時折、ふとしたきっかけで古い友人のことを思い出す。
ひろのりくん、通称「ひーべ」。
すごく頭のいい子だった。スポーツもそこそこできた。
ただし、極度の近眼で、小学校当時は1クラスに一人か二人しか
いない「生まれつき眼の悪い子」だった。
都会の子供たちとちがって、私の故郷は前方が海、後方が山という
環境だし、当時は眼を悪くする要因といえばテレビくらいしか
なかったので、眼の悪い子がいることはめずらしいことだった。
私ら同級生は絶対にそんな彼をからかったりすることはなかったのだが、
田舎特有の「意地の悪さ」というか、先輩たちの中には彼の眼の悪さを
露骨に揶揄する奴もいた。彼も胸を痛めたことがあったんじゃないかな。
中学校に入れば、眼鏡をかける人が急に増えるので、
彼の近視をとやかくいう奴は自然といなくなった。
そういう状況にもかかわらず、彼はとてもみんなに好かれていた。
本当にいい奴、いうなればお人好しだった。
同じ高校に進学したのだが、そこでも彼は「ひーべ」と慕われていた。
高校を卒業すると私はすぐに上京したし、彼は金沢の大学に通った。
彼の「お人好し」の性格のせいか、彼のアパートが悪友どものたまり場に
なってしまい、単位を落とし、結局大学を中退した。
それからすぐに地元の役場の職員になり、さっさと結婚してしまった。
もう10年くらい前になるが、一度そんな彼と会った。
その時既に彼は良き父親になっていた…。
一方で私といえば、「ひーべ」より成績は悪かったと思うが、
一応大学は卒業し、一応大学院の修士課程を修了した。
なれない勉強をやったせいか、自分が近眼になってしまった(笑)。
どうにも上司という人種が自分は苦手らしく、何度も職業を転々としたあげく、
最後は独立までしてしまった。
中学生の時に聴いた外国の音楽のインパクトが強すぎて、いまだにそれを
追いかけている…。
何が幸せかは本当にわからないものだ。
「因果応報」という言葉があるが、我々がそれぞれおかれている「今」という
地点は、過去において我々が望んだ未来だったのかは、はなはだ疑問である。
「こうなるとわかってたら、ちがうことやってたわい!」(笑)
それならば、未来をがっちりと見定め、未来にむけて望む種(因)をまけばよい、
という話になるが、それはそれで大変つまらない人生だろうと思う。
我々人間の想像力で描く夢などたかが知れているからだ。
もちろん夢をあきらめろ、とか夢を抱くな、などとはいうつもりはない。
でも時間とは常に未来から今に流れているものであり、
ひとつの夢を叶えたら、また次の夢がうまれる、その繰り返しだ。
それは「目標」であって、夢とは言わない気がする。
夢は遠い先に漠然と、それでも確かに存在するものであってほしい。
今度、ひーべに会ったら確かめたい、
「俺たち間違ってないよな」って…。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト
ひろのりくん、通称「ひーべ」。
すごく頭のいい子だった。スポーツもそこそこできた。
ただし、極度の近眼で、小学校当時は1クラスに一人か二人しか
いない「生まれつき眼の悪い子」だった。
都会の子供たちとちがって、私の故郷は前方が海、後方が山という
環境だし、当時は眼を悪くする要因といえばテレビくらいしか
なかったので、眼の悪い子がいることはめずらしいことだった。
私ら同級生は絶対にそんな彼をからかったりすることはなかったのだが、
田舎特有の「意地の悪さ」というか、先輩たちの中には彼の眼の悪さを
露骨に揶揄する奴もいた。彼も胸を痛めたことがあったんじゃないかな。
中学校に入れば、眼鏡をかける人が急に増えるので、
彼の近視をとやかくいう奴は自然といなくなった。
そういう状況にもかかわらず、彼はとてもみんなに好かれていた。
本当にいい奴、いうなればお人好しだった。
同じ高校に進学したのだが、そこでも彼は「ひーべ」と慕われていた。
高校を卒業すると私はすぐに上京したし、彼は金沢の大学に通った。
彼の「お人好し」の性格のせいか、彼のアパートが悪友どものたまり場に
なってしまい、単位を落とし、結局大学を中退した。
それからすぐに地元の役場の職員になり、さっさと結婚してしまった。
もう10年くらい前になるが、一度そんな彼と会った。
その時既に彼は良き父親になっていた…。
一方で私といえば、「ひーべ」より成績は悪かったと思うが、
一応大学は卒業し、一応大学院の修士課程を修了した。
なれない勉強をやったせいか、自分が近眼になってしまった(笑)。
どうにも上司という人種が自分は苦手らしく、何度も職業を転々としたあげく、
最後は独立までしてしまった。
中学生の時に聴いた外国の音楽のインパクトが強すぎて、いまだにそれを
追いかけている…。
何が幸せかは本当にわからないものだ。
「因果応報」という言葉があるが、我々がそれぞれおかれている「今」という
地点は、過去において我々が望んだ未来だったのかは、はなはだ疑問である。
「こうなるとわかってたら、ちがうことやってたわい!」(笑)
それならば、未来をがっちりと見定め、未来にむけて望む種(因)をまけばよい、
という話になるが、それはそれで大変つまらない人生だろうと思う。
我々人間の想像力で描く夢などたかが知れているからだ。
もちろん夢をあきらめろ、とか夢を抱くな、などとはいうつもりはない。
でも時間とは常に未来から今に流れているものであり、
ひとつの夢を叶えたら、また次の夢がうまれる、その繰り返しだ。
それは「目標」であって、夢とは言わない気がする。
夢は遠い先に漠然と、それでも確かに存在するものであってほしい。
今度、ひーべに会ったら確かめたい、
「俺たち間違ってないよな」って…。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト