日本の国内で初めてコロナ感染者が見つかってから、今日で3年経つという
ニュースが今朝から流れています。
3年前の1月、私はちょうど「認知症と音楽療法」について修士論文の追研をしたいと
思い立ち、認知症専門医の教授の研究室で春から学ぶために、京都まで面接に
出かけていました。研究室の外で新しいマスクに取り換えていたことを思い出します。
初めての「社会行動制限」によって、多くの人との交流が絶たれました。
4月から研究室に在籍はしましたが、医学部の学生と共有する講義やゼミは全て
オンラインになり、教授と学生さんとは一度も会うことは無く、ラインでのやり取りでした。
ただ、オンライン講義もおいては意見交換などの交流もでき、仕事をしていた私に
とっては、京都までの通学時間が無く、有効な側面も多くありました。
3月の後半からは仕事も全て中止になりました。
行政、医療、福祉、教育などに亘る多分野の皆様との交流も無くなりました。
実践による皆様との意見交換は音楽療法の発展と継続には必須なことでした。
そんな中の6月に母が小脳梗塞で入院しましたが、家族は面会不可となり、
兄夫婦からの病院情報だけを待つことになってしまいました。
幸いにもひと月弱で退院することになり、母から直接電話をもらった日の喜びは
鮮明に思い出されます。
7月頃に少し感染者が減少して仕事が復活しましたが、また直ぐに中止になって
しまうという不安定なコロナ元年でした。
11月には父の法事を最小限の人数とコロナ対策をした場所で実施しました。
気丈だった母にとっては大きな行事となり、最後に全員で撮った記念写真を
その後も何かあるごとに思い出して、大変喜んでいました。
その3ヵ月後に母は再び脳梗塞で入院することになりましたが、やはり面会が
思うように出来ず、離れた奈良から病院へ直接電話で面会を嘆願して、
10分間の許可をもらってやっと病室で会うことが出来ました。
私の顔を見た瞬間の母の表情からは、しっかりと喜びの感情が伝わってきました。
失語症の症状もあった母でしたが、別れる時に「また来るから、またね」と言うと、
母の「またね」という言葉が鮮明に聞こえました。同伴した義姉も大変驚きながらも
喜びを共有しました。今から思えば、少し明るい母の今後を思った唯一の時間でした。
その後は面会も難しくなり、移った施設においてはさらに厳しい面会制限になり、
会うたびに弱々しくなってしまいました。
直接会えないことの辛さを痛感して、兄夫婦と在宅介護(看取り)を話し合い、
やっと年末に決めて準備を始めました。
その後のことは今まで書いてきましたが、ずっと傍にいられる幸せをかみしめました。
私だけではなく、多くの人が辛い経験をして今の現状があります。
日々の検査をした実施した上で心の交流が途切れることが無いことを願うばかりです
ニュースが今朝から流れています。
3年前の1月、私はちょうど「認知症と音楽療法」について修士論文の追研をしたいと
思い立ち、認知症専門医の教授の研究室で春から学ぶために、京都まで面接に
出かけていました。研究室の外で新しいマスクに取り換えていたことを思い出します。
初めての「社会行動制限」によって、多くの人との交流が絶たれました。
4月から研究室に在籍はしましたが、医学部の学生と共有する講義やゼミは全て
オンラインになり、教授と学生さんとは一度も会うことは無く、ラインでのやり取りでした。
ただ、オンライン講義もおいては意見交換などの交流もでき、仕事をしていた私に
とっては、京都までの通学時間が無く、有効な側面も多くありました。
3月の後半からは仕事も全て中止になりました。
行政、医療、福祉、教育などに亘る多分野の皆様との交流も無くなりました。
実践による皆様との意見交換は音楽療法の発展と継続には必須なことでした。
そんな中の6月に母が小脳梗塞で入院しましたが、家族は面会不可となり、
兄夫婦からの病院情報だけを待つことになってしまいました。
幸いにもひと月弱で退院することになり、母から直接電話をもらった日の喜びは
鮮明に思い出されます。
7月頃に少し感染者が減少して仕事が復活しましたが、また直ぐに中止になって
しまうという不安定なコロナ元年でした。
11月には父の法事を最小限の人数とコロナ対策をした場所で実施しました。
気丈だった母にとっては大きな行事となり、最後に全員で撮った記念写真を
その後も何かあるごとに思い出して、大変喜んでいました。
その3ヵ月後に母は再び脳梗塞で入院することになりましたが、やはり面会が
思うように出来ず、離れた奈良から病院へ直接電話で面会を嘆願して、
10分間の許可をもらってやっと病室で会うことが出来ました。
私の顔を見た瞬間の母の表情からは、しっかりと喜びの感情が伝わってきました。
失語症の症状もあった母でしたが、別れる時に「また来るから、またね」と言うと、
母の「またね」という言葉が鮮明に聞こえました。同伴した義姉も大変驚きながらも
喜びを共有しました。今から思えば、少し明るい母の今後を思った唯一の時間でした。
その後は面会も難しくなり、移った施設においてはさらに厳しい面会制限になり、
会うたびに弱々しくなってしまいました。
直接会えないことの辛さを痛感して、兄夫婦と在宅介護(看取り)を話し合い、
やっと年末に決めて準備を始めました。
その後のことは今まで書いてきましたが、ずっと傍にいられる幸せをかみしめました。
私だけではなく、多くの人が辛い経験をして今の現状があります。
日々の検査をした実施した上で心の交流が途切れることが無いことを願うばかりです
