日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(1303)「父母の年」の「管到」について。

2023-05-29 17:43:14 | 返り点、括弧。

(01)
① 父母之年、不可不知也=
① 父母之年、不知也=
① 父母之年、不[可〔不(知)〕]也⇒
① 父母之年、[〔(知)不〕可]不也=
① 父母の年は[〔(知ら)不る〕可から]不る也=
① 父母の年を[〔(知ら)ないといふことは〕あってはなら]ない(論語 里仁第四の二十一)。
然るに、
(02)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
然るに、
(03)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(04)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 父母之年、不知也。
といふ「返り点」は、
① 父母之年、不可不知也。
といふ「漢文」の、
① 父母之年、不[可〔不(知)〕]也。
といふ「管到(補足構造)」を示してゐる。
然るに、
(06)
数学嫌いであろうと、子供であろうと、だれでも「父と母の年齢」というと、
「父の年齢と母の年齢」と同じ意味だとわかっている。当たり前のこととして、
気にもかけないかも知れない。実はこれは
(父と母)の年齢=(父の年齢)と(母の年齢)
というように分配法則そのものなのだ。
(a+b)×c=ac+bc
という式を理解できない人でも、「父と母の年齢?」と聞かれたら数を二つ言うに違いない。
(小谷善行、ことばの数理千夜一夜、2021年、8頁)
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① 父母之年、不可不知也。
といふ「漢文」には、
②(父母)之年、不[可〔不(知)〕]也。
といふ「管到(スコープ)」が有るものの、
②(父母)之年
に関しては、「補足構造」でなく、「並列構造+被修飾構造」であって、
「並列構造+被修飾構造」の「語順」は、「日本語の語順」と「同じ」であるが故に、
②(父母)之年=(父母)の年
といふ「管到(スコープ)」に対しては、「返り点」が付かない。
然るに、
(08)
① (a+b)×c=ac+bc
だけでなく、
② c×(a+b)=ac+bc
であっても、「分配法則」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 父母之年、不可不知也。
といふ「語順」だけなく、
② 年之父母、不可不知也。
といふ「語順」が有っても、良いはずであって、その場合は、
② 年父母、不知也。
といふ「返り点」が付く。
といふ、ことになる。


(1056)「返り点(括弧)」と「中国語(白話文)」。

2022-04-06 12:07:08 | 返り点、括弧。

(01)

cf.
① 告げざる可からず。
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
③ 鳥獣は、これと与に群れを同じくする可からず。
④ 外人の為に言ふに足らざるなり。
⑤ 耕す者、益々急ならざる可からず。
⑥ 己にご如からず者を友とすること無かれ。
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し。
⑧ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも愚人の知る所と為さずんばあらざるなり。
⑨ 曽子の母、子の人を殺さ不るを知ら不るに非ざるなり。
⑩ 籍をして誠に子を畜ひ寒さを憂れふるを以て心を乱さず財有りて以て薬を剤さ使む。
⑪ 之を取らんと欲す。
⑫ 之を取捨せんと欲す。
(02)


  従って、
(01)(02)により、
(03)
レ点(レ、一レ、上レ、甲レ)」は「不要」である。
然るに、
(04)


従って、
(04)により、
(05)
漢字」に『返り点』が「付く」といふことは、
返り点』に「漢字」が「付く」ことと「同じ」である。
然るに、
(06)
① 四[三〔二(一)〕]
② 三〔二(一)〕
③ 丁[丙〔二(一)乙(甲)〕]
④ 下[中〔二(一)上〕]
⑤ 四[三〔二(一)〕]
⑥ 下{中[三〔二(一)〕上]}
⑦ 下{四[三〔二(一)〕]上}
⑧ 三〔二(一)〕、五{四[三〔二(一)〕]}
⑨ 六〈五{四[三〔二(一)〕]}〉
⑩ 人{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]二(一)地(天)}
⑪ 三〔二(一)〕
⑫ 三〔二‐(一)〕
に於いて、
#( )⇒( )#
#〔 〕⇒〔 〕#
#[ ]⇒[ ]#
#{ }⇒{ }#
#〈 〉⇒〈 〉#
といふ「移動」を行ふと、
① [〔(一)二〕三]四
② 〔(一)二〕三
③ [〔(一)二(甲)乙〕丙]丁
④ [〔(一)二上〕中]下
⑤ [〔(一)二〕三]四
⑥ {[〔(一)二〕三上]中}下
⑦ {[〔(一)二〕三]四上}下
⑧ 〔(一)二〕三、{[〔(一)二〕三]四}五
⑨ 〈{[〔二(一)〕三]四}五〉六
⑩ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙(一)二(天)地}人
⑪ 〔(一)二〕三
⑫ 〔(一)二‐〕三
といふ「順番」になる。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
(ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ
(ⅱ)一 二 三 四 五 六
(ⅲ)上 中 下
(ⅳ)甲 乙 丙
(ⅴ)天 地 人
といふ『返り点』は、
(ⅰ)( )
(ⅱ)〔 〕
(ⅲ)[ ]
(ⅳ){ }
(ⅵ)〈 〉
といふ『括弧』に、相当する。
然るに、
(08)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )一二点で、{ }点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(08)により、
(09)
① { ( ) }
② 下 二 一 上
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)により、
(10)
③ { ( } )
④ 下 二 上 一
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(11)
① { ( ) }
③ { ( } )
に於いて、
① は、『括弧』であるが、
③ は、『括弧』ではない
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
「数学の式における( )一二点で、{ }点に相当するものと考えるとわかりやすい。」
とするならば、
② 下 二 一 上
 二  一
に於いて、
② は、『返り点』であるが、
④ は、『返り点』ではない
然るに、
(13)

従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 只管要
に付く、
 二  一
は、『括弧』ではない
然るに、
(15)
( { [ ) ] }
二 五 三 一 四
に於ける、
⑤ は、『括弧』ではなく、それ故、
⑥ は、『返り点』ではない
然るに、
(16)

従って、
(15)(16)により、
(17)
⑥ 端‐的看 這婆‐子的本‐事
⑥ 西門慶促‐忙促‐急儧造 不
に付く、
二 五 三 一 四
二‐ 五 三 一 四
は、『括弧』ではない
然るに、
(18)
「完全な口語表現」である「~出来」という方向補語も、こうした複雑な「返り点」が付けられることで何とか訓読される。」
とは言ふものの、
返り点』を付けることが出来ない「それ」は、『漢文』ではない
従って、
(14)~(18)により、
(19)
④ 只管要
⑤ 端‐的看 這婆‐子的本‐事
⑥ 西門慶促‐忙促‐急儧造 不
並びに、
⑦ 吃了不 多酒
等の「白話文(中国語)」は、『漢文』ではない


(1054)「返り点・括弧」と「(京都大学的)漢文音読・批判」。

2022-04-02 19:27:30 | 返り点、括弧。

―「昨日(令和04年04月01日)の記事」を書き直します。―
(01)
① 5{4[3〔2(1)〕]}
② 2(4[5{3〔1)〕]}
に於いて、
#( )⇒( )#
#〔 〕⇒〔 〕#
#[ ]⇒[ ]#
#{ }⇒{ }#
といふ「移動」を行ふと、
① {[〔(1)2〕3]4}5
② ([{〔1)2〕3]4}5
従って、
(02)
① {[〔( )〕]}
② ([{〔 )〕]}
を用ひることによって、
①5 4 3 2 1
②2 4 5 3 1
といふ「順番」を、
①1 2 3 4 5
②1 2 3 4 5
といふ「順番」に、「並び変へ(ソートする)」ることが出来る。
然るに、
(03)
「定義」により、
(ⅰ)( )
(ⅱ)〔 〕
(ⅲ)[ ]
(ⅳ){ }
に於いて、
(ⅰ)は『括弧』であって、
(ⅱ)の中に(ⅰ)が在るならば、(ⅱ)は『括弧』であり、
(ⅲ)の中に(ⅱ)が在るならば、(ⅲ)は『括弧』であり、
(ⅳ)の中に(ⅲ)が在るならば、(ⅳ)は『括弧』である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
[〔( )〕]
〔 〕]
に於いて、
① は『括弧』であるが、
② は『括弧』ではない
従って、
(04)により、
(05)
①#が「n+1より大きい数」を含んでゐるならば、そのときに限って、
①n+1<#>n(nは自然数。)
といふ「順番」を、『括弧』を用ひて、
①n<n+1<#
といふ「順番」に、「並び変へ(ソートする)」ることが出来ない
従って、
(05)により、
(06)
①12345  ②12354  ③12435  ④12453  ⑤12534  ⑥12543 
①13245  ②13254  ③13425  ④13452  ⑤13524  ⑥13542 
①14235  ②14253  ③14325  ④14352  ⑤14523  ⑥14532 
①15234  ②15243  ③15324  ④15342  ⑤15423  ⑥15432 
①21345  ①21354  ①21435  ①21453  ①21534  ①21543 
②23145  ②23154  ②23415  ②23451  ②23514  ②23541 
③24135  ③24153  ③24315  ③24351  ③24513  ③24531 
④25134  ④25143  ④25314  ④25341  ④25413  ④25431 
①31245  ①31254  ①31425  ①31452  ①31524  ①31542 
②32145  ②32154  ②32415  ②32451  ②32514  ②32541 
③34125  ③34152  ③34215  ③34251  ③34512  ③34521 
④35124  ④35142  ④35214  ④35241  ④35412  ④35421 
①41235  ①41253  ①41325  ①41352  ①41523  ①41532 
②42135  ②42153  ②42315  ②42351  ②42513  ②42531 
③43125  ③43152  ③43215  ③43251  ③43512  ③43521 
④45123  ④45132  ④45213  ④45231  ④45312  ④45321 
①51234  ①51243  ①51324  ①51342  ①51423  ①51432 
②52134  ②52143  ②52314  ②52341  ②52413  ②52431 
③53124  ③53142  ③53214  ③53241  ③53412  ③53421 
④54123  ④54132  ④54213  ④54231  ④54312  ④54321
といふ「5!=5×4×3×2×1=120通り」に於ける、
④12453  ③13425  ④13452  ⑤13524  ⑥13542  ②14253 
④14352  ⑤14523  ⑥14532  ④15342  ①21453  ②23145 
②23154  ②23415  ②23451  ②23514  ②23541  ③24135 
③24153  ③24315  ③24351  ③24513  ③24531  ④25134 
④25143  ④25314  ④25341  ④25413  ④25431  ①31425 
①31452  ①31524  ①31542  ②32415  ②32451  ②32514 
②32541  ③34125  ③34152  ③34215  ③34251  ③34512 
③34521  ④35124  ④35142  ④35214  ④35241  ④35412 
④35421  ①41253  ①41352  ①41523  ①41532  ②42153 
②42315  ②42351  ②42513  ②42531  ③43152  ③43251 
③43512  ③43521  ④45123  ④45132  ④45213  ④45231 
④45312  ④45321  ①51342  ②52314  ②52341  ②52413 
②52431  ③53142  ③53241  ③53412  ③53421  ④54231
といふ「78通り」に対しては、『括弧』を加へることが出来ず
①12345  ②12354  ③12435  ⑤12534  ⑥12543  ①13245 
②13254  ①14235  ③14325  ①15234  ②15243  ③15324 
⑤15423  ⑥15432  ①21345  ①21354  ①21435  ①21534 
①21543  ①31245  ①31254  ②32145  ②32154  ①41235 
①41325  ②42135  ③43125  ③43215  ①51234  ①51243 
①51324  ①51423  ①51432  ②52134  ②52143  ③53124 
③53214  ④54123  ④54132  ④54213  ④54312  ④54321
といふ「(42-1=41通り」に対しては、
①12345
②1235(4)
③124(3)5
⑤125(34)
⑥125〔4(3)〕
①13(2)45
②13(2)5(4)
①14(23)5
③14〔3(2)〕5
①15(234)
②15〔24(3)〕
③15〔3(2)4〕
⑤15〔4(23)〕
⑥15[4〔3(2)〕]
①2(1)345
①2(1)35(4)
①2(1)4(3)5
①2(1)5(34)
①2(1)5〔4(3)〕
①3(12)45
①3(12)5(4)
②3〔2(1)〕45
②3〔2(1)〕5(4)
①4(123)5
①4〔13(2)〕5
②4〔2(1)3〕5
③4〔3(12)〕5
③4[3〔2(1)〕]5
①5(1234)
①5〔124(3)〕
①5〔13(2)4〕
①5〔14(23)〕
①5[14〔3(2)〕]
②5〔2(1)34〕
②5〔2(1)4(3)〕
③5〔3(12)4〕
③5[3〔2(1)〕4]
④5〔4(123)〕
④5[4〔13(2)〕]
④5[4〔2(1)3〕]
④5[4〔3(12)〕]
④5{4[3〔2(1)〕]}
といふ風に、『括弧』を加へることが出来る
然るに、
(07)



(08)


cf.
① 告げざる可からず。
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
③ 鳥獣は、これと与に群れを同じくする可からず。
④ 外人の為に言ふに足らざるなり。
⑤ 耕す者、益々急ならざる可からず。
⑥ 己にご如からず者を友とすること無かれ。
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し。
⑧ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも愚人の知る所と為さずんばあらざるなり。
⑨ 籍をして誠に子を畜ひ寒さを憂れふるを以て心を乱さず財有りて以て薬を剤さ使む。
従って、
(07)(08)により、
(09)
例へば、
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
といふ「レ点」は、
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 中 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
といふ「返り点」に「等しい」。
従って、
(09)により、
(10)
(ⅰ)一 二 三 四 五
(ⅱ)甲 乙 丙 丁
(ⅲ)上 中 下
(ⅳ)天 地 人
といふ「返り点」で、「不足」が生じない限り、
(ⅴ)レ
(ⅵ)一レ 上レ 甲レ 天レ
は「不要」である。
然るに、
(11)
① 四[三〔二(一)〕]
② 三〔二(一)〕
③ 丁[丙〔二(一)乙(甲)〕]
④ 下[中〔二(一)上〕]
⑤ 四[三〔二(一)〕]
⑥ 下{中[三〔二(一)〕上]}
⑦ 下{四[三〔二(一)〕]上}
⑧ 三〔二(一)〕、五{四[三〔二(一)〕]}
⑨ 人{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]二(一)地(天)}
に於いて、
#( )⇒( )#
#〔 〕⇒〔 〕#
#[ ]⇒[ ]#
#{ }⇒{ }#
といふ「移動」を行ふと、
① [〔(一)二〕三] 四
② 〔(一)二〕三
③ [〔(一)二(甲)乙〕丙]丁
④ [〔(一)二上〕中]下
⑤ [〔(一)二〕三]四
⑥ {[〔(一)二〕三上]中}下
⑦ {[〔(一)二〕三]四上}下
⑧ 〔(一)二〕三、{四[〔(一)二〕三]}五
⑨ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙(一)二(天)地}人
従って、
(07)~(11)により、
(12)
(ⅴ)レ
(ⅵ)一レ 上レ 甲レ 天レ
を含む「返り点」は、
(ⅰ)一 二 三 四 五
(ⅱ)甲 乙 丙 丁
(ⅲ)上 中 下
(ⅳ)天 地 人
に「置き換へ」ることが出来、
(ⅰ)一 二 三 四 五
(ⅱ)甲 乙 丙 丁
(ⅲ)上 中 下
(ⅳ)天 地 人
であれば、
(ⅰ)( )
(ⅱ)〔 〕
(ⅲ)[ ]
(ⅳ){ }
に「置き換へ」ることが出来る。
従って、
(05)(12)により、
(13)
「返り点」は、例へば、
        ②12354  ③12435  ⑤12534  ⑥12543  ①13245 
②13254  ①14235  ③14325  ①15234  ②15243  ③15324 
⑤15423  ⑥15432  ①21345  ①21354  ①21435  ①21534 
①21543  ①31245  ①31254  ②32145  ②32154  ①41235 
①41325  ②42135  ③43125  ③43215  ①51234  ①51243 
①51324  ①51423  ①51432  ②52134  ②52143  ③53124 
③53214  ④54123  ④54132  ④54213  ④54312  ④54321
といふ「順番」にしか、着かない。
従って、
(13)により、
(14)
「漢文」と「訓読」の「語順」は、『規則正しく異なる』のであって、
「不規則(ランダム)に異なる」といふわけではない。
然るに、
(15)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
例へば、
⑨ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱心有銭財以済医薬=
⑨ 使籍誠不妻子飢寒甲レ心有銭財以済医薬
⑨ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(心)]有(銭財)以済(医薬)}⇒
⑨ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑨ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
に於ける、
⑨{[〔( )( )〕( )]( )( )}
といふ「括弧」は、
⑨ 人 乙 下 二 一 中 上 甲レ 二 一 地 天
といふ「返り点」の「役割」を果たしていて、それと「同時」に、
⑨ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」の『補足構造』を表してゐる。
然るに、
(17)


然るに、
(18)
私は、中国語が一切、分からないものの、
【 】内都是「使」的内容,( )内是「乱心」的原因。
といふことは、
【 】の中は全て、「使」の内容であり、
( )の中は「乱心」の原因である。
といふ「意味」であるに、違ひない。
従って、
(17)(18)により、
(19)
私も、王赟 Maigoさんも、二人とも、「事実」として、
⑨ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」の『補足構造』を、
⑨ 使【籍誠不以(畜妻子、憂飢寒)乱心有銭財以済医薬)】。
といふ風に、捉へてゐる。
然るに、
(20)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
⑨ 使【籍誠不以(畜妻子、憂飢寒)乱心有銭財以済医薬)】。
といふ『補足構造(管到)』を「把握」しない限り、
⑨ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」を「読めない(理解できない)」といふことに関しては、日本人であっても、中国人であっても、「同じこと」である。
然るに、
(23)
⑨ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」を、
(ⅰ)籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て心を乱さず銭財有りて以て医薬を済さ使む。
(ⅱ)Shǐ jí chéng bù yǐ chù qīzi yōu jīhán luànxīn yǒu cái qián yǐ jì yīyào.
(ⅲ)シセキセイフイチクサイシユウキカンランシンユウセンザイイサイイヤク。
を(ⅰ)のやうに「読む」のであれば、『補足構造・管到』を「把握」してゐることになるが、
 (ⅱ)のやうに「読ん」だとしても、
 (ⅲ)のように「読ん」だとしても、『補足構造・管到』を「把握」してゐるとは、限らない
加へて、
(24)
今の言語と昔の言語は、お互いにわけのわからない外国語と同じようになっているということです。つまり、今の中国の学者といえども、日本の学者と同じように、古言を理解することは、外国語を理解することと同じくらい、難しいことなのです(山泰幸、江戸の思想闘争、2019年、97頁)。
(25)
自然言語の外国人向けの教科書は、まず「こんにちは!」「ありがとう」のような簡単な言葉(ネイティブスピーカーの子供でもわかる言葉)から入る。いっぽう、漢文は自然言語ではなかった。また「聞いて話す」音声言語ではなく、「読んで書く」ための書記言語である。漢字の習得者だけが、漢文を学習できる。「ネイティブライター」は原理的に存在できない。― 中略 ―、「ネイティブライター」が存在できないという点では、中国人も外国人も平等である(加藤徹 著、白文後略 漢文一人学び、2013年、8・9頁)。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
「漢文」を読めるようになる上で、「日本語の話者」よりも、「北京語(普通話)の話者」の方が「有利」である。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(27)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
従って、
(26)(27)により、
(28)
私自身は、京都大学による、「現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。」
といふ「方法」が、「有意義」であるとは、思へない。


(976)『括弧』と『返り点』と「補足構造」。

2021-09-20 16:37:06 | 返り点、括弧。

(01)
① 読(漢文)。
に於いて、
① 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)を読む。
然るに、
(02)
② 文(読〔漢)〕。
に於いて、
② 文( )⇒( )文
② 読〔 〕⇒〔 〕読
といふ「移動」を行ふと、
② 文(読〔漢)〕⇒
② (〔漢)文〕読=
② (〔漢)文を〕読む。
然るに、
(03)
① 読漢文
② 文
であれば、
① 漢文を読む。
② 漢を読む。
である。
然るに、
(04)
① 読(漢文)。
② 文(読〔漢)〕。
に於いて、
①( )  は、『括弧』であるが、
②(〔 )〕は、『括弧』ではないし、
① 読漢文
② 文
に於いて、
①「二 一」  は、『返り点』であるが、
②「二 三 一」は、『返り点』ではないし、
固より、
① 読漢文(Dú hànwén)。
② 文読漢(wén dú hàn)。
に於いて、
① は、「漢文」であるが、
② は、「デタラメ」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 読漢文
① 読(漢文)。
といふ『括弧』が、そうであるやうに、『括弧』は、「返り点の役割」を果たすものと、思はれる。
然るに、
(06)
通常の包含関係に従って甲乙点を打った後、その外側で四つの返り点が必要になったら、どうするのでしょうか。天地人点(の三つ) では足りません。その場合も、やはり、次のやうに、甲乙点と天地人点の順序逆転させるしかないのです。そのような例を一つ示しましょう。根気のよい方は、訓読に従って字を逐ってみてください。あまりの複雑さゆえに嫌気のさす方は、読み飛ばしても結構です。

何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは、東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる。

何不人謂韓公叔秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不周地質使上レ楚、秦必疑楚、不周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
(これならわかる返り点、古田島洋介、九一頁改)
然るに、
(07)
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
に於いて、
② □〈 〉⇒〈 〉□
② □{ }⇒{ }□
② □[ ]⇒[ ]□
② □〔 〕⇒〔 〕□
② □( )⇒( )□
といふ「移動」を行ふと、
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉⇒
② 何〈{人(韓公叔)謂[秦之敢(周)絶而(韓)伐者、(東周)信也、公何〔(周地)与(質使)発(楚)之〕不、秦必(楚)疑、〔(周)信〕不、是韓(伐)不也]曰、又(秦)謂、[韓彊(周地)与、将〔以(周於秦)疑〕也、周〔敢(受)不〕不]曰}令〉不=
② 何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 二 一 三 二 一 乙 甲レ
といふ『返り点』は、
②〈 { ( )[ ( )( )( )〔 ( )( )( ) 〕( )〔 ( ) 〕( ) ]( )[ ( )〔 ( ) 〕〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ『括弧』に、「置き換へる」ことが出来る。
従って、
(08)により、
(09)
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
のやうに、「極端に長い、ワンセンテンスの漢文」であっても、
〈 { [ 〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ、「五組の括弧」があれば、「十分」である。
従って、
(09)により、
(10)
(ⅰ)〈 〉{ }[ ]〔 〕( )
といふ『括弧』は、
(ⅰ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
(ⅱ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
(ⅲ)上 中 下
(ⅳ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(ⅴ)天 地 人
といふ『返り点』を、「カバーする」。
然るに、
(11)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(07)(11)により、
(12)
① 読(漢文)。
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
に於ける、
①( )
②〈 { ( )[ ( )( )( )〔 ( )( )( ) 〕( )〔 ( ) 〕( ) ]( )[ ( )〔 ( ) 〕〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ『括弧』は、
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(13)
「逆」に言へば、
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に、「補足構造」があるのであれば、「二つの漢文」には、
①( )
②〈 { ( )[ ( )( )( )〔 ( )( )( ) 〕( )〔 ( ) 〕( ) ]( )[ ( )〔 ( ) 〕〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ『括弧』がある。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に、
①( )
②〈 { ( )[ ( )( )( )〔 ( )( )( ) 〕( )〔 ( ) 〕( ) ]( )[ ( )〔 ( ) 〕〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造(括弧)」がある。
といふことは、飽くまでも、「漢文」自体の「性格」である
従って、
(01)(07)(14)により、
(15)
① 漢文を読む。
② 何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは、東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる。
といふ風に、「訓読」をしようと、
① Dú hànwén.
② hébù lìng rén wèi hángōngshū yuē qín zhī gǎn jué zhōu ér fá hán zhě xìn dōngzhōu yě gōng hébù yǔ zhōu de fā zhì shǐ zhī chǔ qín bì yí chǔ bùxìn zhōu shì hán bù fá yě yòu wèi qín yuē hán jiàng yǔ zhōu de jiāng yǐ yí zhōu yú qín yě zhōu bù gǎn bù shòu.
といふ風に、「音読」をしようと、
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ風に、「音読」をしようと、「これらの、二つの漢文」には、
① 読(漢文)。
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
然るに、
(16)
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」を、
① Dú hànwén.
② hébù lìng rén wèi hángōngshū yuē qín zhī gǎn jué zhōu ér fá hán zhě xìn dōngzhōu yě gōng hébù yǔ zhōu de fā zhì shǐ zhī chǔ qín bì yí chǔ bùxìn zhōu shì hán bù fá yě yòu wèi qín yuē hán jiàng yǔ zhōu de jiāng yǐ yí zhōu yú qín yě zhōu bù gǎn bù shòu.
といふ風に、「音読」出来たとしても、「これらの漢文」の、
① 読(漢文)。
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」出来るわけではない。
然るに、
(17)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(18)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
(19)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(16)~(19)により、
(20)
私としては、「大学の、漢文の先生」に対して、
① 読漢文。
② 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に於ける、
① 読(漢文)。
② 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ『括弧(補足構造)』を、どのやうに「評価」するのかといふことを、機会があれば、質問をしてみたい。


(961)「漢文」に「括弧(管到・補足構造)」は有ります(Ⅱ)。

2021-08-25 13:53:53 | 返り点、括弧。

(01)
例へば、
① 非無不欲爲聖明除弊事者=
① 非〈無{不[欲〔爲(聖明)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、
① 非〈 〉⇒〈 〉非
① 無{ }⇒{ }無
① 不[ ]⇒[ ]不
① 欲〔 〕⇒〔 〕欲
① 爲( )⇒( )爲
① 除( )⇒( )除
といふ「移動」を行ふと、
① 非〈無{不[欲〔爲(聖明)除(弊事)〕]者}〉⇒
① 〈{[〔(聖明)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非=
① 〈{[〔(聖明の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず=
① 聡明な天子の爲に、弊害を除くことを望む者がゐない、といふわけではない。
然るに、
(02)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓除では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 弊事ひとり学び、2013年、143頁)。
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓除は、国語の語順に置きかえて除むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と弊事、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 非〈無{不[欲〔爲(聖明)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
①  〈 { [ 〔 (  ) (  )〕] }〉
といふ『括弧』は、
① 非無不欲爲聖明除弊事者。
といふ『漢文』に於ける、『管到』を表してゐて、『管到』とは、すなはち、『補足構造』である。
然るに、
(05)

然るに、
(06)
① 九 八 六 五 二 一 四 三 七=
① 九〈八{六[五〔二(一)四(三)〕]七}〉。
に於いて、
① 九〈 〉⇒〈 〉九
① 八{ }⇒{ }八
① 六[ ]⇒[ ]六
① 五〔 〕⇒〔 〕五
① 二( )⇒( )一
① 四( )⇒( )四
といふ「移動」を行ふと、
① 九〈八{六[五〔二(一)四(三)〕]七}〉⇒
① 〈{[〔(一)二(三)四〕五]六七}八〉九=
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 非 聖人 弊事
② 非 聖明 弊事
③ 非 聖明 弊事
に於ける、
① レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
② 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
③ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
①〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
といふ『返り点』と『括弧』は、
① 非無不欲爲聖明除弊事者。
といふ『漢文』に於ける、『管到』を表してゐて、『管到』とは、すなはち、『補足構造』である。


(960)「漢文」に「括弧(管到・補足構造)」は有ります。

2021-08-23 16:30:21 | 返り点、括弧。

(01)
① 無人不道看花回=
① 無人不一レ花回
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}⇒
① {人[〔(花)看回〕道]不}無=
① {人として[〔(花を)看て回ると〕道は]不るは}無し=
① どんな人も、花を見て帰るところだと言わないものは無い(孟棨・本事詩)。
(02)
② 無人不道看花回=
② 無人不花回
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]⇒
② (人)無[〔(花)看回〕道]不=
② (人)無くんば[〔(花を)看て回ると〕道は]不=
② 人がいなければ、花を見て帰るとは言わない(作例)。
然るに、
(03)
① どんな人も、花を見て帰るところだと言わないものは無い(孟棨・本事詩)。
② 人がいなければ、花を見て帰るとは言わない(作例)。
に於いて、
①=② ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(05)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
『管到』が異なるが故に、
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}⇔ 人として花を看て回ると道は不るは無し。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]⇔ 人無くんば、花を看て回ると道は不。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
に於ける、
① 無{人不[道〔看(花)回〕]}。
② 無(人)不[道〔看(花)回〕]。
といふ、『括弧』は、すなはち、『補足構造』であり、『補足構造』は、すなはち、『管到』である。
従って、
(08)により、
(09)
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
といふ「漢文」に、『補足構造・管到』があるのであれば、
① 無人不道看花回。
② 無人不道看花回。
といふ「漢文」は、
①  {  [ 〔 ( ) 〕]}。
②  ( ) [ 〔 ( ) 〕]。
といふ『括弧』が、有ることになる。


(868)「返り点」と「括弧」と「述語論理」と「漢文訓読」と「京大の漢文」。

2021-04-19 11:42:09 | 返り点、括弧。

 ―「昨日(令和03年04月18日)の記事」を書き直します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
 3(3)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
 3(4)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
 3(5)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  4ド・モルガンの法則
 3(6)     弟子a                5&E
 3(7)         ~∃y(師ya&a<y)  5&E
 3(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7量化子の関係
 3(9)           ~(師ba&a<b)  8UE
 3(ア)            ~師ba∨a≧b   9ド・モルガンの法則
 3(イ)             師ba→a≧b   ア含意の定義
 3(ウ)          ∀y(師ya→a≧y)  イUI
 3(エ)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  6ウ&I
 3(オ)   ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
 2(2)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  A
 2(3)      弟子a               2&E
 2(4)          ∀y(師ya→a≧y)  2&E
 2(5)             師ba→a≧b   4UE
 2(6)            ~師ba∨a≧b   5含意の定義
 2(7)           ~(師ba&a<b)  6ド・モルガンの法則
 2(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7UI
 2(9)         ~∃y(師ya&a<y)  8量化子の関係
 2(ア)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  39&I
 2(イ)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
 2(ウ)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
 2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
②   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
①   y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
②   ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
①  ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②    ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
  「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②     ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②      弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②      弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
②  [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
②     弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
②   [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
 3(3)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
 3(4)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
 3(5)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  4ド・モルガンの法則
 3(6)     弟子a                5&E
 3(7)         ~∃y(師ya&a<y)  5&E
 3(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7量化子の関係
 3(9)           ~(師ba&a<b)  8UE
 3(ア)            ~師ba∨a≧b   9ド・モルガンの法則
 3(イ)             師ba→a≧b   ア含意の定義
 3(ウ)          ∀y(師ya→a≧y)  イUI
 3(エ)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  6ウ&I
 3(オ)   ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生(https://bit.ly/2XRhhPa)
もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不必不一レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ括弧の用法」に、気付いてゐることになる
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物上レ其已知之理益々極之以求上レ乎其極
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物上レ其已知之理益々極之以求上レ乎其極
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二  一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年目(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使 學者即 凡天下之物上レ 其已知之理益々極 之以求上レ 乎其極
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。


(868)「返り点」と「括弧」と「述語論理」と「漢文訓読」と「京大の漢文」。

2021-04-19 11:42:09 | 返り点、括弧。

 ―「昨日(令和03年04月18日)の記事」を書き直します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
 3(3)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
 3(4)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
 3(5)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  4ド・モルガンの法則
 3(6)     弟子a                5&E
 3(7)         ~∃y(師ya&a<y)  5&E
 3(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7量化子の関係
 3(9)           ~(師ba&a<b)  8UE
 3(ア)            ~師ba∨a≧b   9ド・モルガンの法則
 3(イ)             師ba→a≧b   ア含意の定義
 3(ウ)          ∀y(師ya→a≧y)  イUI
 3(エ)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  6ウ&I
 3(オ)   ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
 2(2)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  A
 2(3)      弟子a               2&E
 2(4)          ∀y(師ya→a≧y)  2&E
 2(5)             師ba→a≧b   4UE
 2(6)            ~師ba∨a≧b   5含意の定義
 2(7)           ~(師ba&a<b)  6ド・モルガンの法則
 2(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7UI
 2(9)         ~∃y(師ya&a<y)  8量化子の関係
 2(ア)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  39&I
 2(イ)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
 2(ウ)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
 2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
②   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
①   y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
②   ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
①  ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②    ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
  「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
②     ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
②   [ 〔 ( ) 〕]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
 3(3)  ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
 3(4)  ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
 3(5)     弟子a&~∃y(師ya&a<y)  4ド・モルガンの法則
 3(6)     弟子a                5&E
 3(7)         ~∃y(師ya&a<y)  5&E
 3(8)         ∀y~(師ya&a<y)  7量化子の関係
 3(9)           ~(師ba&a<b)  8UE
 3(ア)            ~師ba∨a≧b   9ド・モルガンの法則
 3(イ)             師ba→a≧b   ア含意の定義
 3(ウ)          ∀y(師ya→a≧y)  イUI
 3(エ)      弟子a&∀y(師ya→a≧y)  6ウ&I
 3(オ)   ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ)   ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生(https://bit.ly/2XRhhPa)
もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不必不一レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ括弧の用法」に、気付いてゐることになる
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物上レ其已知之理益々極之以求上レ乎其極
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物上レ其已知之理益々極之以求上レ乎其極
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二  一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使 學者即 凡天下之物上レ 其已知之理益々極 之以求上レ 乎其極
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。


(867)「括弧」と「返り点」と「漢文・縦横書き」と「インデント」(Ⅱ)。

2021-04-15 17:47:22 | 返り点、括弧。

―「先程の記事(令和03年04月15日)」を補足します。―
(01)
「漢文・縦横書き」と「インデント」を説明するための「例文(作例)」としては、
① 非無不欲爲聖人除弊事者。
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
であれば、
② の方が「相応しい」。
(02)
① 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ひ、「平仮名」を加へると、
①〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
然るに、
(03)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必    中文
        解  法
       以
             漢文
            解
      求
        不         者
   非             也。
に於いて、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、
② 我必中文解法以漢文解求不者非也。
といふ「語順」、すなはち、
② 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
② 私は必ずしも中国語を理解する方法を用ひて漢文を理解しようとしない者ではないのである。
といふ「訓読の語順」で、「読む」ことになる。
然るに、
(04)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必    中文
        解  法
       以
             漢文
            解
      求
        不         者
   非             也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に関しては、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必    中文
        解  法
       以
             漢文
            解
      求
        不         者
   非             也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非 必不 中文 漢文也。
② 我非 必不 中文 漢文也。
に於ける、例へば、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
然るに、
(06)
② 我非 必不 中文 漢文也。
③ 我非 必不 中文 漢文 也。
に於ける、
② 間 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 人
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
に於いて、
②=③ ではない
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 我非 必不 中文 漢文 也。
の場合は、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読む」。
といふ「ルール」が無い
従って、
(08)
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
である所の、「返り点」の場合は、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読み」、
⑥ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑥ の左の一字を「読む」。
といふ「単純極まりない、ルール」が無い
従って、
(07)(08)により、
(09)
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
といふ「括弧」と、
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「返り点」に於いて、
「 括弧のルール 」の方が、
「返り点のルール」よりも、「単純であって、分かり易い」。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった。一二点で返ったものを含めて返る必要がある時に上中下点を用いるのは、数学で( )の次に{ }を用いるのと似ている。数式は必ずしも{( )}の形にしなくてもよい。(( ))の形であってもその機能は同じである。そして{ }の次に用いる括弧がないから、数学の式を危機管理能力のない非論理的な体系だとは誰も言わない。高等数学ではどのようになっているのか私は詳しいことはわからないが、{ }を用いるのは数式が人間にとって認識しやすく便利だからという理由に過ぎないのではないか。パソコンに計算させるのなら( )いくら重ねても問題ないのだから(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(11)
一二点だけの返り点」は、「過去にはあったが、今はない。」といふことは、「読みにくいので、淘汰された。」とすべきである。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「人間にとって認識しやすく便利」といふ「機能」を考慮する限り、
(a)すべて一二点に変換すればいいのである。
(b)〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉ではなく、( ( ( ( ( )( ) ) ) ) )の形であってもその機能は同じである。
といふことには、ならない。
(13)
因みに、「プログラミングの分野では、プログラムの構造を見やすくするために制御構文の内側にある行などの先頭に一律に同じ幅の空白を挿入することをインデントという(IT用語辞典 e-Words)。」


(866)「括弧」と「返り点」と「漢文・縦横書き」と「インデント」。

2021-04-15 13:28:02 | 返り点、括弧。

(01)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
然るに、
(02)
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
に対して、「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無し。
⑥ 〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
といふ「訓読」になる。
然るに、
(03)



従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )( )〕]}
⑥ 〈{[〔( )( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読 漢文
② 使 我長 百獸
③ 欲 聖人 弊事
④ 使 我両君匪 玉帛 相見
⑤ 無 聖人 弊事
⑥ 非 聖人 弊事
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
といふ「返り点」に相当する。
然るに、
(05)
①  漢文を
  読む
といふ「それ」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、その場合は、
③ 漢文を読む。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
(06)
⑥          聖人の
          爲に
          弊事を
          除かんと
     欲せ
    不ざる     者
   無きに
  非ず。
といふ「それ」を、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読み、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読む。
とするならば、
⑩ 聖人の爲に弊事を除かんと欲せ不る者無きに非ず。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
例へば、
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
といふ「漢文」には、
⑥          聖人
          爲
          弊事
          除
     欲
    不              者
   無
  非
といふ「インデント(字下げ)」が、有ることになる。
従って、
(03)(07)により、
(08)
⑥ 非 聖人 弊事
⑦ 非 聖人 弊事
⑧ 非 聖人 弊事
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
といふ「返り点」と「括弧」は、4つとも、
⑥          聖人
          爲
          弊事
          除
     欲
    不             者
   無
  非
といふ「インデント(字下げ)」を示してゐる。
然るに、
(09)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合、「横書き」であれば、
① の中を「読み終へた」直後に、
① の左を「読み」、
② の中を「読み終へた」直後に、
② の左を「読み」、
③ の中を「読み終へた」直後に、
③ の左を「読み」、
④ の中を「読み終へた」直後に、
④ の上を「読み」、
⑤ の左を「読む」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合は、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
の中を「読み終へる」ごとに、そのときに限って、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(11)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)を挟んで返る場合に、
(Ⅱ)を用ひ、
(Ⅱ)を挟んで返る場合に、
(Ⅲ)を用ひ、
(Ⅲ)を挟んで返る場合に、
(Ⅳ)を用ひる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、少なくとも
(Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(13)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が加はることによって、その分、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が無い場合よりも、「インデント(字下げ)」が生じ方が、「複雑」になる。
然るに、
(14)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
の場合は、固より、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
だけので、少なくとも (Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
といふことが、一切、無い。
従って、
(14)により、
(15)
「一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。」
とは言ふものの、「一二点しか施していないもの」は、「インデントの見えにくさ」によって「淘汰」された。
と、すべきである。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
⑥ 非 聖人 弊事
⑦ 非 聖人 弊事
⑧ 非 聖人 弊事
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、「インデント(字下げ)の見やすさ」という「観点」から言ふならば、
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
といふ「順番」で「優れてゐる」。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「インデント見やすさ」といふ「観点」からすれば、
「返り点」よりも、「括弧」の方が、「優れてゐる」。


(865)「返り点」は難しく、「括弧」は易しい。

2021-04-14 21:41:09 | 返り点、括弧。

(01)

然るに、
(02)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不。
⑥ 〈{我〔(小節)羞〕不而[功名〔(于天下)顕〕不]恥}知〉不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(03)
「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕ずして[功名の〔(天下に)顕はれ〕ざるを]恥づるを}知ら〉ざればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「日本語」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の、「訓読」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
まず第一に、
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読 漢文
② 使 我長 百獸
③ 欲 聖人 弊事
④ 使 我両君匪 玉帛 相見
⑤ 不 以養一レ 人者甲レ 人。
⑥ 不 我不 小節 而恥 功名不上レ 于天下 也。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 下 二‐ 一レ 上 甲レ
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当する」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の補足構造」の、「両方」を、表してゐる。
従って、
(07)により、
(08)
「中国語」を全く知らない私が、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風に、「訓読」しようと、しまいと、
「訓読」をあまり知らない(?)京大の先生が、
⑥ Bùzhī wǒ bù xiū xiǎojié ér chǐ gōngmíng bù xiǎn yú tiānxià yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、しまいと、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」には、固より、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
cf.
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
⑥ 不 我不 小節 而恥 功名不上レ 于天下 也。
に於ける、
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」も、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」も、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、それと「同時に」、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の語順」の、両方を、「表してゐる」。
然るに、
(10)
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
がさうでるやうに、
(ⅰ)〈 〉の中には、一つ以上の{ }があって、
(ⅱ){ }の中には、一つ以上の[ ]があって、
(ⅲ)[ ]の中には、一つ以上の〔 〕があって、
(ⅳ)〔 〕の中には、一つ以上の( )があって、尚且つ、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕不して[功名の〔(天下に)顕はれ〕不るを]恥づるを}知ら〉不ればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(10)により、
(11)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 不〈
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 不 は、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
(12)
⑥ 知{
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 知 は、
⑥  {〔( )〕[〔( )〕]}
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
然るに、
(13)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(14)
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
には、それぞれ、
③ 下     中 上
    二 一
④ 下 中     上
      二 一
⑦ 庚 己       戊 丁 丙 乙 甲
      三 二 一
といふ「インデント(indent)」が、見て取れる。
のに対して、
③ 五 二 一 四 一
④ 五 四 二 一 三
⑦ 十 九 三 二 一 五 四 三 二 一
には、そのやうな「インデント」が、見られない。
従って、
(13)(14)により、
(15) 一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
とは言ふものの、「そのやうな一二点だけ」では、「読みにくい」が故に、「淘汰」されたと、すべきである。
然るに、
(16)
質問者:noname#100659質問日時:2005/11/20 01:10回答数:1件
漢文についてお聞きします。
(数字)は、返り点を表します。レ点はカタカナの(レ)で書きます。
漢文の教科書に次のような文章が出てきます。
例文は有名な朝三暮四です。

恐(2)衆狙之不(1+レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
(読み下しは、衆狙の己に馴れざらんことを恐るるや、先づこれを誑きて曰く・・です。)

これなのですが、打ち方はこれ一通りと決まっていますか?
次のように打つと何がいけないのでしょうか?
同じように読めてしまうような気がするのですが・・。

恐(3)衆狙之不(レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。

上の打ち方だと何が問題でしょうか?
同じにはなりませんでしょうか?
然るに、
(01)により、
(17)
⑨ 二 一レ 二 一
⑩ 四 三  二 一
に於いて、
⑨=⑩ である。
(18)
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ  二 一
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
であっても、
⑥=⑦ であるが、
⑥ よりも、
⑦ の方が、明らかに、「読み易い」。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
である所の、「返り点」は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
という「レ点」があるが故に、「読みにくい」。
然るに、
(20)
専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである(二畳主人、漢文文法基礎、1972年、62頁)。
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
(22)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ風に書けば、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の「管到」が、「一目瞭然」であるし、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風には、読めない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「管到」を把握すること≒「訓読」をすること。
であるならば、「大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。」といふ風に、言ってゐる先生たちも、二畳主人が言ってゐるやうに、あるいは、「専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。」 といふことは、「正しい」のかも、知れない。


(801)「括弧」と「返り点」と「補足構造」。

2021-01-14 17:39:00 | 返り点、括弧。

(01)
① 読漢文=
① 読(漢文)。
に於いて、
① 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① 読漢文=
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
といふ「国語」を、得ることが出来る。
(02)
② 読文漢=
② 読〔文(漢)〕。
に於いて、
② 文( )⇒( )文
② 読〔 〕⇒〔 〕読
といふ「移動」を行ふと、
② 読文漢=
② 読〔文(漢)〕⇒
② 〔(漢)文〕読=
② 〔(漢)文を〕読む。
といふ「国語」を、得ることが出来る。
(03)
③ 文読漢=
③ 文(読〔漢)〕。
に於いて、
② 文( )⇒( )文
② 読〔 〕⇒〔 〕読
といふ「移動」を行ふと、
③ 文(読〔漢)〕⇒
③ (〔漢)文〕読=
③ (〔漢)文を〕読む。
といふ「国語」を、得ることが出来る。
然るに、
(04)
① Read English sentence.
に対して、
② Read sentence English.
③ Sentence read English.
といふ「英語の語順」が無いやうに、
① 読漢文
に対して、
② 読文漢

といふ「漢文の語順」は無い
然るに、
(05)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 読(漢文)。
① (漢文を)読む。
に於ける、
①( )
②( )
といふ「括弧」は、
①「漢文補足構造」であって、尚且つ、
②「国語補足構造」である。
然るに、
(07)
⑤ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
⑤ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
非〈 〉⇒〈 〉非
不{ }⇒{ }不
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふことによって、
⑤ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑤ 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑤ 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「訓読」を、得ることが出来る。
cf.

従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
⑤ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑤ 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
に於ける、
⑤{ [ 〔 ( )( ) 〕 ] }
⑤{ [ 〔 ( )( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
⑤「漢文補足構造」と、
⑤「国語補足構造」と、
⑤「漢文訓読語順」を、同時に、表してゐる
然るに、
(09)
管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
白文訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
が、「管到」、すなはち、「どこまでかかっているか」、すなはち、「補足構造」は、
⑤ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑤ 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑤ 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
のやうに、『括弧』で、表すことが、出来る。
然るに、
(11)
その所謂漢文は固より過去支那の文であって、今現に支那や満州国で行はれてゐる文章ではない
(塚本哲三、更訂 漢文解釈法、1942年、3頁)
(12)
ラテン語も英文も、同じローマ字で書いてありますが、だからとてラテン語と英文を同時に、同じ方法で学ぼうとするするのはムチャでしょう。中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです
(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)
(13)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
(14)
国語漢字と現代中国語のくいちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、そのことばが死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。
(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206頁)
(15)
普通文(読み)ふつうぶん
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
日本語の文章語の一つの文体。文語体の一種。漢文訓読の語法が基礎になって、擬古文や消息文の要素が加わり、漢字かな交りで書かれる。明治期に発達し広く使われるようになった。言文一致運動の影響で大正以後は次第に口語体に取って代られ、現在ではほとんど用いられない。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
漢文」を理解する上で、
日本語(普通文)」を知ってゐることは、「アドバンテージ」に、なり得ても、
中国語(普通話)」を知ってゐることは、「アドバンテージ」に、なりさうもない。
然るに、
(17)
例へば、
⑦ 是以當世之人無不學其學焉者無不有以知其性分之所固有職分之所當爲而各俛焉以盡其力。
といふ「漢文(白文)」を、
⑦ ゼイイトウセイシジンムフツガウキガクエンシャムフツユウイチキショウブンシショコユウショクブンシショウトウヰジカクイツエンイジンキリョク。
⑦ Shì yǐ dāng shì zhī rén wú bù xué qí xué yān zhě wú bù yǒu yǐ zhī qí xìng fēn zhī suǒ gùyǒu zhí fèn zhī suǒ dāng wèi ér gè fǔ yān yǐ jìn qí lì.
といふ風に、「音読」出来たとしても、
⑦ 是以當世之人、無〔不(學)〕、其學(焉)者、無《不〈有{以知[其性分之所(固有)、職分之所〔當(爲)〕]、而各俛焉以盡(其力)}〉》。
といふ「管到補足構造)」を、「把握出来るわけではない
cf.
是以當世之人、無學、其學焉者、無以知其性分之所固有職分之所當上レ爲、而各俛焉以盡其力
従って、
(17)により、
(18)
我々には、「音読をする」のではなく、「観察をする以外に、例へば、
⑦ 是以當世之人無不學其學焉者無不有以知其性分之所固有職分之所當爲而各俛焉以盡其力。
といふ「漢文」を、
⑦ 是を以て当世の人、学ばざるは無く、其の焉に学ぶ者は、以て其の性分の固有する所、職分の当に為すべき所を知りて、各〻の俛焉として以て其の力を尽すこと有らざるは無し。
といふ風に、「訓読」する「手段」は無い
然るに、
(19)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
荻生徂徠も、例へば、
⑦ 是以當世之人無不學其學焉者無不有以知其性分之所固有職分之所當爲而各俛焉以盡其力。
⑧ 蓋我朝之初建國也政體簡易文武一途擧海内皆兵而天子爲之元帥大臣大連爲之褊裨未嘗別置將帥也豈復有所謂武門武士者哉。
といふ「漢文」の、
⑦ 是以當世之人、無〔不(學)〕、其學(焉)者、無《不〈有{以知[其性分之所(固有)、職分之所〔當(爲)〕]、而各俛焉以盡(其力)}〉》。
⑧ 蓋我朝之初(建國)也、政體簡易文武一途、擧(海内)皆兵、而天子爲(之元帥)大臣大連爲(之褊裨)、未〔嘗別置(將帥)〕也。豈復有(所謂武門武士者)哉。
といふ「管到(補足構造)」を「把握」するには、「唯だ一双の眼」によって、「看る」しか無い(読書不如看書)。
といふ風に、言ってゐる。
然るに、
(21)
漢文は読む前に見ることが大切。パズルなんだから。パッと見る、そしてフィーリングというか、造形的センスというか、そこには美的な配列があることを見てとってほしい。そこからパズルが始まる。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、323・4頁)
従って、
(20)(21)により、
(22)
荻生徂徠先生だけでなく、二畳庵主人こと、加地伸行先生も、「漢文(白文)」の「管到(補足構造)」を「把握」するには、「唯だ一双の眼」によって、「看る」しか無い
といふ風に、言ってゐる。
然るに、
(23)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である。
(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)
従って、
(23)により、
(24)
中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者である、呂叔湘先生も、「漢文(文語体)」は、目で見なければわからない
と、言ってゐる。


(750)「述語論理・訓読」と「返り点(括弧)」と「漢文・訓読」。

2020-10-29 16:15:48 | 返り点、括弧。

(01)
記号で書けば、Rは、
  (3)∀x∀y(Rxy→~Ryx)
であるときまたそのときに限って非対称的である。
親であるという関係は非対称的である。なぜならば、aがbの親であるならば、bはaの親ではないからである。
(論理学初歩、E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、232頁)
従って、
(01)により、
(02)
例へば、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
に於いて、
②  親xy は、()に関する「命題関数」であって、
② ~親yx は、()に関する「命題関数」である。
従って、
(03)により、
(04)
実際には、
②  親xy といふ「命題関数」は、 親(xy) と書くのが「正しく」、
② ~親yx といふ「命題関数」は、~親(xy) と書くのが「正しい」。
然るに、
(05)
② ~親(xy) は、
②  親(xy) の、「否定」である。
従って、
(05)により、
(06)
実際には、
②  ~親(xy)  といふ「命題関数」は、
② ~〔親(xy)〕 と書くのが「正しい」。
然るに、
(07)
{xとy}の{変域(ドメイン)}が、
{a,b,c}の{3人}であるとすると、
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」は、
(ⅰ) (親xy→~親yx)
(ⅱ) (親xa→~親ax)&(親xb→~親bx)&(親xc→~親cx)
(ⅲ){(親aa→~親aa)&(親ab→~親ba)&(親ac→~親ca)}&
(〃){(親ba→~親ab)&(親bb→~親bb)&(親bc→~親cb)}&
(〃){(親ca→~親ac)&(親cb→~親bc)&(親cc→~親cc)}
といふ風に、「展開(expand)」出来る。
従って、
(07)により、
(08)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」は、
②    ∀y(親xy→~親yx)  といふ「連言」の、更に、
② ∀x{∀y(親xy→~親yx)} といふ「連言」である。
従って、
(08)により、
(09)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」には、実際には、
② ∀x{∀y(親xy→~親yx)}
といふ「括弧」が有る。
従って、
(04)(06)(09)により、
(10)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」には、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}
といふ「括弧」が、無ければならない
然るに、
(11)
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}
に於いて、
② ∀x{ }⇒{ }∀x
② ∀y[ ]⇒[ ]∀y
②  親( )⇒( )親
②  親( )⇒( )親
②  ~〔 〕⇒〔 〕~
といふ「移動」を行ふと、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}⇒
② {[(xy)親→〔(yx)親〕~]∀y}∀x=
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことになる。
然るに、
(12)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」に対して、
② ∀x∀y(親xy→~甲レyx
といふ「返り点」を加へるならば、
② ∀x{∀y[親(xy)→~〔親(yx)〕]}⇒
② {[(xy)親→〔(yx)親〕~]∀y}∀x=
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことになる。
然るに、
(01)(12)により、
(13)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」を、
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ風に、「理解」することは、
② 親であるという関係は非対称的である。なぜならば、aがbの親であるならば、bはaの親ではないからである。
② The relationship of being a parent is asymmetric. Since, if a is a parent of b, then b is not a parent of a.
といふことからも、「明らかに、正しい」。
然るに、
(14)
「英語」の場合は、
② ~親yx
といふ「語順」を、
② y is not a parent of x.
といふ「順番」で読むことになるため、(01)により、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
といふ「論理式」を書いた、「E.J.レモン(イギリス人)」であっても、
① ∀x∀y(Rxy→~Ryx)
といふ「人工言語」を、「そのまま、からへ、読んでゐる」といふわけではない
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
といふ「論理式」に対して、
② ∀x∀y(親xy→~上レyx
といふ「返り点」を加へることによって、
② {[(xがyの)親であるならば〔(yがxの)親で〕ない。といふことは]すべてのyと}すべてのxに於いて、正しい。
といふ「語順で読む」ことが、「邪道(正当ではない方法)」である。とされることは、ないはずである。
然るに、
(16)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(17)
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない。始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(18)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
「同じく、人工言語」であったとしても、「述語論理」とは異なり、例へば、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
③ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
③ そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「訓読」を行ふことは、「邪道(正当ではない方法)」であるとされるのが、『通例』の、やうである。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」自体に、固より(オリジナルに)、
③ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」が、有って、その上で、
「漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事情」があるからこそ、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學伝五章)。
といふ「漢文」に対して、
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(15)(21)により、
(22)
② ∀x∀y(親xy→~親yx)
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
② に対して、
② ∀x∀y(親xy→~上レyx
といふ「返り点」が付くことは、
③ に対して、
③ 是以、大學始敎、必使 學者即 凡天下之物、莫上レ 其已知之理、益々極 之、以求上レ 乎其極一。
といふ「返り点」が、付くことと、「殆ど変らない」。
然るに、
(23)
予嘗為(蒙生)定(学問之方法)、先為(崎陽之学)、教以(俗語)、誦以(華音)、訳以(此方俚語)、絶不〔作(和訓廻環之読)〕。始以(零細者)、二字三字為(句)、後使[読〔成(書)者〕]、崎陽之学既成、乃始得〔為(中華人)〕、而後稍稍読(経子史集四部書)、勢如(破竹)、是最上乗也 ⇒
予嘗(蒙生)為(学問之方法)定、先(崎陽之学)為、教(俗語)以、誦(華音)以、訳(此方俚語)以、絶〔(和訓廻環之読〕作〕不。始(零細者)以、二字三字(句)為、後[〔(書)成者〕読]使、崎陽之学既成、乃始〔(中華人)為〕得、而後稍稍(経子史集四部書)読、勢(破竹)如、是最上乗也 =
予嘗て(蒙生の)為に(学問の方法を)定め、先ず(崎陽の学を)為し、教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず。始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為るを〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり(荻生徂徠、訳文筌蹄)。
然るに、
(24)
③ Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú は、「グーグル翻訳」による、
③ 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に対する「ピンイン」であるが、荻生徂徠が、「それ程、音読」がしたいのであれば、
③ ゼイダイガクシキョウヒツシガクシャソクハンテンカシブツバクフツインイチシリジエキキョクシイキュウチコキキョク。
といふ風に、「日本漢字音」で、「音読」すれば良いだけであって、因みに、私自身は、例へば、
「虎求百獸而食之得狐。狐曰子無敢食我也。天帝使我長百獸。今子食我是逆天帝命也。子以我爲不信吾爲子先行。子隨我後觀。百獸之見我而敢不走乎。虎以爲然。故遂與之行。獸見之皆走。虎不知獸畏己而走也(借虎威・戦國策)」等を、「日本漢字音と、訓読の両方」で、「暗唱」出来る。
然るに、
(25)
日本の学者の中に、荻生徂徠という傑物があったが、この徂徠が子供の時分に、父の手筥の中に大学諺の一冊が有るということを知って、毎日之を読み、それが基礎となって、遂に講義も説明もなく、総ての書物に通ずることが出来たという話が伝わって居る(諸橋徹次、大学新釈、2005年、12頁)。
然るに、
(26)
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[3]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。
従って、
(23)(25)(26)により、
(27)
 荻生徂徠は、「独学」で、「漢文」を学んだのだから、
「教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず。始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為るを〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり。」
といふことは、荻生徂徠自身には、当てはまらない
従って、
(27)により、
(28)
荻生徂徠 自身の「漢文の学力」は、飽く迄も、「訓読」によって、築かれた。といふことになる。
従って、
(16)(17)(18)(28)により、
(29)
にも拘らず、「訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。」のであれば、明らかに、「をかしなこと」であると、言ふべきである。


(744)「碩学泰斗」であっても、「誤った、返り点」を付けることがある。

2020-10-24 18:03:50 | 返り点、括弧。

(01)
① 使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之=
① 使{其君子不幸而不[得〔聞(大道之要)〕]、其小人不幸而不[得〔蒙(至治之澤)〕]}。
に於いて、
① 使{ }⇒{ }使
① 不[ ]⇒[ ]不
① 得〔 〕⇒〔 〕得
① 聞( )⇒( )聞
① 不[ ]⇒[ ]不
① 得〔 〕⇒〔 〕得
① 蒙( )⇒( )蒙
といふ「移動」を行ふと、
① 使{其君子不幸而不[得〔聞(大道之要)〕]、其小人不幸而不[得〔蒙(至治之澤)〕]}⇒
① {其君子不幸而[〔(大道之要)聞〕得]不、其小人不幸而[〔(至治之澤)蒙〕得]不}使=
① {其の君子をして不幸にし而[〔(大道の要を)聞くを〕得]不、其の小人をして不幸にし而[〔(至治の澤を)蒙るを〕得]不ら}使む。
cf.
〔通釈〕政治を行う人々は、不幸にして大いなる道の要領が何処に存するかと伝う事を聞くことが出来なかったし、治めらるる所の民百姓は、不幸にして治まれる御代の恩沢を蒙ることが出来ない様になったのである(諸橋徹次、大学新釈、2005年、32・33頁改)。
然るに、
(02)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)
(03)
① 使其君子不幸而不得聞大道之要其小人不幸而不得蒙至治之。
といふ「漢文(朱子、大學章句序)」に付く、
① 使{其君子不幸而不[得〔聞(大道之要)〕]其小人不幸而不[得〔蒙(至治之澤)〕]}。
といふ「括弧」は、
(ⅰ)「漢文補足構造」と、
(ⅱ)「訓読の際語順」を、「同時」に、表してゐる。
従って、
(03)により、
(04)
或る人が、
① 使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之。
といふ「漢文」を、
① {其の君子をして不幸にし而[〔(大道の要を)聞くを〕得]不、其の小人をして不幸にし而[〔(至治の澤を)蒙るを〕得]不ら}使む。
といふ風に、「訓読できる」のであれば、そのときに限って、其の人は、
① 使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之。
といふ「漢文(朱子、大學章句序)」の、
① 使{其君子不幸而不[得〔聞(大道之要)〕]其小人不幸而不[得〔蒙(至治之澤)〕]}。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐる。
然るに、
(05)
① 戊{四[三〔二(一)〕丁[丙〔乙(甲)〕]}
に於いて、
① 戊{ }⇒{ }戊
① 四[ ]⇒[ ]四
① 三〔 〕⇒〔 〕三
① 二( )⇒( )二
① 丁[ ]⇒[ ]丁
① 丙〔 〕⇒〔 〕丙
① 乙( )⇒( )乙
といふ「移動」を行ふと、
① 戊{四[三〔二(一)〕]丁[丙〔乙(甲)〕]}⇒
① {[〔(一)二〕三]四[〔(甲)乙〕丙]丁}戊=
①     一<二<三<四<  甲<乙<丙<丁<戊。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 戊 四 三 二 一 丁 丙 乙 甲
といふ「返り点」を用ひることにより、
① 使其君子不幸而不大道之要、其小人不幸而不至治之澤
① 其君子不幸而大道之要、其小人不幸而至治之澤使
① 其の君子をして不幸にし而大道之要を聞くを得、其の小人にして不幸にし而至治之澤を蒙るを得ら使む。
といふ「訓読」を行ふことが出来る。
然るに、
(07)
② 使其君子不幸而不大道之要、其小人不幸而不中レ蒙至治之澤
③ 使其君子不幸而不大道之要、其小人不幸而不上レ至治之澤
に於いて、
② は、「諸橋徹次、大学新釈、2005年」の「返り点」であって、
③ は、「赤塚忠、 大学中庸、2004年」の「返り点」であるものの、
② は、「間違ひ」であって、
③ が、「正しい」。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 戊 四 三 二 一 丁 丙 乙 甲
といふ「返り点」であれば、「間違ひやう」が無いにも拘らず
② 下 レ レ 二 一 上レ レ 二 一
といふ風に、「レ点」を用ひて、書くのが「決まり」であるが故に、諸橋徹次 先生のやうな、碩学であっても、時には
③ 下 レ レ 二 一 中レ レ 上
といふ「間違ひ」を犯す。といふ、ことになる。
(09)
3日程前から、


といふやうな「結果」を出力する、「入力」を始めてゐます。


(709)「括弧」と「返り点」と「漢文の、目による直読」。

2020-09-10 18:49:13 | 返り点、括弧。

(01)
① 如揮快刀断乱麻=
① 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕
に於いて、
如〔 〕⇒〔 〕如
揮( )⇒( )揮
断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
① 〔(快刀)揮(乱麻)断〕如=
① 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
(02)
② 如揮快刀断乱麻者=
② 如〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
に於いて、
如〔 〕⇒〔 〕如
揮( )⇒( )揮
断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
② 〔(快刀)揮(乱麻)断者〕如=
② 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つ者が〕如し。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 如揮快刀断乱麻。
② 如揮快刀断乱麻者。
に対する「括弧」は、両方とも、
①〔( )( )〕
②〔( )( )〕
であって、「同じ」になる。
然るに、
(04)
① 如 快刀 乱麻
① 快刀 乱麻
① 快刀を 揮って 乱麻を 断つが 如し。
然るに、
(05)
② 如 快刀 乱麻
② 快刀 乱麻
② 快刀を 揮って 乱麻を 断つ 者が 如し。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 如揮快刀断乱麻。
② 如揮快刀断乱麻者。
に対する「返り点」は、それぞれ、
① 下 二 一 中 上
② 下 二 一 二 一 上
であって、「同じ」ではない。
然るに、
(07)
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
ではなく、
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
であるならば、
① 如揮快刀断乱麻
② 如揮快刀断乱麻者。
に対する「返り点」は、それぞれ、
① 下 二 一 二 一 上
② 下 二 一 二 一 上
であって、「同じ」になる。
然るに、
(08)
① 如揮快刀断乱麻
に於いて、

は「ダミー」であって、「意味も音も無い」ものと、する。
加へて、
(09)
① 如揮快刀断乱麻#。
に於いて、

は、「省く」ことが出来る、とする。
従って、
(07)(08)(09)
(10)
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
であるため、この場合は、
① 如揮快刀断乱麻。
② 如揮快刀断乱麻者。
に対する「返り点」は、両方とも、
① 下 二 一 二 一 上
② 下 二 一 二 一 上
といふ風に、「同じ」になる。
然るに、
(11)
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
といふ「返り点」は、
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
と書いても、「同じ」ことであり、
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
といふ「それ」は、
① 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕
② 如〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
といふ「括弧」と、「同じ」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
①〔( )( )〕
といふ「括弧」は、
① 下 二 一 二 一 上
といふ「返り点」に「相当」する。
然るに、
(13)
「返り点」は、「その発想」として、
(ⅰ)「漢文訓読」の「語順」を表し、尚且つ、
(ⅱ)飽くまでも、「漢字」に付く
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
返り点」の「発想」からすれば、
① 如快刀乱麻
② 如快刀乱麻
に於いて、
② に関しては、「有り得る」が、
① に関しては、「有り得ない」。
然るに、
(15)
① 如揮快刀断乱麻。
② 如揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」は「共通」であって、「括弧」を用ひて、それ「表す」とすると、
① 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
② 如〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
といふ「」になる。
然るに、
(16)
 漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
② 如揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文」の、
② 如〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
といふ「補足構造」が、「分かった時点」で、
② 〔(快刀)揮(乱麻)断者〕如=
② 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つ者が〕如し。
といふ「訓読の語順」が、「一意的に、定まる」ことになる。
従って、
(17)により、
(18)
例へば、
③ 欲雖人之所不能無然多而不節未有不失其本心者(孟子集注)。
といふ「漢文」の、
③ 欲雖{人之所[不〔能(無)〕]}然多而不(節)未{有[不〔失(其本心)〕者]}。
といふ「補足構造」が、「分かった時点」で、
③ 欲{人之[〔(無)能〕不]所}雖然多而(節)不未{[〔(其本心)失〕不者]有}不=
③ 欲は{人の[〔(無き)能は〕不る]所なりと}雖へども、然れども、多くして(節せ)ざれば未だ{[〔(其の本心を)失は〕不る者]有ら}不。
といふ「訓読の語順」が、「一意的に、定まる」ことになる。
然るに、
(19)
③ 欲雖人之所不能無然多而不節未有不失其本心者。
といふ「漢文」を、
③ 欲は人の無き能は不る所なりと雖へども、然れども、多くして、節せざれば、未だ其の本心を失は不る者有ら不。
と「訓読」出来さえすれば、
③ 欲は人の無き能は不る所なりと雖へども、然れども、多くして、節せざれば、未だ其の本心を失は不る者有ら不。
といふ「語順」を下に、
③ 欲 雖 人 之 所一レ 無 然 多 而 不 節 未 其 本 心
といふ「返り点」を、付けることが、出来る。
然るに、
(20)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むために、意味がわからなくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
(21)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
③ 欲雖人之所不能無然多而不節未有不失其本心者。
といふ「漢文」に対して、
③ 欲 雖 人 之 所一レ 無 然 多 而 不 節 未 其 本 心
といふ「返り点」を付けるためには、
③ 欲雖人之所不能無然多而不節未有不失其本心者。
といふ「漢文」が、
③ 欲雖{人之所[不〔能(無)〕]}然多而不(節)未{有[不〔失(其本心)〕者]}。
といふ風に、見えるまで、「ひたすら見る」しかない。
然るに、
(23)
③ 欲雖人之所不能無然多而不節未有不失其本心者。
といふ「漢文」が、
③ 欲雖{人之所[不〔能(無)〕]}然多而不(節)未{有[不〔失(其本心)〕者]}。
といふ風に、見える人であれば、
④ 我非欲揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文」くらひは、それを「見た瞬間に」、
④ 我は快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者に非ず。
といふ風に、「訓読出来ることになる。
然るに、
(24)
④ 我非欲揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文」を「見ると同時」に、
④ 我は快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者に非ず。
といふ風に、「訓読」出来るのであれば、その人は
④ 我非欲揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文」を「目によって直読」してゐることなる。
然るに、
(25)
p.9に「また、訓読ということには、大きな限界があるものなのであって、先人は、目による直読によって、その限界を乗り越えて来ていたのであることを忘れてはならない。」
p.385に「わが国における漢学の発達は、右のように、目による直読式の読法が、大きな基礎になっていたのであって、訓点による読誦は、この直読による暗記を助けるためのものであったともいうことができる」と書かれている。(p.7から9に同じ趣旨の事が書いてある)
私は、著者のいう『目による直読式の読法』の基本的な読み方考え方を知りたくて、様々な本を物色していますが残念な事に出会えません
(「鈴木直治、中国語と漢文、1975年」のカスタマーレビュウー)
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
目による直読式の読法』の基本的な読み方を、マスターするには、
取り敢へず、例へば、
④ 我非欲揮快刀断乱麻者。
等の「漢文(白文)」に対して、
④ 我非[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]。
といふ「括弧」を、付ける練習」をすれば良い。
(27)
「ある程度」、それが出来るようになったならば、
④ 我非欲揮快刀断乱麻者。
といふ「漢文(白文)」を見たら、そのまま
④ 我は快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者に非ず。
といふ風に、読むように、すれば良い。