日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(508)「漢文・訓読」と「括弧」。

2020-02-10 18:44:46 | 漢文・訓読、漢文・音読 

(01)
・20世紀の終りか、21世紀の始めの頃に、「N88-日本語BASIC(86)」を使って、
・「漢文の白文(または、訓読)」を「縦書き」で「表示」して、
・「スペース・KEY」他を押すと、
・「漢文の白文(または、訓読)」の横に、
・「訓読(または、漢文の白文)」を表示する「プログラム」を書いて、
・「白文」を「訓読」し、「訓読」を「(日本漢字音で)音読」してゐたことが有ります。
そのため、
(02)
たぶん、その際であったと、思ふのですが、例へば、
① 悪称人之悪者。
といふ「白文」に付く、
① 悪人之悪
といふ「返り点」、すなはち、
① 下 二 一 上
といふ「返り点」は、
① { ( ) }
といふ「括弧」に「換へ」ることが出来る。
といふことに、気が付きます。
すなはち、
(03)
① 悪人之悪
ではなく、
① 悪{称(人之悪)者}。
とした際に、
① 悪{ }⇒{ }悪
① 称( )⇒( )称
といふ「移動」を行ふと、
① 悪{称(人之悪)者}。
といふ「語順」は、
② {(人之悪)称者}悪。
といふ「語順」となって、これに対して、「平仮名」を補へば、
② {(人の悪を)称する者を}悪む。
といふ「訓読」になる。
といふことに、気が付きます。
然るに、
(04)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(04)により、
(05)
① 悪称人之悪者。⇔
① 悪{称(人之悪)者}。⇔
②{(人之悪)称者} 悪。⇔
②{(人の悪)称する者を}悪む。⇔
②{(他人の悪いところ)を言ひたてる者}を憎む。
といふ「関係」が成り立つ。
といふことは、
① 悪{称(人之悪)者}。⇔
②{(人の悪)称する者を}悪む。
といふ「漢文訓読」に於ける、
①{ ( ) }
②{ ( ) }
といふ「括弧」は、それぞれ、
①「漢文補足構造」を表してゐて、
②「国語補足構造」を表してゐる。
従って、
(05)により、
(06)
例へば、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。⇔
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。⇔
④ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。⇔
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。⇔
④ そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「関係」が成り立つ。
といふことは、
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。⇔
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」に於ける、
③〈 ( ){ [ (  )( )〔 (  ) 〕 ] } 〉
④〈 ( ){ [ (  )( )〔 (  ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、それぞれ、
③「漢文補足構造」を表してゐて、
④「国語補足構造」を表してゐる。
従って、
(06)により、
(07)
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文(大學伝五章)」に対して、
④ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
といふ「返り点」を付けて、
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず學者をして凡そ天下の物に 即きて、其の已に知るの理に 因りて、益々之を 極め、以て其の極に 至るを 求め 不るを、莫から 使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。⇔
④ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」に於ける、
③「漢文補足構造」と、
④「訓読補足構造」は、「不変」である。
従って、
(08)
是に由りて之を観れば(以上の例から考へてみると)、
④「漢文・訓読」といふのは、
③「原文の補足構造」を「保存した形」で行はれる、「漢文の、逐語訳」である。
然るに、
(09)
語順異なればシンタックス異なる」が故に、
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ を、参照)。
従って、
(05)(08)(09)により、
(10)
① 悪称人之悪者。⇔
① 悪{称(人之悪)者}。⇔
②{(人之悪)称者} 悪。⇔
②{(人の悪)称する者を}悪む。⇔
②{(他人の悪いところ)を言ひたてる者}を憎む。
といふ「例文」からも分かるように、「語順が異なれば、シンタックスも異なる。」といふ「信念」は、「誤解」に過ぎない。
然るに、
(11)
① 悪人之悪
ではなく、仮に、
⑤ 悪人之悪
であったする。
然るに、
(12)
⑤ 悪称者人之悪。といふ「語順」であれば、
⑤ 悪称者人之悪。⇔ いづくんぞ称するは、人の悪。
といふ「デタラメ」こそが、「正しい」ため、
① 悪称人之悪者。⇔ 人の悪を称する者を悪む。
に対して、
悪称人之悪。⇔ 人の悪を称する者を悪む。
といふ「漢文訓読」は、有り得ない
然るに、
(13)
⑤ 下 二  一
といふ「順番」は、
⑤ 4 2<>1
といふ「順番」に、相当する。
然るに、
(14)
⑤ 4{2(3[1)]}
に於いて、
⑤ 4{ }⇒{ }4
⑤ 2( )⇒( )2
⑤ 3[ ]⇒[ ]3
といふ「移動」を行ふと、
⑤ 4{2(3[1)]}⇒
⑤ {([1)2]3}4=
⑤       1 2 3 4。
といふ「ソート(並び替へ)」が、出来上がる。
然るに、
(15)
⑤ 下 二  一
といふ「返り点」は「デタラメ」であり、
⑤{ ( [  ) ] }
といふ「 括弧 」も「デタラメ」である。
然るに、
(16)

従って、
(15)(16)により、
(17)
「白話文(中国語)」を「訓読」しようとすると、
⑤ 下 二  一
⑤{ ( [  ) ] }
といふ、「デタラメな返り点(括弧)」が付くことになる。
従って、
(04)(08)(10)(17)により、
(18)
例へば、
⑥ 只‐管要。⇔
⑦ ヒタスラ 我ガ ヤツカイニナル。
といふ「中国語日本語読み」の場合は、
① 悪称人之悪者。⇔
① 悪{称(人之悪)者}。⇔
②{(人之悪)称者} 悪。⇔
②{(人の悪)称する者を}悪む。⇔
②{(他人の悪いところ)を言ひたてる者}を憎む。
といふ「漢文訓読」とは異なり
⑦「原文補足構造」を「保存した形」で行はれる、「中国語の、逐語訳」である。
といふことに、ならない
然るに、
(19)
話し言葉に基づく白話文は、本来訓読には適していない(実際、現在では白話文の訓読はほとんど行われない)。しかし江戸時代、白話文は訓読されていた(勉誠出版、続「訓読」論、平成二二年、三三〇頁)。
従って、
(10)(18)(19)により、
(20)
⑥「語順異なればシンタックス異なる。」といふことは、
⑦「話し言葉に基づく白話文(中国語)」を「日本語に訳す」場合に於いては、「まさに、そうである」。
然るに、
(21)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(22)
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
荻生徂徠先生も、青木正児先生も、倉石武四郎先生も、
⑥「語順が異なれば、シンタックスも異なる。」といふことは、
⑦「話し言葉に基づく白話文(中国語)」を「日本語に訳す」場合に於いては、「まさに、そうである」。
といふことに、気付いてはゐなかった
それ故、
(24)
不幸なことに、そのことに気付かない、彼等(三先生)が、「主流派」になったがために、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。ことになる。
従って、
(01)~(24)により、
(25)
⑧ 中國以北京語為國語矣。然、若北京語非漢文也。是以、中國語直読法雖盛、中華人民共和國語、不可以書中夏之書審矣。如日本之学生有欲能書漢文者、則宜以括弧学其管到。古、漢文之於日本語、猶古文之於日本語也。故、漢文亦日本語也。学中國語、莫若音読、学漢文、莫若以訓読学之。⇔
⑧ 中國以(北京語)為(國語)矣。然、若(北京語)、非(漢文)也。是以、中國語直読法雖(盛)中華人民共和國語不[可〔以書(中夏之書)〕]審矣。如日本之学生有[欲〔能書(漢文)〕者]則宜〔以(括弧)学(其管到)〕。古、漢文之於(日本語)、猶〔古文之於(日本語)〕也。故、漢文亦日本語也。学(中國語)、莫〔若(音読)〕、学(漢文)、莫[若〔以(訓読)学(之)〕]。⇔
⑨ 中國(北京語)以(國語)為矣。然、(北京語)若、(漢文)非也。是以、中國語直読法(盛)雖中華人民共和國語[〔以(中夏之書)書〕可]不審矣。如日本之学生[〔能(漢文)書〕欲者]有則宜〔(括弧)以(其管到)学〕。古、漢文之(日本語)於、猶〔古文之(日本語)於〕也。故、漢文亦日本語也。(中國語)学、〔(音読)若〕莫、(漢文)学、[〔(訓読)以(之)学〕若]莫。⇔
⑨ 中國は北京語を以て國語と為せり。然れども、北京語の若きは漢文に非ざるなり。是を以て、中國語直読法は盛んなりと雖も、中華人民共和國語は以て中華の書を書く可から不ること審かなり。如し日本の学生に能く漢文を書かむと欲する者有らば則ち、宜しく『括弧』を以て其の『管到Scope)』を学ぶべし。古へ、漢文の日本語に於けるや、猶ほ古文の日本語のごときなり。故に、漢文も亦た日本語なり。中國語を学ぶは、音読に若くは莫く、漢文を学ぶは、訓読を以て之を学ぶに若くは莫し。
と、(門外漢である)私は、言ひたい。