日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(16)「(少なくとも)AはBである。」の「は」について。

2018-03-25 09:51:24 | 「は」と「が」
(01)
A:それでは誰行くのか。
B:私行きます。
であるならば、
①(少なくとも)B行く。
ことになる。
(02)
A:それでは誰が行くのか。
B:私は行きます。
C:私行きます。
であるならば、
②(少なくとも)BとCは行く。
ことになる。
然るに。
(03)
「(15)番目の記事」でも「確認」した通り、
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)により、
(04)
A:それでは誰行くのか。
B:私行きます。
であるならば、
③ Bは行くが(B以外は行かない)。
ことになる。
従って、
(01)(02)(04)により、
(05)
① 私行きます=(少なくとも)私は行く。
② 私も行きます=私は行く(が、私以外も行く)。
③ 私が行きます=私は行く(が、私以外は行かない)。
従って、
(05)により、
(06)
① ABである=(少なくとも)AはBである。
② AもBである=AはBであって(A以外もBである)。
③ AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
従って、
(06)により、
(07)
① ABである=(少なくとも)AはBである。
に於ける、
① 「は」を、殊更に、「強調(大きな声で発音)」するならば、
①        「少なくとも」の「意味」が「強調」されるに、違ひない。
然るに、
(08)
A:それでは誰が行くのか。
B:私行きます。
に於いて、
B:私は の、
B:「」を、「強調(大きな声で発音)」するならば、確かに、尚のこと、
B:(少なくとも)私は
に於ける、
B:「少なくとも」
の意味を、「強める」ことになる。
然るに、
(09)
例へば、
① 三上章は日本人である。
の場合は、ただ単に、
① 三上章日本人である。
といふ「意味」であって、
①(少なくとも)三上章は日本人である。
といふ「ニュアンス」はない
従って、
(06)~(09)により、
(10)
① 私行きます。
① 三上章日本人である。
に於いて、
① AはBである=(少なくとも)AはBである。
① AはBである=       AはBである。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
① AはBである=(少なくとも)AはBである。
であるならば、その場合は、
①「A以外の、主語の候補」を、「前提」とする。
従って、
(11)により、
(12)
① ABだ=(少なくとも)AはBである。
であるならば、その場合は、
①「A以外の、主語の候補」を、「積極的に暗示」する。
然るに、
(13)
「ABだ」:主語候補を複数感じさせ、積極的に暗示する
「ABだ」:主語候補を積極的に暗示しない
(淺山友貴、現代日本語における「は」と「が」の意味と機能、2004年、173頁)
従って、
(10)(13)により、
(14)
① 三上章日本人である。
であれば、
「AはBだ」:主語候補を積極的に暗示しない
といふことは、「本当」であって、
① 私行きます。
であれば、
「AはBだ」:主語候補を積極的に暗示しない
といふことは、「本当」ではない

(15)あらためて、「は」と「が」について。

2018-03-24 18:47:59 | 「は」と「が」
ブログを始めた理由:「教えて!goo」に、初めて行なった「質問(https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10343276.html)」に対して、「文字数オーバー(400字)」を気にせず、「思ふ存分、補足」したいと、考へたからです。
(01)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
① 「は」は「清音」であって、
③ 「」は「音」である。
然るに、
(02)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(03)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
①「私は」の「音量」よりも、
③「私」の「音量」の方が、「大きい」。
然るに、
(05)
(1)私は、それをします。
(2)それは、私します。
(1)では「私は」が題で、残りが解説です。(2)では、「それは」が題で、残りが解説になる。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 三上文法入門、2003年、18頁)
(06)
なお、先ほどの例文、(1)と(2)に違いは、英語ではストレスによって表されます。
(1)I will do it.
(2) will do it.
(1)のように、ストレスのない「I」は、topic(題)になれますが、(2)にように、ストレスがある「」は、topicになれません。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 三上文法入門、2003年、21頁)
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
③ の方は、
(2) will do it.
に、「相当」する。
然るに、
(08)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
   b.Tom SENT Mary flowers.
   c.Tom sent MARY flowers.
   d.Tom sent Mary FLOWERS.
"Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、
「トム」という人間が他の人間と対比されているということです(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)。
(08)により、
(09)
③ I will do it.
に於いて、
③「」が「強調」されるならば、
③ Nobody but me will do it.
といふ、「意味」になる。
然るに、
(10)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
① 私します。
であれば、
①(少なくとも)私はします。
といふ、「意味」である。
(11)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
③ 私します。
であれば、
③ 私する(ので、私以外はしなくともよい)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(12)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition(merriam-webster).
従って、
(09)(11)(12)により、
(13)
will do it(Nobody but me will do it).
③ 私するので(、私以外はしなくともよい)。
といふ「日・英語」は、
③ 排他的命題(Exclusive proposition)である。
従って、
(04)(09)(11)(13)により、
(14)
① 私はします。
③ 私します。
に於いて、
①「私は」に対する、
③「私」は、「強調形」であって、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(14)により、
(15)
① AはBである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(16)
(a)
1  (1)A以外はBでない。   仮定
1  (2)AでないはBでない。  仮定
 3 (3)Bである。       仮定
  4(4)Aでない。       仮定
1 4(5)Bでない。       24前件肯定
134(6)BであってBでない。  35&導入
13 (7)Aでない、でない。   465背理法
13 (8)Aである。       7二重否定
1  (9)はAである。     38条件法
(b)
1  (1)はAである。     仮定
 2 (2)  Aでない。     仮定
  3(3)Bである        仮定
1 3(4)  Aである。     13前件肯定
123(5)AであってAでない。  42&導入
12 (6)Bでない。       35背理法
1  (7)Aでないは、Bでない。 26条件法
1  (8)A以外はBでない。   26条件法
従って、
(16)により、
(17)
対偶(Contraposition)」は「等しい」。が故に、
はAである。
④ A以外はBでない
に於いて、
②=④ である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
① AはBである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(19)
」には、
(1)真でないときと、
(2)真であるときがあります。
そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
(20)
① AはBである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
従って、
(20)により、
(21)
③ 私理事長です。
と言ふのであれば、
④ 私以外は理事長ではない
といふことになって、
④ 私以外は理事長ではない
と言ふのであれば、
理事長は私です。
といふことになる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ず
②=③=④ である。が故に、
③ 私理事長です。
と言ひ得るのであれば、そのときに限って
理事長は私です。
といふことになる。
然るに、
(23)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。
(三上章、日本語の論理、1963年、40頁)
従って、
(22)(23)により、
(24)
はAである。
③ ABである。
に於いて、
②=③ である。
といふことは、「昔から、よく知られてゐて、三上章先生も、そのことを、知ってゐた」。
然るに、
(25)
(a)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 27条件法
(b)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
であることを、知ってゐれば
(a)
1  (1)A以外はBでない。   仮定
1  (2)AでないはBでない   仮定
 3 (3)Bである。       仮定
  4(4)Aでない。       仮定
1 4(5)Bでない。       24前件肯定
134(6)BであってBでない。  35&導入
13 (7)Aでない、でない。   46背理法
13 (8)Aである。       7二重否定
1  (9)はAである。     38条件法
(b)
1  (1)はAである。     仮定
 2 (2)  Aでない。     仮定
  3(3)Bである        仮定
1 3(4)  Aである。     13前件肯定
123(5)AであってAでない。  42&導入
12 (6)Bでない。       35背理法
1  (7)Aでないは、Bでない。 26条件法
1  (8)A以外はBでない。   26条件法
であることに、気が付かない方が、ヲカシイ
従って、
(24)(25)により、
(26)
はAである。
③ ABである。
に於ける、
②=③ に加へて、
対偶(Contraposition)」は「等しい」。が故に、
はAである。
④ A以外はBでない
に於いて、
②=④ である。
といふことに、気付くことが、出来れば、そのまま、直ぐに、
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ず、
②=③=④ である。
といふこと、すなはち、
理事長は私です。
③ 私理事長である。
④ 私以外は理事長ではない
②=③=④ である。
といふことに、「気付く」ことになる。
然るに、
(27)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念館は、私理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(26)(27)により、
(28)
対偶(Contraposition)」は「等しい」。が故に、
理事長は私です。
④ 私以外は理事長ではない
に於いて、
②=④ である。
といふことに、三上章先生が、気付いてゐた。
といふ「形跡」はない。
(29)
対偶(Contraposition)」は「等しい」。が故に、
理事長は私です。
④ 私以外理事長ではない。
に於いて、
②=④ である。
といふことを指摘してゐる「研究書(論文)」を、少なくとも、私知らない。

(14)「明日は物忌みなるを(蜻蛉日記)」の「は」について。

2018-03-23 10:39:32 | 「は」と「が」
(01)
[訳]明日は物忌みなるを、門強く鎖せよ。
[訳]明日は物忌みなので、門をしっかり閉めなさい。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、170・171頁)
従って、
(01)により、
(02)
① 明日物忌みなるを(平時代)、 
② 明日物忌みなので(平時代)、
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
A=明日は物忌みである。
B=門をしっかり閉める。
であるとする。
従って、
(03)により、
(04)
①   A& B =明日物忌みなので、門をしっかり閉める。
② ~(A→~B)=明日物忌みならば、門をしっかり閉めない。といふことはない。
である。
然るに、
(05)
(a)
1   (1)   A& B          仮定
 2  (2)  ~A∨~B          仮定
  3 (3)  ~A             仮定
1   (4)   A             1&除去
1 3 (5)  ~A& A          34&導入
  3 (6) ~(A& B)         15背理法
   7(7)     ~B          仮定
1   (8)      B          1&除去
1  7(9)  ~B& B          78&導入
   7(ア) ~(A& B)         19背理法
 2  (イ) ~(A& B)         2367ア∨除去
12  (ウ)  (A& B)&~(A& B) 1イ&導入
1   (エ)~(~A∨~B)         2ウ背理法
(b)
 1  (1)~(~A∨~B)         仮定
  2 (2)  ~A             仮定
  2 (3)  ~A∨~B          2∨導入
 12 (4)~(~A∨~B)&(~A∨~B) 13&導入
 1  (5) ~~A             24背理法
 1  (6)   A             5二重否定
   7(7)     ~B          仮定
   7(8)  ~A∨~B          7∨導入
 1 7(9)~(~A∨~B)&(~A∨~B) 18&導入
 1  (ア)    ~~B          79背理法
 1  (イ)      B          ア二重否定
 1  (ウ)   A& B          6イ&導入
従って、
(05)により、
(06)
①    A& B =Aであって、Bである。
② ~(~A∨~B)=Aでないか、Bでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
cf.
ド・モルガンの法則
(07)
(a)
1     (1) ~A∨~B       仮定
 2    (2)  A& B       仮定
 2    (3)  A          2&除去
 2    (4)     B       2&除去
  3   (5) ~A          仮定
 23   (6)  A&~A       25&導入
  3   (7)~(A& B)      26背理法
   8  (8)    ~B       仮定
 2 8  (9)  B&~B       48&導入
   8  (ア)~(A& B)      29背理法
1     (イ)~(A& B)      1578ア∨除去
    ウ (ウ)  A          仮定
     エ(エ)     B       仮定
    ウエ(オ)  A& B       ウエ&導入
1   ウエ(カ)~(A&B)&(A&B) イオ&導入
1   ウ (キ)    ~B       エカ背理法
1     (ク)  A→~B       ウキCA
(b)
    1 (1)  A→~B       仮定
     2(2)  A& B       仮定
     2(3)  A          2&除去
     2(4)     B       2&除去
    12(5)    ~B       13前件肯定
    12(6)  B&~B       45&I
    1 (7)    ~B       46背理法
    1 (8) ~A∨~B       7∨導入
cf.
含意の定義
従って、
(07)により、
(08)
③ ~A∨~B=Aでないか、Bでない。
④  A→~B=Aならば、 Bでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(06)(08)により、
(09)
①    A& B =Aであって、Bである。
② ~(~A∨~B)=Aでないか、Bでない。といふことはない。
③   ~A∨~B =Aでないか、Bでない。
④    A→~B =Aならば、 Bでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
①   A& B =Aであって、Bである。
② ~(A→~B)=Aならば、 Bでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(11)
(a)
 1 (1)  A→~B       仮定
  2(2)  A& B       仮定
  2(3)  A          2
 12(4)    ~B       13前件肯定
 12(5)     B       2&除去
 12(6) ~B& B       45&導入
 1 (7)~(A& B)      16背理法
(b)
1  (1)~(A& B)      仮定
 2 (2)  A          仮定
  3(3)     B       仮定
 23(4)  A&B        23&導入
123(5)~(A&B)&(A&B) 12&導入
12 (6)    ~B       35背理法
1  (8)  A→~B       27条件法
従って、
(11)により、
(12)
③   A→~B =Aならば  Bでない。
④ ~(A& B)=Aであって、Bである。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(10)(12)により、
(13)
①   A& B =Aであって、Bである。
② ~(A→~B)=Aならば、 Bでない。といふことはない。
に於いて、
①=② であって、
③   A→~B =Aならば  Bでない。
④ ~(A& B)=Aであって、Bである。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(13)により、
(14)
①     A& B  =Aであって、Bである。
②   ~(A→~B) =Aならば、 Bでない。といふことはない。
③ ~(~(A& B))=Aであって、Bである。といふことはない。といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(15)
「二重否定」により、
③ ~(~(A& B))=Aであって、Bである。といふことはない。といふことはない。
④     A& B  =Aであって、Bである。
従って、
(14)(15)により、
(16)
①     A& B  =Aであって、Bである。
②   ~(A→~B) =Aならば、 Bでない。といふことはない。
③ ~(~(A& B))=Aであって、Bである。といふことはない。といふことはない。
④     A& B  =Aであって、Bである。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(16)により、
(17)
「確かに」、
①     A& B  =Aであって、Bである。
②   ~(A→~B) =Aならば、 Bでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(18)
(a)
1  (1) A→~B 仮定
 2 (2) B    仮定
  3(3) A    仮定
1 3(4)   ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6)~A    35背理法
1  (7) B→~A 26条件法
(b)
1  (1) B→~A 仮定
 2 (2) A    仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)   ~A 13前件肯定
123(5) A&~A 24&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7) A→~B 26条件法
cf.
対偶(Contraposition)
従って、
(18)により、
(19)
③ A→~B
④ B→~A
に於いて、
③=④ である。
従って、
(17)(19)により、
(20)
①   A& B  =Aであって、Bである。
② ~(A→~B) =Aならば、 Bでない。といふことはない。
に於いて、
①=② であって、
③   A→~B
④   B→~A
に於いて、
③=④ である。
従って、
(20)により、
(21)
①   A& B =Aであって、Bである。
② ~(A→~B)=Aならば、 Bでない。といふことはない。
③ ~(B→~A)=Bならば、 Aでない。といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(22)
(a)
1(1) A&B 仮定
1(2) A   1&除去
1(3) B   1&除去
1(4) B&A 23&導入
(b)
1(1) B&A 仮定
1(2) B   1&除去
1(3) A   1&除去
1(4) A&B 23&導入
従って、
(22)により、
(23)
① A&B=Aであって、Bである。
④ B&A=Bであって、Aである。
に於いて、
①=② である。
従って、
(21)(23)により、
(24)
①   A& B =Aであって、Bである。
② ~(A→~B)=Aならば、 Bでない。といふことはない。
③ ~(B→~A)=Bならば、 Aでない。といふことはない。
④   B& A =Bであって、Aである。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(04)(24)により、
(25)
①   A& B =明日は物忌みなので、門をしっかり閉める。
② ~(A→~B)=明日が物忌みならば、門をしっかり閉めない。  といふことはない。
③ ~(B→~A)=門をしっかり閉めるならば、明日が物忌みでない。といふことはない。
④   B& A =門をしっかり閉めるので、 明日は物忌みである。
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(26)
③ 明日物忌みでない。といふことはない。
といふ「それ」を、
④ 明日( )物忌みでないこと。
といふ風に、「書き換へ」ることとする。
然るに、
(27)
【1】[が][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝がさりし日。   
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの(が)夢のあと。(芭蕉)
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
然るに、
(28)
④ こと【事】は、「名詞(体言)」である。
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
(2) 連体修飾語を作る。
といふ、「古文の文法」が、「現代文の文法」でもあるならば、
⑤ 明日( )物忌みでないこと。
に於ける、
⑤   ( )の中には、
⑤   「」が入り、
⑤   「は」は入らない。
然るに、
(30)
実際に、
⑤ 明日(は)物忌みでないこと。
とは言はずに、
⑤ 明日()物忌みでないこと。
と言ふ方が、「普通」である。
然るに、
(31)
② 汝(が)さりし日
に於ける、
②「を」がそうであるやうに、
① 明日( )物忌みなる
に於いて、
①「を」が、「助詞」であるならば、
① 明日()物忌みなるを、
でなければ、ならない。
然るに、
(32)
① 明日( )物忌みなる
に於いて、
①「を」が、「接続助詞」であるならば、
① 明日()物忌みなるを、
であっても、よいことになる。
従って、
(32)により、
(33)
① 明日物忌みなるを、
といふ「古文」は、
① 明日(体言)は(助詞)物忌み(体言)なる(連体形)を(接続助詞)、
であって、
① 明日(体言)は(格助詞)物忌み(体言)なる(連体形)を(格助詞)、
ではない。

(13)「象は鼻に長い。」といふ「例文」に対する「論理学」の「まとめ」なので、「長文」です。

2018-03-20 19:37:08 | 「は」と「が」

(001)
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「強く発音」すると、
④ A以外はBでない
といふ「意味」になる。
従って、
(002)
「逆」に言ふと、
④ A以外はBでない。
といふことを、「主張」したい場合は、
③ A is B.
に於いて、
③ A を、「大きな声で、発音」する。
従って、
(003)
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ A音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」のであれば、
その場合は、
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ でなければ、ならない。
然るに、
(004)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(005)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(004)(005)により、
(006)
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
③ Aが〔濁音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
従って、
(003)(006)により、
(007)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(008)
② BはAである。
④ A以外はBでない。
といふことは、
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(009)
③ BならばAである。
④ AでないならばBでない。
を、「記号」で書くと、
③  B→ A
④ ~A→~B
である。
然るに、
(010)
(a)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(b)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 27条件法
従って、
(008)(009)(010)により、
(011)
② BはAである。
④ A以外はBでない。
の場合は、「対偶(Contraposition)」であって、それ故に、
②=④ である。
従って、
(007)(011)により、
(012)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ であって、
② BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=④ である。
従って、
(012)により、
(013)
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(014)
逆には、(1)真でないときと、(2)真であるときがあります。そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(013)(014)により、
(015)
① AはBである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ずしも
①=② ではないが、必ず
②=③=④ である。
(証明終了)
然るに、
(016)
① 中野区は東京都である。
② 東京都は中野区である。
③ 中野区東京都である。
④ 中野区以外は東京都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
(017)
① 東京都は日本の首都である。
② 日本の首都は東京都である。
③ 東京都日本の首都である。
④ 東京都以外は日本の首都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(015)(016)(017)により、
(018)
① AはBである。
② BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふことは、実際に、さうである。
然るに、
(019)
③ 東京都が日本の首都である。
ならば、言ふまでもなく、
① 東京都は日本の首都である。
従って、
(020)
③ AがBである。
ならば、言ふまでもなく、
① ABである。
従って、
(020)により、
(021)
③ AがBである=
③ AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(022)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition(merriam-webster).
従って、
(021)(022)により、
(023)
③ AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「それ」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と呼ぶことにする。
然るに、
(024)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
であって、
② 藤井総太(は)指原莉乃と婚約!
ではあり得ない。
然るに、
(025)
マリリンモンローがディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
あのチャップリンが大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
然るに、
(26)
「未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
従って、
(025)(026)により、
(027)
② 藤井総太(が)指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
②(誰でも知ってゐる、なら、あの)藤井総太()指原莉乃と婚約!
といふ「意味」になる。
然るに、
(028)
②(なら)Aが
といふことは、
②(A以外ではない所の)Aが
といふ、ことである。
従って、
(028)により、
(029)
② AがBである=
②(他ならぬ)AがBである=
②(A以外ではない所の)AがBである。
といふ、ことになる。
従って、
(023)(029)により、
(030)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
といふ「二通り」が、成立する。
然るに、
(031)
①(A以外はBでない)。は、「終止形」であって、
②(A以外ではない所の)は、「連体修飾語」である。
従って、
(030)(031)により、
(032)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
然るに、
(033)
37講 格助詞「が・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに格助詞「が・の」です。両者は非常によく似ています。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(034)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
① 君が世、我が国、君が行く道、博士が愛した数式。
であるため、「が」と「の」は、非常によく似てゐる。
然るに、
(035)
① AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
② AがBである=(A以外ではない所の)AがBである。
③ AがBする(連体形)C(体言)。
に於いて、
① Aが(係助詞)
② Aが(係助詞)
③ Aが(助詞)
であるため、
③ Aが(格助詞)Bする(連体形)C(体言)。
の場合は、ここでは、取りあげない。
然るに、
(036)
③ AならばBである(A→B)。
といふ「命題」を、「仮言命題」といふ。
然るに、
(037)
(a)
 1 (1)  A→ B        仮定
  2(2)  A&~B        仮定
  2(3)  A           2
 12(4)     B        13前件肯定
 12(5)    ~B        2&除去
 12(6)  B&~B        45&導入
 1 (7)~(A&~B)       16背理法
(b)
1  (1)~(A&~B)       仮定
 2 (2)  A           仮定
  3(3)    ~B        仮定
 23(4)  A&~B        23&導入
123(5)~(A&~B)&(A&~B)12&導入
12 (6)   ~~B        35背理法
12 (7)     B        6二重否定
1  (8)  A→ B        27条件法
従って、
(036)(037)により、
(038)
③   A→ B =AならばBである。
④ ~(A&~B)=AであってBでない、といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(039)
④ AであってBでない、といふことはない。
といふのであれば、
④ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
従って、
(038)(039)により、
(040)
③ Aならば、Bである=
④ AであってBでない、といふことはない。
といふ「仮言命題」は、
③ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
然るに、
(041)
③ AならばBである=
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
であるとする。
然るに、
(040)(041)により、
(042)
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
といふのであれば、
⑤ 月曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 火曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 水曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 木曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 金曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
⑤ 土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
としても、
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」にはならず、
⑤ 日曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない。
のであれば、
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」になる。
従って、
(042)により、
(043)
⑤(日曜日以外でない所の)土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(としてもウソではない)。
④(日曜日以外でない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(としたらウソである)。
然るに、
(044)
④ 私はウソを言はない
従って、
(043)(044)により、
(045)
⑤(日曜日以外でない所の)土曜日が晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはアル)。
④(日曜日以外でない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
然るに、
(045)により、
(046)
④ AであってBでない、といふことはない。
③ AならばBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(045)(046)により、
(047)
③(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
④(日曜日以外でない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(048)
③(日曜日以外でない所の)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
といふことは、
③(なら)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(036)~(048)により、
(049)
③ 日曜日が晴れならば、私は釣りに行く=(他ならぬ)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
でなければ、ならない。
従って、
(027)(032)(049)により、
(050)
② 藤井総太が婚約           =(なら)藤井総太が婚約。
③  日曜日が晴れならば、私は釣りに行く=(なら) 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、
② は、「連体形としての排他的命題」であって、
③ も、「連体形としての排他的命題」である。
従って、
(050)により、
(051)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約! 
③  日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
②     ( )には、「が」が入り、
③     ( )にも、「が」が入る「理由」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約! 
③  日曜日()晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であって、
③「連体形としての排他的命題」であるからである。
(証明終了)
従って、
(051)により、
(052)
②   x( )象ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於ける、
②    ( )には、「」が入り、
③    ( )にも、「」が入る「理由」は、
②   x( )ならば、yはxの鼻である。
③ 日曜日( )晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であるからである。
従って、
(036)(052)により、
(053)
② x象ならば、
のやうな、「仮言命題の前件」としての、
②  が は、
②「連体形としての排他的命題」に於ける「が」である。
然るに、
(054)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
然るに、
(055)
しょゆうかく-いう-[2]【所有格】〔possessive case〕
英文法などで,主格・目的格と並ぶ格の一つ。所有・所属の関係を表すもの。my, your, its などの類(Weblio辞書)。
従って、
(055)により、
(056)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、xの鼻である。
といふ「意味」である。
従って、
(055)(056)により、
(057)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(029)(032)により、
(058)
① 鼻が長い=鼻は長く(鼻以外は長くない)。
② 鼻が長い=(他ならぬ)鼻が長い。
といふ「二通り」が有る。
(059)
② 鼻が長い=(他ならぬ)鼻が長い。
といふのであれば、
② 鼻が長い。
といふ「それ」であっても、
② 藤井総太が婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな「意味合ひ」が、「いくらか」は、無ければならない。
然るに、
(060)
三上章先生がいふ所の、
① 象は鼻が長い。
に於いて、
① 鼻が長い。
といふことに、
② 藤井総太が婚約!⇒ビックリした。大変だ。
といふやうな、『特別な意味』が有るとは、思へない。
従って、
(057)(060)により、
(061)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(062)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
と言ふのであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、
(063)
1    (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1    (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3   (3)∃x(象x)                         A
  4  (4)   象a                          A
1 4  (5)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  24MPP   
1 4  (6)      ∃y(鼻yx&長y)               5&E
13   (7)      ∃y(鼻yx&長y)               346EE
1 4  (8)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  5&E 
13   (9)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  348EE
13   (ア)                    ~鼻bx→~長b   9UE
   イ (イ)                          長b   A
    ウ(ウ)                    ~鼻bx       A
13  ウ(エ)                         ~長b   アウMPP
13 イウ(オ)                    ~長b&長b     イエ&I
13 イ (カ)                   ~~鼻bx       ウオRAA
13 イ (キ)                     鼻bx       カDN
13   (ク)                     長b→鼻bx    イキCP
13   (ケ)                  ∃z(長z→鼻zx)   クEI
13   (コ)      ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   3コ&I
1    (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1    (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(064)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
① 全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(065)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3(3)   象a                          A
13(4)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  23MPP
13(5)      ∃y(鼻yx&長y)               4&E
1 (6)   象a→∃y(鼻yx&長y)               35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              6UI
13(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             4&E
1 (9)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              1&E
1 (3)   象a→∃y(鼻yx&長y)               2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            1&E
1 (5)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             4UE
 6(6)   象a                          A
16(7)      ∃y(鼻yx&長y)               63CP
16(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             65CP
16(9)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  78&I
1 (ア)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(065)により、
(066)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(054)~(066)により、
(067)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(068)
② ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」は、
② ソクラテスといふ人間がゐる=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(069)
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、119頁)
従って、
(068)(069)により、
(070)
② ソクラテスは人間である=
② ∃x(ソクラテスx&人間x)=
② あるxはソクラテスであって、そのxは人間である。
といふ「述語論理」には、
② ソクラテスx=ソクラテスといふ
② 人間x=人間である
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
然るに、
(071)
⑦ すべての哲学者は独身である。
といふ「日本語」は、
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論」に、「翻訳」される。
然るに、
(072)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(071)(072)により、
(073)
⑦ すべての哲学者は独身である=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x) =
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
といふ「述語論理」には、
⑦ 哲学者x=哲学者である
⑦  独身x=独身である
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
従って、
(067)(070)(073)により、
(074)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、少なくとも。
① 象x =象である
① 鼻yx=象であるxの鼻である
といふ、「二つの主語」が、有ることになる。
然るに、
(075)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(074)(075)により、
(076)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
①   {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
①       ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
①       ∃x といふ「演算子の働き」は、
①         (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
従って、
(074)(075)(076)により、
(077)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」には、
① 象x=象であるx
といふ「主語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「全体」に対する「主語」であって、
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「主語」は、
①       ∃y(鼻yx&長y)
といふ「部分」に対する「主語」である。
然るに、
(078)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重の主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(077)(078)により、
(079)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「論理構造」が有る。
といふことを、認めるならば、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、
① 象
① 鼻
といふ「二つの主語」が有って、尚且つ、
① 象x
は「総主」である。
然るに、
(080)
① An elephant has a long nose and no other part of it is not long.
といふ「英語」は、
① 象=Elephant
① 鼻=Nose
① 長=long
であるとして、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① As for all x, if x is an elephant then there is y such that y is a nose of x, and y is long. and as for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(081)
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」だけを見て、
nose
が「主語」であると、思ふ人は、一人もゐないはずである。
従って、
(082)
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻が長い。
といふ「國語」に特有なのであって、
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① An elephant has a long nose and any other part of it is not long.
といふ「英語」には、有り得ない。
然るに、
(083)
然ルニ國語ノ法則トシテ日本ノ文法ニ之ヲ編入スル者ナキハ何故ゾ。西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナキガ故ニ非ザルカ(草野清淸、國語ノ特有セル語法―總主、明治三十二年)。
従って、
(082)(083)により、
(084)
「総主(二重主語)」といふ「発想」は、
① 象は鼻が長い。
といふ「國語」に「特有セル語法」なのであって、「西洋ノ言語ニ類似ノ語法ナク、西洋ノ文典ニ類似ノ記載ナシ」である。
然るに、
(085)
大辞林 第三版の解説
しゅじ【主辞】
「主語」に同じ。[形式論理学と文法]
そもそも主語・述語とは,形式論理学における命題〈AはBである〉のA(それについて語るところのもの)およびB(Aについて語る事がら)に当たるものを,アリストテレスがそれぞれギリシア語でhypokeimenon,katēgoroumenonと表現したことにさかのぼるという。これが,その後ラテン語でそれぞれsubjectum,praedictumと表現され,論理学および文法の用語としてしだいに定着,今日のヨーロッパ諸言語でも継承され(たとえば英語subject,predicate),また他の言語でも用いられるようになり,日本でも主語・述語と訳してきたものである(形式論理学では主辞・賓辞とも,文法では主部・述部とも訳す)。当初のヨーロッパでは論理学と文法は密接な(元来は未分化ともいえる)関係にあり,共通の用語となったのだが,しかし,両者は目標も対象も異なる学問である(文法は今日では言語学の一部として位置づけられている)。
従って、
(084)(085)により、
(086)
ある人が、
① 象は鼻が長い。
と言ふ「日本語」は、
① 象は
だけが「主語(主辞)」であって、
①   鼻が
は「主語(主辞)」でない。
とするならば、その人こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
然るに、
(087)
「象は鼻が長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
象は 鼻が長い。 
主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。これに文句をつけたり、それを取り次いだりするのは、人々が西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない。このまま定理扱いしてもよろしい。そしてこの定理の逆は真でないとして、鼻の長いもの例に、鞍馬山の天狗だの、池の尾の禅珍内供だのを上げるのも一興だろう。それでおしまいである。
(三上章、日本語の論理、1963年、13・14頁)。
従って、
(086)(087)により、
(088)
草野清淸先生は、沢田充茂先生ではなく、三上章先生の方こそが、「西洋文法に巻かれていることを語る以外の何物でもない」。
加へて、
(089)
① 象ならば鼻が長い(順)。
② 鼻が長いならば象である(逆)。
③ 天狗は鼻が長いが象ではない(反例)。
といふことと、
象は 鼻が長い
主辞 賓辞
とはっきりしている。速水式に簡単明リョウである。意味も、主辞賓辞の関係も小学生にもわかるはずの文である。
といふことが、「どうして結びつくのか」が「不明」である。
(090)
伝統論理学を速水滉『論理学』(016)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(062)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
然るに、
(091)
The best to way to find out what logic is to do some(E.J.Lemmon,Beginning Logic).
論理学とは何であるかを知る最善の方法は、実際に幾らかやってみることである(E.J.レモン、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、3頁)。
然るに、
(092)
沢田充茂『現代論理学入門』は、「解説書(岩波新書)」なので、「沢田充茂、現代論理学入門、1962年」を読んだだけでは、「論理学を、実際に幾らかやってみた」ことには、ならない。
然るに、
(093)
捨てる神があれば、拾う神がある。
「xノ」消去もある。xは、しっぽをもつ任意の動物。
頭が西を向けば、尾が東を向く。
ただし、これは「雨の降る日は、天気が悪い」に似て笑いを誘うためだから、その効果のために犬を代入して、
犬が西向きゃ、尾が東向く。
「何々の」というものを重視したいものである。
すべての馬が動物であれば、馬の頭はすべて動物の頭である。(ド・モルガンの例)
というようなものに備えて、「何々の」に対しても敏感であることが望ましい。以上のように、条件文で道理を表わすことわざで了解事項となるものは、ガノニヲの範囲である。
(三上章、日本語の論理、1963年、37・38頁)。
然るに、
(094)
「何々の」というものを重視したいものである。かどうかは、ともかく、
1  (1)   ∀x(馬x→動物x)                A
1  (2)      馬b→動物b                 1UE
 3 (3)   ∃y(馬y&頭ay)                A
  4(4)      馬b&頭ab                 A
  4(5)      馬b                     4&E
  4(6)      頭ab                    4&E
1 4(7)      動物b                    26MPP
1 4(8)      動物b&頭ab                56&I
1 4(9)   ∃y(動物y&頭ay)               8EI
13 (ア)   ∃y(動物y&頭ay)               349EE
1  (イ)   ∃y(馬y &頭ay)→∃y(動物y&頭ay)  3アCP
1  (ウ)∀x{∃y(馬y &頭xy)→∃y(動物y&頭xy)} イUI
   (エ)「全てのxについてxが馬ならば、xは動物である。」ならば「全てのxについて、或るyが馬であって、xがその馬yの頭であるならば、或るyは動物であって、xはその動物yの頭である。」
といふことであるならば、私にも、「理解」出来る。
然るに、
(095)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
私ハ 腹ガ  痛イ。 
主語 対象語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(032)により、
(096)
① 腹は痛い=腹は痛い。
② 腹が痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
従って、
(096)により、
(097)
② 腹が痛い=腹は痛く(腹以外は痛くない)。
と、言はずに、
① 腹は痛い=腹は痛い。
と、言ふのであれば、
① 腹以外(例へば、頭)も、痛いのか?
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(096)(097)により、
(098)
② あなたが好きです。
と、言はずに、
① あなたは好きです。
と、言ふのであれば、
① 他にも、好きな人がゐるのか。
といふ風に、「尋きたく」なる。
従って、
(097)(098)により、
(099)
② 腹以外は痛くない。
② あなた以外は好きではない。
と、言ひたいのであれば、
② 腹痛い。
② あなた好きです。
といふ風に、言ふべきである
然るに、
(100)
主語と述語
何がなんだ。
何がどんなだ。
何がどうした。
この「何が」にあたる所を主語といい、「なんだ」「どんなだ」「どうした」にあたる所を述語という。
これは私の記憶にまちがいがなければ、私が中学1年のときにならった国文法の第1課の最初に書いてあった文章です。
(竹内外史、集合とはなにか、2001年、13・14頁)
然るに、
(101)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
(102)
多くの印欧語において、主語は客観的に観察できる構文的概念である。以下に重要と思われるものを四つほど列挙しよう。マルチネにとっては(あ)が唯一の「主語の条件」であるが、特に英仏語の様子を勘案しながら、さらに3点を加えてみる。
(あ)基本文に不可欠な要素である。
(い)語順的にはほとんどの場合、文頭に現れる。
(う)動詞に人称変化(つまり)活用を起こさせる。
(え)一定の格(主格)を持って現れる。
ここで重要なのは、(い)から(え)までの3点を加えるのは(あ)の結論をさらに強めるためだという点である。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、62頁)
然るに、
(103)
2 主語を補うテクニック
古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。主語がわかれば文はずいぶんと読みやすくなります。
(荻野文子、古文マドンナ解法、1993年、11頁)
従って、
(102)(103)により、
(104)
(Ⅰ)「主語」は、基本文に不可欠な要素である。
(Ⅱ)古文が読みにくい原因の一つは、主体(主語)、客体(目的語・補語)が省略されている文が多いことです。
従って、
(104)により、
(105)
(Ⅰ)「主語」は、「省略できない」。
とするならば、それだけで、
(Ⅱ)「日本語」に「主語」はない。
(106)
主語や目的語や補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が、誰を、誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる。で皆さんは何でその主語になるのかよくわかんないまま、またノートに、訳のところに、一生懸命、書いて覚えて、テストを受けてる。さっきも言いました。自力です。自力で補足するんです。
(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)
従って、
(105)(106)により、
(107)
(Ⅰ)「主語」は、「省略できない」。
とするならば、 荻野文子先生の「教授法」は、成立しない。
(108)
「日本語」には、「英語」のやうな「主語」はない。といふのであれば、確かに、その通りである。
(109)
② こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)。
従って、
(109)により、
(110)
② こんにゃくは太らない。
といふのであれば、
② こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(111)
1  (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1  (2)   蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
 3 (3)∃x(蒟蒻x)                 A
  4(4)   蒟蒻a                  A
1 4(5)        ∃y(人y&食yx&~太y)  24MPP
13 (6)        ∃y(人y&食yx&~太y)  345EE
1  (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)  36CP
1  (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1  (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(110)(111)により、
(112)
② こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
② こんにゃくは太らない=
② ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(061)(112)により、
(113)
① 象鼻が長い。
② こんにゃく太らない。
といふ「日本語」は、
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(114)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、
といふことから、すれば、
① 象は鼻が長い。
② こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、「確実に」、
①「象」を「話題」にし、
②「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
従って、
(079)(114)により、
(115)
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「日本語・述語論理」に於いて、
①「象」=「∀x{象x→」
は「総主」であって、「話題」である。
平成30年03月21日、毛利太。


(12)「お爺さんが川へ洗濯に」の「が」について。

2018-03-18 14:40:36 | 「は」と「が」

(01)
「(4)番目の記事」で「説明」したやうに、
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)ABである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」である。
然るに、
(02)
①「地球上」には、「象だけ」でなく、「犬も、猫も、馬もゐる」。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 象ゐる=象はゐて(象以外はゐない)。
と、言ふのであれば、すなはち、
① 象ゐる=象はゐて(犬も、猫も、馬もゐない)。
と、言ふのであれば、
①(今、目の前に)象ゐる。
といふ、ことになる。
然るに、
(04)
はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)は、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で飼育されていたメスのアジアゾウである[1](ウィキペディア)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 象ゐる=
①(今、目の前に)象ゐる。
と言ふのであれば、その象は、例へば、
① はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)
である。
然るに、
(06)
①「はな子」は、{象}といふ{集合}の「要素」であって、それ故、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(02)~(06)により、
(07)
①(今、目の前に)象ゐる(現在形)。
だけでなく、
①(昔、動物園に)象ゐた(過去形)。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(07)により、
(08)
①(昔、動物園に)象ゐた。
だけでなく、
① 昔々、ある所に、象ゐました。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(08)により、
(09)
① 昔々、ある所に、象ゐました。
ではなく、
① 昔々、ある所に、象住んでゐました。
であっても、
①「はな子」は、「An elephant」である。
従って、
(09)により、
(10)
① 昔々、ある所に、象住んでゐました。
といふのであれば、
①「象」は、「An elephant」である。
然るに、
(11)
① 昔々、ある所に、象住んでゐました。
に於いて、
① 象=お爺さんとお婆さん
といふ「代入(Replacement)」を行ふと、
① 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さん住んでゐました。
といふ、「桃太郎の、冒頭」になる。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 昔々、ある所に、象住んでゐました。
に於いて、
①「象」は、「An elephant」であって、
① 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さん住んでゐました。
に於いて、
①「お爺さん」 と「お婆さん」は、それぞれ、
①「an old man」と「an old woman」である。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「公理(Axiom)」から、
① 昔々、ある所に、an お爺さんと an お婆さんは住んでゐました。
ではなく、
① 昔々、ある所に、an お爺さんと an お婆さん住んでゐました。
である。といふ「定理(Theorem)」が、「演繹」される。
然るに、
(14)
昔々、ある所に、お爺さんとお婆さん住んでいました。お爺さん山へ芝刈りに、お婆さん川へ洗濯に行きました。
Long,long ago there lived an old man and an old woman.The old man went to the mountain to gather wood, and the old woman went to the river to do the washing.
然るに、
(15)
supecialpapasuさん2011/6/2400:05:52
大野晋の助詞「」と「」の区別に疑問有り。乞御教示
大野晋氏は助詞の「が」と「は」を
既知の情報には「
未知の情報には「
という風に区別しましたが、これについて少し疑問があります。
上の「が」と「は」の区別の例としてよく「昔々あるところに・・・」という昔話の始まりの定番文句が出されますが、これについては納得します。「あるところにおじいさんとおばあさんが~」という時の「おじいさんとおばあさん」は物語の上で初登場なので未知の新情報「が」が用いられ、次の「おじいさんは山へ~」ではすでに「おじいさん」は物語に登場しているので既知の旧情報「は」を用いる。
従って、
(14)(15)により、
(16)
確かに、
① お爺さんTan(知)old man であって、
① お爺さん=The(知)old man である。
然るに、
(17)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
のではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、「桃太郎の昔話し」と「話し」が「」である。
然るに、
(18)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
ではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、日本人であれば、
② お爺さん(は)川へ洗濯に、行きました。
とは、言はずに、
② お爺さん(川へ洗濯に、行きました。
といふ風に、言ふはずである。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
The old man went to the river to do the washing.
② お爺さん()川へ洗濯に、行きました。
に於いて、
①=② である。
従って、
(19)により、
(20)
① The(知)old man
② お爺さん(
に於いて、
①=② である。
従って、
(16)(20)により、
(21)
① お爺さんは=The(既知)old man である。
② お爺さん=The(知)old man である。
である。
従って、
(15)(22)により、
(22)
知)」=「The知)」
といふ「矛盾」が生じるものの、この点について、onomameus、すなはち、このブログのオーナーである私が、「ヤフー!知恵袋」に「質問(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12161805952)」したところ、私が選んだ「ベストアンサー」は、
ベストアンサーに選ばれた回答は、
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fdgxm822さん 2016/7/1918:49:26
知;知という説明は 大抵の場合に当てはまるので、
不定冠詞;冠詞 で表すことができますが、
当てはまらない場合もあります。
例に挙げたのがそれで、また別の原理が働いているのです。
といふのが、「その回答」である。
従って、
(18)(22)により、
(23)
① お爺さん( )山へ芝刈に、行きました。
のではなく、
② お爺さん( )川へ洗濯に、行きました。
であるならば、日本人であれば、
② お爺さん(は)川へ洗濯に、行きました。
とは、言はずに、
② お爺さん()川へ洗濯に、行きました。
といふ風に、言ふはずである。
とするのは、一人、私だけではない。
然るに、
(01)により、
(24)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)ABである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」である。
然るに、
(25)
② ABである=(A以外ではない所の)ABである。
といふのであれば、
② お爺さん川へ洗濯に行きました=(お爺さん以外ではない所の)お爺さん川へ洗濯に行きました。
といふ、ことになる。
従って、
(14)(25)により、
(26)
② お爺さん川へ洗濯に行きました=(お爺さん以外ではない所の)お爺さん川へ洗濯に行きました。
といふのであれば、
② お爺さん川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さん川へ洗濯に行きました。
といふ、ことになる。
従って、
(14)(17)(26)により、
(27)
② お爺さん( )川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さん川へ洗濯に行きました。
に於ける、
②     ( )の中に、
②     「」が入る「理由」は、
②(桃太郎の場合とは「」に、お婆さんではなく)お爺さん川へ洗濯に行きました。
といふことを、言はんがためである
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
② I said fifteen, not fifty(私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない).
と言ふ場合は、
I said fifteen の、
I said fifteen が、「強く発音(www.berlitz-blog.com/put_emphasis)」される。
従って、
(27)(28)により、
(29)
②(お婆さんではなく)お爺さん川へ洗濯に行きました。
と言ふのであれば、
② 「お爺さん」を、「強調(大きな声で言ふ)」ことは、「当然」である。
然るに、
(30)
①「お爺さんは」の「は」は、「清音」であって、
②「お爺さん」の「」は、「音」である。
然るに、
(31)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(32)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
②「お爺さん」の「音)」方が、
①「お爺さんは」の「は(清音)」よりも、「心理的な音量」が、「大きい」。
(27)~(33)により、
(34)
② お爺さん( )川へ洗濯に行きました=(お婆さんではなく)お爺さん川へ洗濯に行きました。
に於ける、
②     ( )の中に、
②     「」が入って、
②     「は」が入らないのは、「当然」である。
(35)
次回以降の「予定」⇒「お前言うな!」の「」について。


(11)「象は鼻が長いなぁ」の「は」について。

2018-03-17 15:58:25 | 「は」と「が」
(01)
三上章と言へば『象は鼻が長い』。そして『象は鼻が長い』と言えば「くろしお出版」なのだ(金谷武洋、主語を抹殺した男、2006年、213頁)。
然るに、
(02)
「普通」は、
① 象鼻が長い=
全ての象は鼻は長い。
といふ、「意味」である。
然るに、
(03)
ある性質Pがあったとき「Pをみたすものの全体」を{x│P(x)}の形で表して集合とよぶわけです。
集合をいちいち{x│P(x)}のような形で表さないで、A={x│P(x)}と置いて、単に集合Aと表現します。
a∈A のとき「aはAの元である」とか「aはAの要素である」といいます。元もしくは要素は、elementの訳です。さらに「aはAに属する」と表現します。
(竹内外文、集合とは何か、2001年、22頁改)
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 象鼻が長い。
に於いて、
① 象=全ての象={x│象(x)}
は、{集合としての象}である。
然るに、
(05)
①{全ての人(人の集合)}を見たことがある人が、「一人もゐない」やうに、
①{全ての象(象の集合)}を見たことがある人も、「一人もゐない」。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 象=全ての象={x│象(x)}
であるところの、「集合としての象」を、見たことがある人は、「一人もゐない」。
然るに、
(07)
はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)は、東京都武蔵野市の井の頭自然文化園で飼育されていたメスのアジアゾウである[1](ウィキペディア)。
従って、
(03)(07)により、
(08)
② はな子∈{x│象(x)}
であるところの、「はな子」は、「象といふ集合の要素」としての、「象の、はな子」である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
①{全ての象(象の集合)}を見たことがある人は、「ゐない」。
②「はな子(集合の要素)」を見たことがある人は、「 多い 」。
然るに、
(10)
「(4)番目の記事」で「説明」したやうに、
② ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
③ ABである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
② は、「終止形としての排他的命題」であって、
③ は、「連体形としての排他的命題」である。
従って、
(11)
② 象ゐる。
と言ふのであれば、
はな子のやうな(要素としての)、
② 象ゐる=象はゐて(象以外はゐない)。
といふ「意味」になる。
然るに、
(12)
例へば、
② 象ゐる=
② 象はゐて(象以外はゐない)。
と言ふのであれば、
②(今、その人の目の前には)象はゐて(象以外はゐない)。
といふ、ことになる。
従って、
(06)(12)により、
(13)
① 象鼻が長い。
② 象ゐる。
に於いて、「普通」は、
① 象鼻が長い=全ての象は鼻は長い。
② 象ゐる  =象はゐて(象以外はゐない)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(14)
② 象ゐる   =象はゐて(象以外はゐない)。
② 富士山見える=富士山は見えて(富士山以外は見えない)。
とは言っても、厳密には、
②(象以外はゐない)。
②(富士山以外は見えない)。
といふわけではない。といふことは、確かに、その通りである。
然るに、
(15)
② 心不於他、視而不見=
② 心不〔在(於他)〕、見而不(視)⇒
② 心〔(於他)在〕不、視而(見)不=
② 心〔(他に)在ら〕不れば、見れども(視え)不=
② 心が他に向いてゐないのであれば、目に入っても見えない
であるため、
②「象」だけに、  「関心」が向いてゐる際に、
②「富士山」だけに、「関心」が向いてゐる際に、
② 象ゐる   =象はゐて(象以外はゐない)。
② 富士山見える=富士山は見えて(富士山以外は見えない)。
としても、「不都合」にはならない
従って、
(04)(15)により、
(16)
① 象鼻が長い。
② 象ゐる。
に於いて、
①{象}は、{集合としての象}であって、
②「象」は、{象}といふ{集合}の「要素としての象」である。
然るに、
(17)
If an arbitrarily selected object can be shown to have a property, everything must have it(E.J.Lemmon, Begginning Logic).
任意に選ばれた対象がある性質を持つならば、すべてのものはその性質をもたねばならない(E.J.レモン 著、竹尾 治一郎・
浅野楢英訳、1973年、136頁)。
といふ「規則」を、「普遍量記号導入の規則(UI)」と言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
③ 象鼻が長いなぁ。
と言ふのであれば、
③(任意に選ばれた象がもつ性質から判断して)象といふ(動物の)鼻は長いなぁ。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(18)により、
(19)
③ 象鼻が長いなぁ。
に於ける、
③{象}は、「普遍量記号導入の規則(UI)」に基づく、{集合としての象}である。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 象鼻が長い。
② 象ゐる。
③ 象鼻が長いなぁ。
に於いて、
①{象}は、{集合としての象}であって、
②「象」は、{象}といふ{集合}の「要素としての象」であって、
③{象}は、「普遍量記号導入の規則(UI)」に基づく、{集合としての象}である。
従って、
(20)により、
(21)
② 象ゐる。猫ゐる。犬ゐる。朱鷺ゐる。お爺さんとお婆さんゐる。
の場合は、全て、
②{集合の要素}としての、「象、猫、犬、朱鷺、人、お爺さんとお婆さん」である。
(22)
次回の「予定」⇒「お爺さんが川へ洗濯に」の「が」について。

(10)「STAP細胞はあります!」の「は」について。

2018-03-16 10:48:07 | 「は」と「が」
(01)
① ペガサスは翼を持つ=
① すべてのペガサスに翼がある=
① ∀x{ペガサスx→∃y(翼yx)}=
① 全てのxについて、xがペガサスであるならば、あるyはxの翼である。
然るに、
(02)
たとえば、物理的な文脈の中では存在しないかもしれないところのペガサス(翼をもった馬)について何かを述べることができるし、またギリシャ神話の文脈のなかでは存在しないといわれている何かについて「すべて・・・・・」といふこともできる
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、121・122頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
物理的な文脈(可能世界)の中で、「ペガサス(Πέγασος)はゐる。」といふ風に、述べることができる。
従って、
(03)により、
(04)
① ペガサスゐる。
といふ「日本語」は、
① ペガサスは実在の動物である。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)により、
(05)
① ペガサスは実在の動物である。
といふ風に、言ひたいのであれば、その人は、
① ペガサスゐる。
といふ風に、述べることになる。
然るに、
(06)
4月8日には釈明記者会見を行い、「STAP細胞あります!」「200回以上の作製にも成功しました」等と強い口調で断言するなど、不正は全く無かった事を主張したものの[105]、通常は弁護団経由でコメントを発信しており、会見やコメントも様々な批判を受けた(ウィキペディア)。
従って、
(05)(06)
(07)
① STAP細胞は実在する
といふ風に、小保方氏が言ふ場合も、
① STAP細胞あります!
といふ風に、述べることになる。
然るに、
(08)
「(1)最初の記事」で「確認」した通り、
① AはBである。
① BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=① ではないが、必ず
  ①=③=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
③ ABである。
④ A以外はBでない
に於いて、
③=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
③ A有る。
④ A以外無い
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(11)
③ A有る。
といふのあれば、当然、
① A有る。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ A有る=
③ Aは有って(A以外無い)。
である。
従って、
(12)により、
(13)
③ STAP細胞あります!=
③ STAP細胞はあり(STAP細胞以外は有りませ)!
である。
然るに、
(14)
iPS細胞とは、細胞を培養して人工的に作られた多能性の幹細胞のことです。2006年8月に京都大学の山中伸弥教授らは世界で初めてiPS細胞の作製に成功し、2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました(iPS細胞とは?|バイオのはなし|中外製薬)。
従って、
(06)(14)により、
(15)
STAP細胞が有らうと、無からうと、いづれにせよ
①  iPS細胞は、有ります!
従って、
(14)(15)により、
(16)
小保方氏が、
③ STAP細胞があります!=
③ STAP細胞はあり(STAP細胞以外はありません)!
と言ふのであれば、その場合は、
小保方氏が、「顕微鏡を覗いてゐて、STAP細胞が、見えてゐる」場合であるに、違ひない。
従って、
(07)(16)により、
(17)
① STAP細胞はあります!=STAP細胞は実在します!
③ STAP細胞があります!=STAP細胞はあり(STAP細胞以外はありませ)!
であって、それ故、
① であれば、「、小保方氏の、目前に、STAP細胞はない」。
③ であれば、「、小保方氏の、目前に、STAP細胞ある」。
然るに、
(18)
ここで多少、記号についてのべますと、集合をいちいち{x│P(x)}のような形で表さないで、A={x│P(x)}と置いて、単に集合Aと表現します。
a∈A のとき「aはAの元である」とか「aはAの要素である」といいます。元もしくは要素は、elementの訳です。さらに
「aはAに属する」と表現します。
(竹内外文、集合とは何か、2001年、22頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
① であれば、「STAP細胞といふ細胞の集合」のことを述べてゐて、
③ であれば、「STAP細胞といふ集合の要素」のことを述べてゐる。
従って、
(19)により、
(20)
③ お爺さんとお婆さんゐます。
と言ふのであれば、
③「お爺さんとお婆さんといふ、集合の要素」 としての、「お爺さんとお婆さん」のことを言ってゐるのであって、
①「お爺さんとお婆さんといふ、集合そのもの」としての、「お爺さんとお婆さん」のことを言ってゐるのではない
然るに、
(21)
③「お爺さんとお婆さんといふ集合の要素」としての、「お爺さんとお婆さん」といふのは、
③「一人のお爺さん と、一人のお婆さん」に、他ならない。
然るに、
(22)
③「一人のお爺さんと、一人のお婆さん」 aといふことは、
③「(an old man)and(an old woman)」といふことに、他ならない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
③ Long,long ago there lived an old man and an old woman.
と言ふのであれば、「日本語」では、
③ 昔、ある所に、お爺さんとお婆さん住んでゐました。
と言はずに、
③ 昔、ある所に、お爺さんとお婆さん住んでゐました。
といふ風に、言ふことになる。
(24)
次回の「予定」⇒「象は鼻がながいなぁ」の「は」について。

(9)鰻我所欲也=∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}。

2018-03-16 10:33:20 | 「は」と「が」
(01)
① 鰻為我所一レ捌 =
① 鰻為〔我所(捌)〕。
に於いて、
① 為〔 〕⇒〔 〕為
① 所( )⇒( )所
といふ「移動」を行ふと、
① 鰻為〔我所(捌)〕⇒
① 鰻〔我(捌)〕所為=
① 鰻〔我が(捌く)〕所と為る=
① 鰻は、私に捌かれた。
然るに、
(02)
① 私に捌かれたのは「ある鰻」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 鰻為〔我所(捌)〕=
① 鰻は〔我が(捌く)〕所と為る。
を「述語論理」で表すならば、
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)=
① あるxは鰻であって、あるyは我であって、yはxを捌く。
といふ、ことになる。
然るに、
(04)
1  (1)∃x∃y(鰻x&我y&捌yx) A
 2 (2)  ∃y(鰻a&我y&捌ya) A
  3(3)     鰻a&我b&捌ba  A
  3(4)     鰻a         3&E
  3(5)        我b      3&E
  3(6)           捌ba  3&E
  3(7)     我b&鰻a      45&I
  3(8)     我b&鰻a&捌ba  67&I
  3(9)  ∃x(我y&鰻x&捌bx) 8EI
  3(ア)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 9EI
 2 (イ)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 23アEE
1  (ウ)∃y∃x(我y&鰻x&捌yx) 12イEE
然るに、
(05)
② ∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)=
② あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)=あるxは鰻であって、あるは我であって、yはxを捌く。
② ∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)=あるは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
② あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
といふことは、
② 我捌鰻=私は鰻を捌いた。
といふことである。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る=鰻は私捌かれた(動態)。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く)〕所と為る=私は鰻捌いた (動態)。
に於いて、
①=② である。
(09)
③ 鰻我所(欲)也。
に於いて、
③ 所( )⇒( )所
といふ「移動」を行ふと、
③ 鰻我所(欲)也⇒
③ 鰻我(欲)所也⇒
③ 鰻は我が(欲する)所なり=
③ 鰻は私の好物である。
然るに、
(10)
③ 鰻は私の好物である。
といふ場合の、
③ 鰻 は、「特定の鰻」ではない「鰻一般」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 鰻我所(欲)也=鰻は我が(欲する)所なり=鰻は私の好物である。
を「述語論理」で表すならば、
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=
③ 全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(08)(11)(12)により、
(13)
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く。
③ 鰻我所(欲)也  =鰻は我が(欲する)所なり。
に於いて、
「左辺」は、「漢文の補足構造」であって、
「右辺」は、「国語の補足構造」である。
然るに、
(14)
① ∃x∃y(鰻x&我y&捌yx)  =あるxは鰻であって、あるyは我であって、yはxを捌く。
② ∃y∃x(我y&鰻x&捌yx)  =あるyは我であって、あるxは鰻であって、yはxを捌く。
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
の場合は、
① 鰻為〔我所(捌)〕=鰻〔我が(捌く)〕所と為る。
② 我捌(鰻)    =我(鰻を)捌く。
③ 鰻我所(欲)也  =鰻は我が(欲する)所なり。
に於ける、「論理構造(深層構造?)」である。
cf.
《deep structure》チョムスキーによって設定された変形生成文法理論の基本概念の一。現実の発話の基底にあって文の意味を規定すると想定され、表層構造よりいっそう抽象的な構造。変形規則を適用することによって表層構造が導き出され、異形同義文や同形異義文の関係を説明するのに役立つ(デジタル大辞泉)。
従って、
(14)により、
(15)
例へば、
③ 鰻我所(欲)也 =鰻は我が(欲する)所なり。
といふ「漢文訓読」の「補足構造」と、
③ ∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}=全てのxについて、xが鰻ならば、あるyは我であって、yはxを欲す。
といふ「論理構造(深層構造?)」とは、「両立」する。
(16)
次回の「予定」⇒「STAP細胞はあります!」の「は」について。

(8)「これだけ(は・が)知って欲しい。」について。

2018-03-15 12:30:07 | 「は」と「が」
(01)
「(1)最初の記事」で「確認」した通り、
① AはBである。
② BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
然るに、
(02)
① AはBである=AはBである。
である。
然るに、
(03)
① AはBである=AはBである。
の場合は、
①「A以外もBである。」とも、
①「A以外はBでない。」とも、言ってゐない。
従って、
(03)により、
(04)
① AはBである=(少なくとも)AはBである。
である。
然るに、
(05)
③ ABである。
といふのであれば、
① AはBでない
といふことは、有り得ない
従って、
(05)により、
(06)
③ ABである。
といふのであれば、
① AはBである。
従って、
(01)(06)により、
(07)
③ ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
である。
従って、
(04)(07)により、
(08)
① AはBである=(少なくとも)AはBである。
③ ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
然るに、
(09)
[のみ]他の事柄を排除して、ある事柄だけに限る意味を表はすと同時に、ある事柄を取出して、それを強調する意味に用ゐられる(時枝誠記、日本文法 文語編、2005年、236頁)。
然るに、
(10)
[のみ]に倣って、
[だけ]他の事柄を排除して、ある事柄だけに限る意味を表はす。
といふ風に、「仮定」する。
従って、
(08)(10)により、
(11)
① ABである=(少なくとも)AはBである。
③ ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
に対して、
① AだけBである=AはBであって(A以外はBでない)。
③ AだけBである=AはBであって(A以外はBでない)。
であると、「仮定」する。
然るに、
(12)
① 日本語の教師の方たちには、どうしても、これだけは、知って欲しい。
のやうな場合に於ける、
① これだけ、知って欲しい。
の場合は、明らかに、
① これだけ、知って欲しい=(少なくとも)これだけは、知って欲しい。
といふ、「意味」であって、
① これだけ、知って欲しい=これを知って(これ以外は知らない)で欲しい。
といふ、「意味」ではない。
従って、
(10)(12)により、
(13)
[だけ]の事柄を排除して、  ある事柄だけに限る意味を表はす。
といふのではなく、
[だけ]の事柄を排除せずに、ある事柄だけに限る意味を表はす。
といするのが、「正しい」。
然るに、
(14)
③ ただ 空 の 名残 のみ 惜しき(徒然草)。
③ ただ 空 の 名残 だけ 惜しい(現代語)。
に於ける、
③ 空の名残だけ惜しい。
であれば、
① 空の名残だけ惜しい。
といふ「言ひ方」は、「普通は、しない」。
従って、
(13)(14)により、
(15)
③ 空の名残だけ惜しい=空の名残は惜しいが(空の名残以外は惜しくはない)。
に於ける、
③                     (空の名残以外は惜しくはない
といふ「排除」の「機能」は、
③    「だけ(副助詞)」 が担ってゐるのではなく、 
③      「(係助詞)」が担ってゐることになる。
(16)
次回の「予定」⇒鰻我所欲也=∀x{鰻x→∃y(我y&欲yx)}。

(7)「は・も・が」は「係助詞」である。

2018-03-14 17:54:31 | 「は」と「が」
(01)
37講 助詞「・の」の働き
助詞は助動詞ほど現代語と離れていませんので、解釈面をしっかり押さえることがポイントです。初めに助詞「・の」です。両者は非常によく似ています。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
すなはち、
(02)
① 君の家、私の国、君の行く道、博士の愛した数式。
に対して、
① 君世、我国、君行く道、博士愛した数式。
であるため、「」と「の」は、非常によく似てゐる。
然るに、
(03)
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
なにがしとかいった世捨て人が、「現世で人の心を引きつけ自由を束縛するものは何も持っていない身にも、ただ四季おりおりの空の美しさだけ捨てがたい」と言ったのは、まったくそのように思われるにちがいない。
(三省堂、新明解古典シリーズ10 徒然草、1990年、49頁)
従って、
(03)により、
(04)
② ただ 空 の 名残 のみ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ 惜しい(現代語)。
である。
然るに、
(05)
45講 助詞「・なむ・や・か・こそ」の働き
係助詞のうち、係り結びを形成するものを取り上げます。係り結びの形などについては、別講で扱うとして「ぞ・なむ・や・か・こそ」の各係助詞の用法をみておきましょう。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、100頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ただ 空 の 名残 のみ 惜しき(徒然草)。
② ただ 空 の 名残 だけ 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「」が「助詞」である以上、
② 「」も「助詞」でなければ、ならない。
然るに、
(07)
44講 助詞「」の働き
副助詞と同じく、それがなくても意味は通じるという助詞に、係助詞があります。副助詞と働きが似ていることから、副助詞として扱う文法書もありますが、ここでは別に扱います。
(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、114頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
② ただ 空 の 名残 だけ 惜しい(現代語)。
に於いて、
② 「」も「助詞」であって、「は・も」も「助詞」である。
従って、
(01)(08)により、
(09)
(Ⅰ)  「の」の仲間である「助詞」としての「」。
(Ⅱ)「・も」の仲間である「助詞」としての「」。
といふ「(二通りの)が」が、なければ、ならない。
然るに、
(10)
何故か、
最も基本的な助詞である。動作や状態の主体/要求や願望の対象を示す(ウィキペディア)。
とあるやうに、
(Ⅱ)「」の仲間である「助詞」としての「」。
を、認める「文法書」が、見つからない。
然るに、
(11)
「(7)番目の記事」でも、示した通り、
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(12)
」が「音」であるやうに、
」も「音」である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
音)の音量」が、「は(清音)の音量」よりも「大きい」のであれば、
音)の音量」も、「は(清音)の音量」よりも「大きい」ことになる。
然るに、
(14)
「これ迄の記事」を読まれた方であれば、既に、分ってもらへてゐるやうに、私が言ひたいのは、「_は(清音)」に対する「_音)」は、「強調形」である。
といふことである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
「_音)」が、「強調形」であるならば、私にとって「都合」がよいものの、果たして、
(係助詞)〔上代には「そ」とも〕ガイド
①(ア)主語 の強調
 (イ)目的語 の強調
(旺文社、全訳 学習 古語辞典、2006年、463頁)
とのことである。
(16)
明日の「予定」⇒「これだけ(は・)」について。

(6)「古文と漢文とギリシャ語」の「強調形」と、「排他的命題」について。

2018-03-14 14:19:45 | 「は」と「が」
(01)
「(4)番目の記事」で「説明」したやうに、
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)ABである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であるとし、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
然るに、
(02)
[のみ]
他の事柄を排除して、ある事柄だけに限る意味を表はすと同時に、ある事柄を取出して、それを強調する意味に用ゐられる
(時枝誠記、日本文法 文語編、2005年、236頁)。
然るに、
(03)
他の事柄排除して、ある事柄だけに限る意味を表はすと同時に、ある事柄を取出して、それを強調する意味に用ゐられる。
といふことは、
ある事柄を「強調」し、他の事柄を「排除」して、ある事柄だけに限る意味」を表はす。
といふ、ことである。
従って、
(03)により、
(04)
① AのみBなり=
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(04)により、
(05)
「のみ」といふ「古語」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(06)
(3)惟婦言是用(これ婦人をこれ用ふ)。
のやうな「漢文」に於ける、
(3) 惟 に関して、
この強調する語気の「惟」は、次第に、専一・単独などの意味を表わす副詞として用いられるようになり、多く「」と書かれるようになっている。それで右の例(3)の「惟」は、「タダ」と読んでいる人もある(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、310頁)。
従って、
(06)により、
(07)
② 惟婦言是用=
タダ婦の言、是れを用ふ=
② 婦人の言を用ひ(婦人の言以外は用ひない)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(07)により、
(08)
「惟」といふ「漢字」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
(09)
(4)人称代名詞の主格は、特にそれが強調される場合以外には用いられない。
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(Isay)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(09)により、
(10)
εγω λεγω,συ δε γραφειs.
say ,but you write.
に於いて、
εγω λεγω,συ
は「強調形」である。
加へて、
(11)
εγω λεγω,συ δε γραφειs.
といふことは、
③ 私は言ひ、私以外(汝)は言はない
③ 汝は書き、汝以外(私)は書かない
といふことである。
従って、
(01)(10)(11)により、
(12)
「εγω,συ」といふ「ギリシャ語の人称代名詞」に関して、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(05)(08)(12)により、
(13)
「のみ(古文)、惟(漢文)、εγω(ギリシャ語)」に於いて、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(14)
強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。といふことには、「必然性」があるに、違ひない。
然るに、
(15)
④ これは私の本です=
④ これは私の本であって、私以外の本ではない
といふことを、「強く主張」する場合は、
④ 私 といふ「語」を「強調」することになる。
(16)
⑤ 彼が犯人です=
⑤ 私ではなく、彼(私以外)が犯人です。
といふことを、「強く主張」する場合は、
⑤       彼 といふ「語」を「強調」することになる。
然るに、
(17)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(18)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
① AはBである。
② ABである。
に於いて、
① Aは〔清音〕 の「(心理的な)音量」よりも、
② A音〕 の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
従って、
(16)(19)により、
(20)
⑤ 彼( )犯人です=
⑤ 私ではなく、彼が犯人です。
に於いて、
⑤ 彼() であって、
⑤ 彼(は) でないことを、当然である。

(5)「仮言命題」の「前件」に於ける「(他ならぬ)_が」について。

2018-03-13 18:32:24 | 「は」と「が」

(01)
「(4)午前中の記事」で説明したやうに、
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない所の)AがBである。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であるとし、
② は、「連体形としての排他的命題」であるとする。
従って、
(02)
例へば、
① 私理事長です=私は理事長であって(私以外は理事長ではない)。
② 藤井総太婚約=(なら)藤井総太婚約。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」である。
然るに、
(03)
③ AならばBである(A→B)。
といふ「命題」を、「仮言命題」といふ。
然るに、
(04)
(a)
 1 (1)  A→ B        仮定
  2(2)  A&~B        仮定
  2(3)  A           2
 12(4)     B        13前件肯定
 12(5)    ~B        2&除去
 12(6)  B&~B        45&導入
 1 (7)~(A&~B)       16背理法
(b)
1  (1)~(A&~B)       仮定
 2 (2)  A           仮定
  3(3)    ~B        仮定
 23(4)  A&~B        23&導入
123(5)~(A&~B)&(A&~B)12&導入
12 (6)   ~~B        35背理法
12 (7)     B        6二重否定
1  (8)  A→ B        27条件法
従って、
(03)(04)により、
(05)
③   A→ B =AならばBである。
④ ~(A&~B)=AであってBでない、といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
④ AであってBでない、といふことはない
といふのであれば、
④ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ Aならば、Bである=
④ AであってBでない、といふことはない
といふ「仮言命題」は、
③ AであってBでない。
ならば、そのときにだけ、「ウソ」である。
然るに、
(08)
③ AならばBである=
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
であるとする。
然るに、
(07)(08)により、
(09)
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふのであれば、
⑤ 月曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
⑤ 火曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
⑤ 水曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
⑤ 木曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
⑤ 金曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
⑤ 土曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
としても、
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソにはならず
⑤ 日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない
のであれば、
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
とふ「仮言命題」は、「ウソ」になる。
従って、
(09)により、
(10)
⑤(日曜日以外ある所の)土曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(としてもウソではない)。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(としたら、ウソある)。
然るに、
(11)
④ 私はウソを言はない
従って、
(10)(11)により、
(12)
⑤(日曜日以外ある所の)土曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはアル)。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
然るに、
(05)により、
(13)
④ AであってBでない、といふことはない
③ AならばBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③(日曜日以外ない所の)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
④(日曜日以外ない所の)日曜日晴れたのに、私は釣りに行かない(といふことはナイ)。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(15)
③(日曜日以外ない所の)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふことは、
③(なら)日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
③ 日曜日晴れならば、私は釣りに行く=(なら)日曜日が晴れならば、私は釣りに行く。
でなければ、ならない。
従って、
(02)(16)により、
(17)
② 藤井総太婚約           =(なら)藤井総太婚約。
③  日曜日晴れならば、私は釣りに行く=(なら) 日曜日晴れならば、私は釣りに行く。
に於いて、
② は、「連体形としての排他的命題」であって、
③ も、「連体形としての排他的命題」である。
従って、
(17)により、
(18)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約! 
③  日曜日( )晴れならば、
に於ける、
②     ( )には、「」が入り、
③     ( )にも、「」が入る「理由」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約! 
③  日曜日()晴れならば、
に於いて、それぞれが、
②「連体形としての排他的命題」であって、
③「連体形としての排他的命題」であるからである。
(証明終了)
従って、
(18)により、
(19)
④ 象は鼻長い=
④ すべての象は鼻は長く、鼻以外は長くない
④ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
④ すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於ける、
④ すべてのxについて、x( )象ならば、
に於ける、
④            ( )の中に、「」が入らない「理由」も、
④ すべてのxについて、x()象ならば、
といふ「それ」が、
④「連体形としての排他的命題」であるからである。
すなはち、
(20)
③ 日曜日( )晴れならば、
であれば、必ず、
③ 日曜日()晴れならば、
であって、「日本語」としては、
③ 日曜日()晴れならば、
とはならないことを、知ってゐるため、そのため、
④   x( )象ならば、
であれば、必ず、
④   x()象ならば、
であって、
④   x()象ならば、
といふ風に、思ふことになる
然るに、
(21)
④ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」を、仮に、
④ すべてのxについて、x象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
とは読まずに、
④ すべてのxについて、象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ風に、読むならば、すなはち、
④ すべてのxについて、x象ならば、
とは読まずに、
④ すべてのxについて、象ならば、
といふ風に、読むならば、
④ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」は、「意味」をなさない。
従って、
(21)により、
(22)
④ すべてのxについて、
と言ってしまへば、
④ すべてのxについて、(ではない所の)x
でなければ、ならない。
従って、
(22)により、
(23)
④ すべてのxについて、
と言ってしまへば、
④ すべてのxについて、(ではない所の)x
すなはち、
④ すべてのxについて、(なら)x
でなければ、ならない。
従って、
(23)により、
(24)
④ 象は鼻長い=
④ すべての象は鼻長く、鼻以外は長くない
④ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
④ すべてのxについて、x象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於ける、
④ すべてのxについて、x()象ならば、
の場合も、
③         日曜日()晴れならば、
と同じく、
④「連体形としての排他的命題」であっても、ヲカシクはない。
然るに、
(25)
③ 日曜日()晴れならば、
④   x()象ならば、
のやうな「それ」を、「仮言命題の前件」といふ。
従って、
(24)(25)により、
(26)
仮言命題」の「前件」に於ける「(なら)_」は、「連体形としての排他的命題」である。
(27)
明日の「予定」⇒「徒然草(第二十段)」他。


(4)「(連体形としての)排他的命題」としての「(他ならぬ)_が」について。

2018-03-13 11:41:43 | 「は」と「が」
(01)
「最初の記事(3月10日)」で「確認」した通り、
① ABである。
② A以外はBでない
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① ABである。
であって、
① AはBでない。
といふことは、あり得ない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(04)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition(merriam-webster).
従って、
(03)(04)により、
(05)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「それ」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と呼ぶことにする。
然るに、
(06)
② 藤井総太( )指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
であって、
② 藤井総太(は)指原莉乃と婚約!
ではあり得ない。
然るに、
(07)
 マリリンモンローディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ! と読者に迫る手法である。
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
然るに、
(08)
未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。」といふのは、「詭弁」に過ぎない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 藤井総太()指原莉乃と婚約!
であれば、「週刊誌の見出し」は、
②(誰でも知ってゐる、なら、あの)藤井総太()指原莉乃と婚約!
といふ「意味」になる。
然るに、
(10)
②(なら)A
といふことは、
②(A以外ではない)A
といふ、ことである。
従って、
(10)により、
(11)
② ABである=
②(なら)AがBである=
②(A以外ではない)AがBである。
といふ、ことになる。
従って、
(05)(11)により、
(12)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない)AがBである。
であるものの、
① に関しては、「終止形としての排他的命題」と呼び、
② に関しては、「連体形としての排他的命題」と呼ぶことにする。
然るに、
(13)
「最初の記事(3月10日)」でも、確認した通り、
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① ABである=AはBであって(A以外はBでない)。
② ABである=(A以外ではない)ABである。
に於いて、
① は、「排他的命題」であって、
② は、「排他的命題」であって、
① A(濁音) は、「強調形」であって、
② A(濁音) は、「強調形」である。
従って、
(15)
① 私理事長です=私は理事長であって(私以外は理事長ではない)。
② 藤井総太婚約=(なら)藤井総太婚約。
に於いて、
① は、「終止形としての排他的命題」であって、
② は、「連体形としての排他的命題」であって、
①    私(濁音) は、「強調形」であって、
② 藤井総太(濁音) は、「強調形」である。

(3)「述語論理」に基づく、「象は鼻が長い。ぼくはウナギだ。こんにゃくは太らない。」の「主題は」と「二重主語」について。

2018-03-12 15:45:40 | 「は」と「が」
(Ⅰst)
(01)
① yは鼻であって、xはyを所有してゐる。
といふことは、
① yは、xの鼻である。
といふ「意味」である。
然るに、
(02)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い。
といふことは、
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふことである。
然るに、
(04)
「最初の記事(3月10日)」で「確認」した通り、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 象は鼻が長い。
ではなく、
① 象は鼻は長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻は長い=
① 全ての象は鼻は長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
然るに、
(07)
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
のであれば、
① 象が存在するならば、鼻の長い象が存在する。
然るに、 (08)
1    (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1    (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3   (3)∃x(象x)                         A
  4  (4)   象a                          A
1 4  (5)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  24MPP
1 4  (6)      ∃y(鼻yx&長y)               5&E
13   (7)      ∃y(鼻yx&長y)               346EE
1 4  (8)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  5&E
13   (9)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  348EE
13   (ア)                    ~鼻bx→~長b   9UE
   イ (イ)                          長b   A
    ウ(ウ)                    ~鼻bx       A
13  ウ(エ)                         ~長b   アウMPP
13 イウ(オ)                    ~長b&長b     イエ&I
13 イ (カ)                   ~~鼻bx       ウオRAA
13 イ (キ)                     鼻bx       カDN
13   (ク)                     長b→鼻bx    イキCP
13   (ケ)                  ∃z(長z→鼻zx)   クEI
13   (コ)      ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   3コ&I
1    (シ)∃x(象x)ならば、あるxは象であって、あるyはxの鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
1    (ス)象が存在するならば、ある象は象であって、あるyは象の鼻であって、yは長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
然るに、
(09)
その一方で、
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことは、
① 全ての象の鼻は長い。そして、全ての象の鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふことに、他ならない。
然るに、
(10)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3(3)   象a                          A
13(4)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  23MPP
13(5)      ∃y(鼻yx&長y)               4&E
1 (6)   象a→∃y(鼻yx&長y)               35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              6UI
13(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             4&E
1 (9)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            7ア&I
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
     ∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}              1&E
1 (3)   象a→∃y(鼻yx&長y)               2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}            1&E
1 (5)   象a→∀z(~鼻zx→~長z)             4UE
 6(6)   象a                          A
16(7)      ∃y(鼻yx&長y)               63CP
16(8)      ∀z(~鼻zx→~長z)             65CP
16(9)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  78&I
1 (ア)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
従って、
(10)により、
(11)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるとき、そのときに限って、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
である。
従って、
(06)~(11)により、
(12)
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」に対する、
① 象は鼻が長い=
① 全ての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「翻訳」は、「正しい」。
然るに、
(13)
① 全てのxについて、xが象ならば、  あるyはxの鼻であって、     yは長く、     全てのzについて、zがxの鼻でないならば、     zは長くない。
② 全てのxについて、xが品ならば、  あるyはxの中の「これ」であって、yは良く、     全てのzについて、zがxの「これ」でないならば、  zは良くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、  あるyはxが食べたいものであって、yはウナギであって、全てのzについて、zがxが食べたいものでないならば、zはウナギではない。
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、    yはうまく、    全てのzについて、zが目黒のxでないならば、    zはうまくない。
といふ、「変った日本語」が、「真(本当)」であるならば、
① 象は、鼻が長い。
② 品は、これがいいです。
③ 君たちはともかく、ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、全て、「真(本当)」である。
然るに、
(14)
あるいは、「一人しかゐない、ぼく」なのに、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
といふ「言ひ方」は、あるいは、「ヲカシイ」と言ふかも知れない。
然るに、
(15)
要するに「すべて」という語も「人間」という語も、「存在する」ということとは無関係である(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、122頁)。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
といふ「日本語」は、四つとも全て、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
といふ風に、「翻訳」される。
然るに、
(17)
⑤ こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)
従って、
(17)により、
(18)
⑤ こんにゃくは太らない。 といふのであれば、
⑤ こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
然るに、
(19)
1  (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1  (2)   蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
 3 (3)∃x(蒟蒻x)                 A
  4(4)   蒟蒻a                  A
1 4(5)        ∃y(人y&食yx&~太y)  24MPP
13 (6)        ∃y(人y&食yx&~太y)  345EE
1  (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)  36CP
1  (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
1  (9)こんにゃくが存在するならば、ある人が存在して、その人はこんにゃくを食べ、その人は太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ こんにゃくは太らない。
といふ「日本語」は、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(16)(20)により、
(21)
① 象は鼻が長い。
② 品はこれがいいです。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る(目黒がうまい)。
⑤ こんにゃくは太らない。
に於いては、⑤ だけが、他とは異なるものの、これらの「日本語」は、
① ∀x{Fx→∃y(Gyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
② ∀x{Fx→∃y(Fyx&Gy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
③ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
④ ∀x{Fx→∃y(Gyx&Hy)&∀z(~Gzx→~Hz)}。
⑤ ∀x{Fx→∃y(Gy&Hyx&~Iy)}。
といふ「述語論理」に、「翻訳」される。
従って、
(22)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、 といふ「日本語」は、「述語論理」に於いては、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「意味」になる。
然るに、
(23)
主題(話題語)は、日本語のように係助詞「は」で示されるもの、中国語のように語順(文頭)で示されるものがあり、見かけ上主語と区別しにくい場合も多い(ウィキペディア)。
然るに、
(24)
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふのであれば、例へば、
① 象は鼻が長い=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
であれば、「象」を「話題」にしてゐて、
⑤ こんにゃくは太らない=
⑤ ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
であれば、「こんにゃく」を「話題」にしてゐる。
従って、
(21)~(24)により、
(25)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① ∀x{Fx→
② ∀x{Fx→
③ ∀x{Fx→
④ ∀x{Fx→
⑤ ∀x{Fx→
といふ風に、すなはち、 ① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱnd)
然るに、
(26)
それでは、狭義の述語論理において究極的な主語となるものは何であろうか。それは「人間」というような一般的なものではない。
また「ソクラテス」も述語になりうるし、「これ」すらも「これとは何か」という問に対して「部屋の隅にある机がこれです」ということができる。
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
 (xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
 SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
 Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田充茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(27)
⑥ ソクラテスは人間である=
⑥ ソクラテスといふ人間がゐる。
といふ「日本語」は、
⑥ ∃x(ソクラテスx&人間x)=
⑥ あるxはソクラテスといひ、そのxは人間である。
といふ「述語論理」に、対応する。
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑥ ソクラテスは人間である。
といふ「日本語」に於ける、
⑥ ソクラテス は、「主語」ではなく、飽くまでも、
⑥ ソクラテスといふxが、「主語」である。
従って、
(29)
⑦ すべての哲学者は独身だ=
⑦ ∀x(哲学者x→独身x)=
⑦ 全てのxについて、xが哲学者ならば、xは独身である。
であれば、
⑦ 哲学者であるxが、「主語」であって、
⑦ 哲学者は、「主語」ではない。
従って、
(29)により、
(30)
ところで先にも述べたが、「すべての哲学者は独身だ」における「すべての哲学者」は、文法でいうような主語ではない。述語論理では「哲学者」は述語であり、「すべてのものは哲学者である」あるいは「哲学者であるすべてのものは」と読みかえられる(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄、論理学の基礎、1994年、121・122頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(30)により、
(31)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
であれば、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
が、「主語」である。
従って、
(31)により、
(32)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}= ① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
然るに、
(33)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
① ∀x といふ「演算子の働き」は、
①   {象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
といふ「全体」に及んでゐて、
①       ∃y(鼻yx&長y)
に於いて、
①       ∃x といふ「演算子の働き」は、
①         (鼻yx&長y)
といふ「部分」に及んでゐる。
然るに、
(35)
日本語「象は鼻が長い」のようないわゆる「総主文」が存在する。このような日本語表現を二重の主語と解釈するかどうかは議論があるが、中国語においてはこのような表現は「主謂謂語句」、すなわち「主語+謂語(述語)」の組み合わせが副文として述語になっていると解釈する(ウィキペディア)。
従って、
(31)~(35)により、
(36)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「等式」が、「正しい」限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があって、
① 象x  は、
① 象は鼻が長い。といふ「全体」の「総主」であって、
① 鼻yx は、
①   鼻が長い。といふ「部分」の「主語」である。
然るに、
(37)
「象は鼻が長い」はどれが主辞がわからないから、このままでは非論理的な構造の文である、と言う人がもしあった(沢田『入門』二九ペ)とすれば、その人は旧『論理学』を知らない人であろう、これはこのままで、
 象は 鼻が長い。
 主辞 賓辞
とはっきりしている(三上章、日本語の論理、1963年、13頁)。
(38)
伝統論理学を速水滉『論理学』(16)で代表させよう。わたしのもっているのが四十三年の第十九冊一万部中の一冊で、なお引続き刊行だろうから、前後かなり多くの読者をもつ論理学書と考えられる。新興の記号論理学の方は、沢田充茂『現代論理学入門』(62)を参照することとする(三上章、日本語の論理、1963年、4頁)。
従って、
(36)(37)(38)により、
(39)
三上章先生は、
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない=
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ新『論理学』を知らない人であらう。
といふ、ことになる。
(Ⅲrd)
然るに、
(40)
「どうして中国語でなくて日本語にしたの」
そうしたら、返ってきた言葉に驚きました。皆打ち合わせていたかのように、「だって日本が好きなんです」と言うのです。好きだと言われたら、これはもはや理性ではなく、感情ですよね。「へえ、好きなんだ。それじゃしょうがないない」と私は頭をかいてみせましたが、正直とても嬉しかったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、198頁)。
従って、
(41)
学生たちは、「金谷武洋先生」を含む、「日本人と日本」が好きである。
加へて、
(42)
さて、こういう練習を積み重ねているうちに、大変嬉しいことがおきました。他の大学の先生からたちから「先生の学生はとても自然な日本語を話しますね」とよく言われるようになったのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁)。
従って、
(41)(42)により、
(43)
金谷武洋先生の、「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
然るに、
(Ⅳth)
(44)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
於いて、
⑧ x=ぼく
⑧ y=君
⑧ 愛=愛xy
であるため、
⑧ 愛 といふ「述語」には、「x(主語)とy(目的語)」が、含まれてゐる。
従って、
(44)により、
(45)
そして、ここがとても大切な部分ですが、それ(主語や目的語や補語)は「省略」しているのではないのです。もともと述語に含まれているのです(金谷武洋、日本語が世界を平和にするこれだけの理由、2014年、97頁改)。
といふ「発想」は、「述語論理」そのものである。
従って、
(44)(45)により、
(46)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、(xはyを愛し)、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同じ人である。
といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
然るに、
(47)
1953年6月に50歳の三上が初めて上梓した『現代語法序説』は、当初かなり注目され反響を呼んだ。しかし、反響は一時的なものでしだいに下火となる。それだからこそ、当時からさらに半年を経るた2006年の現在でも「学校文法」は、十年一日の如く「文には主語と述語がある」と教えているのだし、海外の「日本語文法」でも、「日本語では主語がよく省略されます」と説明される「第二英文法」のままなのだ(金谷武洋、主語を抹殺した男 評伝三上章、2006年、176頁)。
然るに、
(48)
「昨日(3月11日)の記事」にも、書いた通り、私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
従って、
(25)(32)(43)(46)(48)により、
(49)
「結論」を確認すると、
(Ⅰ)
① 象は、
② 品は、
③ ぼくは、
④ サンマは、
⑤ こんにゃくは、
といふ「日本語」を、
① 全てのxについて、xが象ならば、
② 全てのxについて、xが品ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
⑤ 全てのxについて、xがこんにゃくならば、
といふ風に、「訳しても良い」のであれば、私自身も、
① 象(主題)は、
② 品(主題)は、
③ ぼく(主題)は、
④ サンマ(主題)は、
⑤ こんにゃく(主題)は、
といふことを、認めざるを得ない。
(Ⅱ)
① 象は鼻が長い=
① すべての象は鼻が長く、鼻以外は長くない。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
① すべてのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理」に、「翻訳」する限り、
① 象は鼻が長い。
といふ「日本語」には、少なくとも、
① 象x =象であるx
① 鼻yx=象であるxの鼻であるy
といふ「二つの主語」があることになる。
(Ⅲ)
金谷武洋先生の、カナダ人に対する「日本語教授法」は、ほとんど「100点満点」なのだと、思ふ。
(Ⅳ)
⑧ 愛してる=
⑧ ∃x∃y{僕x&君y&愛xy&∀z〔愛xz→(z=y)〕}=
⑧ あるxはボクであって、あるyは君であって、xはyを愛し、すべてのzについて、xがzを愛するならば、zはyと同一人物。 といふ「等式」が、「正しい」のであれば、『「省略」しているのではないのです。(xとyは)もともと述語(である愛)に含まれているのです。』といふことは、まさしく、さうである。と、言はざるを得ない。
(Ⅴ)
私自身は、「三上文法」が、それほど「優れた文法」であるとは、思はない。
(50)
「ちえ蔵さま(https://shugohairanai.com/)」からのコメントをお待ちしてゐます。

(2)三上章先生は、気付いてゐない。

2018-03-11 13:02:11 | 「は」と「が」
(01)
「最初の記事(3月10日)」で「証明」した通り、
① AはBである。
② BはAである。
③ ABである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
従って、
(02)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① ABである。
② BはAである。
③ A以外Bでない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
① 私理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
① 私理事長です。
② 理事長は私です。
に於いて、
①=② である以上、
① 私理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られることは、「当然」である。
然るに、
(05)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。
(三上章、日本語の論理、1963年、40頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
三上章先生は、
① 私理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた。
然るに、
(07)
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 私理事長です。
といふ「日本語」が、
② 理事長は私です。
といふ「日本語」に、「言ひ換へ」られるといふことを、知ってゐた、数学教師である、三上章先生が、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」が、
③ 私以外は理事長ではない。
であることに、仮に、気付いてゐたならば、その時に、
① 私理事長です。
② 理事長は私です。
③ 私以外は理事長ではない。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことに、気付いたことになる。
然るに、
(09)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念館は、私理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(10)
また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念館は、私理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
といふ「言ひ方」からすれば、三上章先生は、
② 理事長は私です。
に対する「対偶」は、
③ 私以外は理事長ではない。
である。といふことに、気付いてゐたとは、言へない。
然るに、
(01)により、
(11)
「順番」を「入れ換へ」ると、
① AはBである。
② ABである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
従って、
(11)により、
(12)
① これはいいです。
② これいいです。
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
然るに、
(13)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くないです。
と言ふのであれば、
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② これいいです。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
② これいいです。
と言ふのであれば、
② これいいです(これを下さい)。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くないです(これにします)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)(15)により、
(16)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
といふ風に、言ふのであれば、
② これいいです(これを下さい)。
とは言へない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(17)
② これいいです(これを下さい)。
とは言へない。のであれば、当然、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(18)
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これいいです(これを下さい)。
に於いて、
① と ② では、「意味」が「反対」である。
従って、
(11)~(18)により、
(19)
① AはBである。
② ABである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」によって、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これいいです(これを下さい)。
といふ「定理(theorem)」が、「証明」される。
然るに、
(20)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
 これはいいです。(用)
 これいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が型異になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
然るに、
(21)
不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ「言ひ方」では、一体何故、
 これはいいです。(用)
 これいいです。(入用)
のやうに、「ハとで意味が反対になることがある」のかといふ「問ひ」に、答へることは、出来ない。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
一体何故、
 これはいいです。(用)
 これいいです。(入用)
のやうに、「ハとで意味が反対になることがある」のかといふ「質問」に対して、三上章先生が、
つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう。
といふ、「答へにならない答へ」しか出来ないのであれば、三上章先生の、後継者の、諸先生方は、
① AはBである。
② ABである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
において、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」を、認めるべきである。
(23)
この「公理(axiom)」を、認めた上で、日本語の教師の方たちが、「日本語には主語が無い。」と言ふのであれば、私自身は、「日本語に、主語が有っても、主語が無くとも、どちらでもよい。」
ただし、
(24)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
といふ、金谷武洋先生の、「提案(主張)」には、全面的に、同意したい。