである。困ったことには、まず困るというところへも行かない人がかなり多いらしい。
(三上章、日本語の論理、1963年、148頁)
従って、
(13)(18)(19)により、
(20)
西田先生は、「主語」と「提示語」を、「矛盾」しないとしてゐるものの、
三上先生は、「主語」と「提示語」を、「矛盾」するものとして、捉えてゐる。
然るに、
(21)
まだ現物を見ていませんが、幻の書と言われた漢文の解説本が復刊されました。
2chの漢文参考書スレには必ずといっていいほど登場する本。
そして古本では必ず1万円以上する!! ―中略―、
知る人ぞ知る、『漢文法基礎』です。久々に「買い」の本が出ましたよ。
(古田島洋介、FC2ブログ、古代中国箚記)
然るに、
(22)
最近、神保町で購入した『漢文の語法』も、YAHOO!ショッピングでは、2万円近くするものの、
『二畳庵主人著、漢文法基礎』も、
『西田太一郎著、漢文の語法』も、
「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。
といふ「立場」を、取ってはいない。
従って、
(19)(22)により、
(23)
三上先生は、「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。
といふものの、『漢文の文法(語法)』を学ぼうと、する限り、「主語」といふ「用語」を、「無視」するわけには、行かない。
(01)
―「昨日(令和02年10月11日)の記事」でも示した通り、―
1 (1) ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)} A
1 (〃)あるxは{吾輩であって猫であり、名前は無い)。 A
2 (2) ∃x{タマx& ∃y(名前yx)} A
3 (3) 吾輩a&猫a&~∃y(名前ya) A
4(4) タマa& ∃y(名前ya) A
3 (5) ~∃y(名前ya) 3&E
4(6) ∃y(名前ya) 4&E
34(7) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 56&I
23 (8) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 247EE
12 (9) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 138EE
1 (ア) ~∃x{タマx& ∃y(名前yx)} 29RAA
1 (イ) ∀x~{タマx& ∃y(名前yx)} ア量化子の関係
1 (ウ) ~{タマa& ∃y(名前ya) イUE
1 (エ) ~タマa∨ ~∃y(名前ya) ウ、ド・モルガンの法則
1 (オ) ~∃y(名前ya)∨~タマa エ交換法則
1 (カ) ∃y(名前ya)→~タマa オ含意の定義
1 4(キ) ~タマa 6カMPP
12 (ク) ~タマa 24キEE
3 (ケ) 吾輩a&猫a 3&E
123 (コ) 吾輩a&猫a&~タマa クケ&I
123 (サ) ∃x(吾輩x&猫x&~タマx) コEI
12 (シ) ∃x(吾輩x&猫x&~タマx) 13サEE
12 (〃)あるxは(吾輩であって猫であるが、タマではない)。 13サEE
従って、
(01)により、
(02)
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)},∃x{タマx&∃y(名前yx)}├ ∃x(吾輩x&猫x&~タマx)
といふ「推論」、すなはち、
①{吾輩は猫である。名前は無い。}然るに、{タマには名前が有る。}従って、{吾輩はタマではないが、猫である。}
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(03)
ピリオド越えとは、「Ⅹは」という「主語」が「以降の文の主語」としても働く現象のことだ。それはどういうものなのか、実例として
夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭の文章を見てみよう。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
最初の文の主語(「主題」とも言う)である「吾輩」は、以降の文の主語でもある。
(オルタナティブブログ:どんなときに主語を省略できるのか。)
従って、
(03)により、
(04)
「ピリオド越え」といふのは、例へば、
① 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
といふ「文」が、「実質的」に、
① 吾輩は猫である。(吾輩は)名前はまだ無い。
といふ「意味」である。といふ、ことを言ふ。
然るに、
(05)
1 (1) ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)} A
1 (〃) あるxは{吾輩であって猫であり、名前は無い)。 A
2(2) 吾輩a&猫a&~∃y(名前ya) A
2(3) 吾輩a 2&E
2(4) 猫a 2&E
2(5) ~∃y(名前ya) 2&E
2(6) 吾輩a&~∃y(名前ya) 35&I
2(7) ∃x{吾輩x&~∃y(名前yx)} 6EI
1 (8) ∃x{吾輩x&~∃y(名前yx)} 127EE
2(9) 吾輩a&猫a 34&I
2(ア) ∃x(吾輩x&猫x) 9EI
1 (イ) ∃x(吾輩x&猫x) 12アEE
1 (ウ)∃x(吾輩x&猫x)&∃x{吾輩x&~∃y(名前yx)} 8イ&I
1 (〃)あるxは(吾輩であって猫である。)&
あるxは{吾輩であって(xの名前である所のyは)存在しない。}8イ&I
従って、
(05)により、
(06)
① ∃x{吾輩x&猫x & ~∃y(名前yx)}├
∃x(吾輩x&猫x)&∃x{吾輩x&~∃y(名前yx)}
といふ「連式」、すなはち、
①{吾輩は猫である。 名前は無い。}故に、
{吾輩は猫であり}、{吾輩は名前は無い。}
といふ「連式」は、「妥当」である。
然るに、
(07)
①{吾輩は猫である。 名前は無い。}故に、
{吾輩は猫であり}、{吾輩は名前は無い。}
といふ「推論」が、「妥当」である。といふことは、
① 吾輩は猫である。 名前は無い。
② 吾輩は猫である。(吾輩は)名前は無い。
に於いて、
① ならば、② である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(04)~(07)により、
(08)
① 吾輩は猫である。 名前は無い。
② 吾輩は猫である。(吾輩は)名前は無い。
に於いて、
① ならば、② である。
といふことは、「ピリオド越え」に、他ならない。
従って、
(04)~(08)により、
(09)
「述語論理(Predicate logic)」といふ「観点」からすると、
① ∃x{吾輩x&猫x & ~∃y(名前yx)}├
∃x(吾輩x&猫x)&∃x{吾輩x&~∃y(名前yx)}
といふ「連式」が「妥当」であるからこそ、
① 吾輩は猫である。 名前は無い。
② 吾輩は猫である。(吾輩は)名前は無い。
に於いて、
① ならば、② である。
といふ「ピリオド越え」が、「実現」する。
然るに、
(10)
EXCERCISES
1 For each of the following formulae, state whether it is a well-formed formula, a propositional function not a well-formed formula, or neither.
練習問題
1 つぎの式のそれぞれについて、それが「論理式であるのか」、または、「論理式ではなくて、命題関数であるのか」、または、「論理式でも、命題関数でも、ないのか」を述べよ。
(論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、187頁改)
(私による)解答:
(a)∀x(Gxa) は、「論理式」である。
(b)∀x(Gya) は、「論理式」でも、「命題関数」でもないため、所謂、「非文」である。
(c)∀x(Gxy) は、「yに関する、命題関数」である。
然るに、
(11)
「Fx」、「(Fy→∀x(Gx))」、「Hxy」のような式は、「縛られていない、変数x」および「縛られていない、変数y」が含まれていることから考えて、「真または偽なる命題」を表現する、「完全な文(complete sentence)」でないことから、われわれの今の定義によって「論理式」とはみなされないのではあるが、以下においては、それらの式に対する呼び名のある方が便利である。われわれは論理学の伝統にしたがって、「命題関数(propositional function)」の名を用いるであろう。
(論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、182頁改)
従って、
(10)(11)
(12)
「論理式」は「完全な文(complete sentence)」であるが、
「命題関数」は「完全な文(complete sentence)」ではない。
然るに、
(13)
「完全な文(complete sentence)」ではないのであれば、「文(sentence)」ではない。
従って、
(12)(13)により、
(14)
「命題関数」は、所謂、「文(sentence)」ではない。
然るに、
(15)
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}≡吾輩は猫である。名前は無い。
② ~∃y(名前yx) ≡名前は無い(xの名前である所のyは存在しない)。
に於いて、
① は「 論理式(文である)」であるが、
② は「命題関数(文でない)」である。
従って、
(05)(09)(14)(15)により、
(16)
「述語論理(Predicate logic)」といふ「観点」からすると、
ピリオド越えとは、「Ⅹは」という「主語」が「以降の文(sentence)の主語」としても働く現象のことだ。
といふ「言ひ方」は、「正しく」はなく、
ピリオド越えとは、「Ⅹは」という「主語」が『以降の「命題関数(propositional function)」の主語』としても働く現象のことだ。
といふ「言ひ方」こそが、「正しい」。
(01)
三上章の『象は鼻が長い』を読み、「主語廃止論」と並んで衝撃的であったのは、「は」のコンマ超えとピリオド越えである。
(金谷武洋、日本語の文法の謎を解く、2003年、72頁)
(02)
ピリオド越えとは、「Xは」という主語が以降の文の主語としても働く現象のことだ。それはどういうものなのか、実例として夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭の文章を見てみよう。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
最初の文の主語(「主題」とも言う)である「吾輩」は、以降の文の主語でもある。
(オルタナティブブログ:どんなときに主語を省略できるのか。)
従って、
(02)により、
(03)
「ピリオド越え」といふのは、例へば、
① 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
に於ける、
① 名前はまだ無い。
といふ「文」が、「実質的」に、
① 吾輩は猫である。(吾輩は)名前はまだ無い。
といふ「意味」である。といふ、ことを言ふ。
然るに、
(04)
1 (1) ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)} A
1 (〃)あるxは{吾輩であって猫であり、名前は無い)。 A
2 (2) ∃x{タマx& ∃y(名前yx)} A
3 (3) 吾輩a&猫a&~∃y(名前ya) A
4(4) タマa& ∃y(名前ya) A
3 (5) ~∃y(名前ya) 3&E
4(6) ∃y(名前ya) 4&E
34(7) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 56&I
23 (8) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 247EE
12 (9) ~∃y(名前ya)&∃y(名前ya) 138EE
1 (ア) ~∃x{タマx& ∃y(名前yx)} 29RAA
1 (イ) ∀x~{タマx& ∃y(名前yx)} ア量化子の関係
1 (ウ) ~{タマa& ∃y(名前ya) イUE
1 (エ) ~タマa∨ ~∃y(名前ya) ウ、ド・モルガンの法則
1 (オ) ~∃y(名前ya)∨~タマa エ交換法則
1 (カ) ∃y(名前ya)→~タマa オ含意の定義
1 4(キ) ~タマa 6カMPP
12 (ク) ~タマa 24キEE
3 (ケ) 吾輩a&猫a 3&E
123 (コ) 吾輩a&猫a&~タマa クケ&I
123 (サ) ∃x(吾輩x&猫x&~タマx) コEI
12 (シ) ∃x(吾輩x&猫x&~タマx) 13サEE
12 (〃)あるxは(吾輩であって猫であるが、タマではない)。 13サEE
従って、
(04)により、
(05)
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)},∃x{タマx&∃y(名前yx)}├ ∃x(吾輩x&猫x&~タマx)
といふ「推論」、すなはち、
① 吾輩は猫である。名前は無い。然るに、タマには名前が有る。従って、吾輩はタマではないが、猫である。
① I am a cat. I have no name for me. However, Tama has his own name. Therefore, I am not Tama, but a cat.
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(06)
(ⅰ)論理式または命題関数において、量記号が現れる任意の箇所の作用範囲は、問題になっている変数が現れる「少なくとも2つの箇所」を含むであろう(その1つの箇所は量記号そのもののなかにある); (論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、183頁)
(ⅱ)括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
に於いて、
① ∃x≡吾輩
の「意味」は、
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
といふ「述語論理式(完全な文)の全体」に、及んでゐる。
従って、
(07)により、
(08)
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
とするならば、「定義」により、
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
に於ける「主語(MAIN WORD)]は、
① ∃x≡吾輩
である。といふことになる。
然るに、
(09)
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
に於ける、
① ~∃y(名前yx)≡名前は無い。
の場合は、
① xに関する、「命題関数(propositional function)」であって、
①「命題関数」は、「完全な文(Well-formed formula)」ではない。
従って、
(04)(09)
(10)
① 吾輩は猫である。名前は無い。⇔
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
といふ「等式」に基づく限り、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
こそが、「1つの論理式(完全な文)」であって、それ故、
① 名前は無い。
といふ「命題関数」は、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
といふ「論理式(完全な文)」の、飽くまでも、「一部」に過ぎない。
従って、
(10)により、
(11)
① 吾輩は猫である。名前は無い。⇔
① ∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
といふ「等式」に基づく限り、
① 吾輩は猫である。名前は無い。 といふ「文」は、「2つの文」ではなく、飽くまでも、「1つの文」である。
従って、
(02)(11)により、
(12)
「ピリオド越え」とは、「Ⅹは」という主語が以降の文(論理式)の主語としても働く現象のことだ。
といふ風に「定義」する。のであれば、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
に於いて、「ピリオド越え」は、無い。
然るに、
(13)
「一階述語論理は、数学のほぼ全領域を形式化するのに十分な表現力を持っている。実際、現代の標準的な集合論の公理系 ZFC は一階述語論理を用いて形式化されており、数学の大部分はそのように形式化された ZFC の中で行うことができる(ウィキペディア)。」としても、
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」
といふ「文の全体」を、「(数学用の)述語論理式」に「翻訳」することは、「無理」である。
然るに、
(11)(12)(13)により、
(14)
(ⅰ)名前はまだ無い。
(ⅱ)どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
(ⅲ)何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
に於いて、仮に、
(ⅰ)だけでなく、
(ⅱ)も「論理式(完全な文)」ではなく、「命題関数(不完全な文)」である。
(ⅲ)も「論理式(完全な文)」ではなく、「命題関数(不完全な文)」である。
とするならば、その限りに於いて、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
② 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
に於いて、
① だけなく、
② であっても、「ピリオド越え」は、無い。
然るに、
(08)により、
(15)
もう一度、確認すると、
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
とするのであれば、
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (〃)象は、鼻が長い。 A
2 (2)∀x{兎x→∃y(長y&耳yx)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
2 (〃)兎は、耳が長いが、兎の耳は鼻ではない。 A
3 (3)∃x(兎x&象x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(長y&耳ya)&∀z(耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 兎a&象a A
6 (7) 兎a 6&E
6 (8) 象a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 48MPP
2 6 (ア) ∃y(長y&耳ya)&∀z(耳za→~鼻za) 57MPP
1 6 (イ) ∃y(鼻ya&長y) 9&E
ウ (ウ) 鼻ba&長b A
2 6 (エ) ∃y(長y&耳ya) ア&E
オ(オ) 長b&耳ba A
オ(カ) 耳ba オ&E
2 6 (キ) ∀z(耳za→~鼻za) ア&E
2 6 (ク) 耳ba→~鼻ba キUE
2 6 オ(ケ) ~鼻ba オクMPP
1 6 (コ) ∀z(~鼻za→~長z) ア&E
1 6 (サ) ~鼻ba→~長b コUE
12 6 オ(シ) ~長b ケサMPP
オ(ス) 長b オ&E
12 6 オ(セ) 長b&~長b シス&I
12 6 (ソ) 長b&~長b エオセEE
123 (タ) 長b&~長b 36ソEE
12 (チ)~∃x(兎x&象x) 3タRAA
12 (ツ)∀x~(兎x&象x) チ量化子の関係
12 (テ) ~(兎a&象a) ツUE
12 (ト) ~兎a∨~象a テ、ド・モルガンの法則
12 (ナ) 兎a→~象a ト含意の定義
12 (ニ)∀x(兎x→~象x) ナUI
12 (〃)すべてのxについて(xが兎であるならば、xは象ではない)。 ナUI
12 (〃)兎は、象ではない。 ナUI
といふ「計算(Predicate calculus)」が「可能」であるが故に、「定義」により、
② 象は鼻が長い≡∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
に於ける、「主語(MAIN WORD)」は、
② 象≡∀x
である。といふ、ことになる。
同様に、
(16)
1 (1)∀x∃y{(鼻xy&象y→長x)&(~象y&長x→~鼻xy)} A
1 (〃)鼻は象が長い。 A
1 (2) ∃y{(鼻ay&象y→長a)&(~象y&長a→~鼻ay)} 1UE
3 (3) (鼻ab&象b→長a)&(~象b&長a→~鼻ab) A
3 (4) ~象b&長a→~鼻ab 3&E
5 (5)∃x∃y(兎y&~象y&鼻xy) A
5 (〃)兎は象ではないが、鼻がある。 A
6 (6) ∃y(兎y&~象y&鼻ay) A
7(7) 兎b&~象b&鼻ab A
7(8) 兎b& 7&E
7(9) ~象b 7&E
7(ア) 鼻ab 7&E
7(イ) ~~鼻ab アDN
3 7(ウ) ~(~象b& 長a) 4イMTT
3 7(エ) ~~象b∨~長a ウ、ド・モルガンの法則
3 7(オ) ~象b→~長a エ含意の定義
3 7(カ) ~長a 9オMPP
7(キ) 兎b&鼻ab 8ア&I
3 7(ク) 兎b&鼻ab&~長a カキ&I
3 7(ケ) ∃y(兎y&鼻ay&~長a) クEI
3 6 (コ) ∃y(兎y&鼻ay&~長a) 67ケEE
3 6 (サ)∃x∃y(兎y&鼻xy&~長x) コEI
35 (シ)∃x∃y(兎y&鼻xy&~長x) 56サEE
1 5 (ス)∃x∃y(兎y&鼻xy&~長x) 13シEE
1 5 (〃)兎の鼻は、長くない。 13シEE
といふ「計算(Predicate calculus)」が「可能」であるが故に、「定義」により、
③ 鼻は象が長い≡∀x∃y{(鼻xy&象y→長x)&(~象y&長x→~鼻xy)}
に於ける、「主語(MAIN WORD)」は、
③ 鼻≡∀x
である。といふ、ことになる。
然るに、
(17)
2 Show the validity of following arguments:
2 つぎの論証の妥当性を示せ。
(d)Some girls like William; all boys like any girl; William is a boy; therefore there is someone who likes William and is liked by William.
(〃)幾人かの少女はウィリアムが好きである。すべての少年はいかなる少女も好きである。ウィリアムは少年である。故にある人はウィリアムが好きであって、ウィリアムもその人を好きである。
(私による)解答:
(d)
1 (1)∃x(少女x&愛xw) A
2 (2)∀y{少年y→∀x(少女x→愛yx)} A
3 (3) 少年w A
2 (4) 少年w→∀x(少女x→愛wx) 2UE
23 (5) ∀x(少女x→愛wx) 23MPP
23 (6) 少女a→愛wa 5UE
7(7) 少女a&愛aw A
7(8) 少女a 7&E
237(9) 愛wa 68MPP
7(ア) 愛aw 7&E
237(イ) 愛aw&愛wa 9ア&I
237(ウ) ∃x(愛xw&愛wx) イEI
123 (エ) ∃x(愛xw&愛wx) 17ウEE
従って、
(08)(17)により、
(18)
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
といふ「定義」により、
① ∃x(少女x&愛xw) ≡Some girls like William≡幾人かの少女はウィリアムが好きである。
② ∀y{少年y→∀x(少女x→愛yx)}≡all boys like any girl ≡すべての少年はいかなる少女も好きである。
に於ける、「主語(MAIN WORDS)」は、
① ∃x≡少女≡Some girls≡幾人かの少女
② ∀y≡少年≡all boys ≡すべての少年
である。といふ、ことになる。
(19)
③ 少年w=William is a boy=ウィリアムは少年である。
の場合は、「素文(atomic sentence)」といって、「述語論理式(完全な文)」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
(ⅲ)ただし、「少年w」のやうな「素文」の場合は、「w」を、「主語(MAIN WORD)」とする。
とするならば、
① ∃x(少女x&愛xw) ≡Some girls like William≡幾人かの少女はウィリアムが好きである。
② ∀y{少年y→∀x(少女x→愛yx)}≡all boys like any girl ≡すべての少年はいかなる少女も好きである。
③ 少年w ≡William is a boy ≡ウィリアムは少年である。
に於ける、「主語(MAIN WORDS)」は、
① ∃x≡少女≡Some girls≡幾人かの少女
② ∀y≡少年≡all boys ≡すべての少年
③ w≡William ≡ウィリアム
である。といふ、ことになる。
然るに、
(21)
④ ∃x(愛xw&愛wx)=there is someone who likes William and is liked by William=ある人はウィリアムが好きであって、ウィリアムもその人を好きである。
に関しては、
④ ∃x≡someone≡ある人
が、「主語(MAIN WORD)」であるため、
① ∃x≡少女≡Some girls≡幾人かの少女
② ∀y≡少年≡all boys ≡すべての少年
③ w≡William ≡ウィリアム
といふ「主語(MAIN WORDS)」とは、「様子が、違ふ」ことになる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
(ⅲ)ただし、「少年w」のやうな「素文」の場合は、「w」を、「主語(MAIN WORD)」とする。
(ⅳ)ただし、「there is(are)・・・・.」のやうな「英文」には、「注意」すること。
といふ風に、「主語(MAIN WORD)」を、「定義」出来る。
然るに、
(23)
「MAIN WORD」と訳される「主語」は、無い。
然るに、
(24)
実際、文法学者が「主語」という「語」を使わなければならないことは、不幸なことだ。この語は、普通のことばでは、とりわけ「話題」(主題)という意味でも使われているからである。
(イェスペルセン著、安藤貞雄 訳、文法の原理(中)、2006年、45頁)
(25)
三、主語から主題へ 「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。
(三上章、日本語の論理、1963年、148頁)
(26)
① 吾輩は猫である。名前は無い≡∃x{吾輩x&猫x&~∃y(名前yx)}
② 象は鼻が長い≡∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
③ 鼻は象が長い≡∀x∃y{(鼻xy&象y→長x)&(~象y&長x→~鼻xy)}
に於ける、「主語」は、
① 吾輩≡∃x
② 象≡∀x
③ 鼻≡∀x
である。としても、「少なくとも、私は困らない」し、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
② 象は鼻が長い。
③ 鼻は象が長い。
に於ける「主語」は、
① 吾輩 であって、
② 象 であって、
③ 鼻 である。
とするのは、明らかに、「多数派」である。
然るに、
(27)
かりに既成専門語をご破算にして、文法(英文法、日本文法)と論理学とが今後新たにそれぞれの専門語をきめるものと仮定しよう。問題は Subject という俗語を採用すべきか否かである。
(三上章、日本語の論理、1963年、62頁)
従って、
(22)(26)(27)により、
(28)
「主語(Subject)」に換へて、
(ⅰ)「主語(MAIN WORD)」とは、「述語論理式(完全な文)の文頭」にあって、
(ⅱ)「文末」にまで、「その意味」が及んでゐる所の「語」をいふ。
(ⅲ)ただし、「少年w」のやうな「素文」の場合は、「w」を、「主語(MAIN WORD)」とする。
といふ「新たな定義」を、行ったとしても、
① 吾輩
② 象
③ 鼻
こそが、
① 吾輩は猫である。名前は無い。
② 象は鼻が長い。
③ 鼻は象が長い。
といふ「日本語」に於ける「主語」である。
といふ「常識」は、「これまで」と、「変り」が無い。