(01)
今でも「暗誦」できるか、「目を閉じて」試してみると、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴカン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふのは、
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
⑫ 以為畏弧也。
に対する「日本漢字音」による、「音読み」である。
然るに、
(02)
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
⑫ 以為畏弧也。
といふ「白文」を、
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり。
② 狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ(也)。
③ 天帝、我をして百獣に長たら使む。
④ 今子我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふ也。
⑤ 子我を以て信なら不と為さば、吾子の為に先行せむ。
⑥ 子我が後に随ひて観よ。
⑦ 百獣之我を見て敢へて走ら不らん乎。
⑧ 虎以て然りと為す。
⑨ 故に遂に之与行く。
⑩ 獣之を見て皆走る。
⑪ 虎獣の己を畏れて走るを知ら不る也。
⑫ 以て狐を畏るると為す也。
といふ風に、「訓読」することは、それなりに、「難しい」ものの、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴカン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ風に、「音読」することは、「而・曰・乎」のやうな「普段目にしない漢字」を除けば、小学生にも、可能である。
然るに、
(03)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
然るに、
(04)
音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、 日本の呉音と漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある(二十一世紀の漢文-死語の将来- (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授)。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
倉石先生が、さう「読むべきである」とした、
① Hǔ qiú bǎishòu ér shí zhī dé hú.
② Hú yuē zǐ wú gǎn shí wǒ yě.
③ Tiāndì shǐ wǒ zhǎng bǎishòu.
④ Jīn zi shí wǒ shì nì tiāndì mìng yě.
⑤ Zǐ yǐ wǒ wéi bù xìnwú wèi zi xiānxíng.
⑥ Zi suí wǒ hòu guān.
⑦ Bǎishòu zhī jiàn wǒ ér gǎn bù zǒu hū.
⑧ Hǔ yǐwéi rán.
⑨ Gù suì yǔ zhī xíng.
⑩ Shòu jiàn zhī jiē zǒu.
⑪ Hǔ bùzhī shòu wèi jǐ ér zǒu yě.
⑫ Yǐwéi wèi hú yě.
といふ「音読(北京語)」が、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴガン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ「音読(日本語)」よりも、優れてゐる。といふことにはならないし、「思い付くままの、日本漢字音(漢音・呉音・唐宋音・慣用音)」による「音読」であれば、小学生にも、可能である。といふことも、忘れるべきではない。
今でも「暗誦」できるか、「目を閉じて」試してみると、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴカン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふのは、
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
⑫ 以為畏弧也。
に対する「日本漢字音」による、「音読み」である。
然るに、
(02)
① 虎求百獣而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獣。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我為不信吾為子先行。
⑥ 子随我後観。
⑦ 百獣之見我而敢不走乎。
⑧ 虎以為然。
⑨ 故遂与之行。
⑩ 獣見之皆走。
⑪ 虎不知獣畏己而走也。
⑫ 以為畏弧也。
といふ「白文」を、
① 虎百獣を求めて之を食らひ狐を得たり。
② 狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ(也)。
③ 天帝、我をして百獣に長たら使む。
④ 今子我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふ也。
⑤ 子我を以て信なら不と為さば、吾子の為に先行せむ。
⑥ 子我が後に随ひて観よ。
⑦ 百獣之我を見て敢へて走ら不らん乎。
⑧ 虎以て然りと為す。
⑨ 故に遂に之与行く。
⑩ 獣之を見て皆走る。
⑪ 虎獣の己を畏れて走るを知ら不る也。
⑫ 以て狐を畏るると為す也。
といふ風に、「訓読」することは、それなりに、「難しい」ものの、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴカン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ風に、「音読」することは、「而・曰・乎」のやうな「普段目にしない漢字」を除けば、小学生にも、可能である。
然るに、
(03)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
然るに、
(04)
音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、 日本の呉音と漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある(二十一世紀の漢文-死語の将来- (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授)。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
倉石先生が、さう「読むべきである」とした、
① Hǔ qiú bǎishòu ér shí zhī dé hú.
② Hú yuē zǐ wú gǎn shí wǒ yě.
③ Tiāndì shǐ wǒ zhǎng bǎishòu.
④ Jīn zi shí wǒ shì nì tiāndì mìng yě.
⑤ Zǐ yǐ wǒ wéi bù xìnwú wèi zi xiānxíng.
⑥ Zi suí wǒ hòu guān.
⑦ Bǎishòu zhī jiàn wǒ ér gǎn bù zǒu hū.
⑧ Hǔ yǐwéi rán.
⑨ Gù suì yǔ zhī xíng.
⑩ Shòu jiàn zhī jiē zǒu.
⑪ Hǔ bùzhī shòu wèi jǐ ér zǒu yě.
⑫ Yǐwéi wèi hú yě.
といふ「音読(北京語)」が、
① コキュウヒャクジュウジショクシトクコ。
② コエツシムカンショクガヤ。
③ テンテイシガチョウヒャクジュウ。
④ コンシショクガゼギャクテンテイメイヤ。
⑤ シイガヰフシン。ゴヰシセンコウ。
⑥ シズイガゴガン。
⑦ ヒャクジュウシケンガジカンフツソウコ。
⑧ コイヰゼン。
⑨ コスイヨシコウ。
⑩ ジュウケンシカイソウ。
⑪ コフツチ、ジュウイキジソウヤ。
⑫ イヰイコヤ。
といふ「音読(日本語)」よりも、優れてゐる。といふことにはならないし、「思い付くままの、日本漢字音(漢音・呉音・唐宋音・慣用音)」による「音読」であれば、小学生にも、可能である。といふことも、忘れるべきではない。