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音楽における「正確さ」

2012-07-19 12:51:43 | 日記
音楽における「正確さ」をテーマにブログを書こう書こうと、
思っておりトライするのだが、いつも途中で投げ出してしまっている。
どうにも言葉ではうまく表現できない類のようだ。

チャーリー・パーカーが「間違った音を出したら、それを3回繰り返せ」
といったらしいが、確かに音楽は「出してしまった音」を消しゴムで
消したりできないし、実際にその「間違った音」に触発されて新しい旋律が
生まれるということは大アリなので、この言葉自体を否定するつもりは
ない。
ただし、それが「ある人々」の口から出るものでないかぎり、たぶん
「ちょっとちがう…」と思ってしまうだろう。

ある人々とは音楽における「正確さ」を追求している人たちのことである。
チャーリー・パーカーもその一人。だから理解できる。
私がチャーリー・パーカーと同じ次元にいるなどとは、口がさけても言えないのだが、
こんな私(??)でも一応、常日頃考えさせられる(だんだん弱気になってきた(笑))。

新しい曲、ましてオリジナルの曲をやるときは特にそうなのだが、
楽曲をどう解釈して、どうやってメロディーをのせてゆくか、
「どんピシャ」であること、我々は常にそれをさぐりあてようともがいている。
人によってアプローチは様々だと思うが、そこには厳とした「正確さ」が
なければならない。
これはある種自分をすてる覚悟がないと、自分のスタイルに対してこだわりの
ある人ほど難しい。

どんなに流暢に、高度なテクニックでフレーズが弾かれようと、そこに「正確さ」が
なければなんの意味もない。
逆にどんなに訥々(とつとつ)としていようが、シンプルな音であろうがそれが
「どんピシャ」であるならばOKだ。

例えていうなら、マイルス・デイビスの音楽。
あれは「どんピシャ」である。

私がいつも筆をとめてしまうのは、「それならば何に対して我々は「どんピシャ」で
あるべきか」という考察に至る段階においてである。

この段階にくると、いつも思考が停止してしまう…。

音楽とは「こたえのわからないような、永遠の問いかけ」のようなものであり、
その問いかけを繰り返すことが、音楽をやり続けるということなのかも知れないと思う。

私にとって音楽とは連続写真や軌跡をたどったりするものではなく、
持続性に飛び込んでゆくようなものである。
これがまた、つかめない、いくらトライしてもだめだ…。
一握の砂のごとくこぼれ落ちてしまう。

とここまで書いて、「なんだ、よくわからない」と最初から書けばよかったじゃん、
という気がしてきた。

あ~あ、もともこもない…(笑)。


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チャーリー・クリスチャン

2012-07-17 17:00:32 | 日記
ジャズやブルースを愛する人なら一度はチャーリー・クリスチャン
(Charlie Christian)という名前を聞いたことがあるだろう。

私もジャズをやる前から知っていた。なぜ彼のCDをもっているかと
いえば、実は自分でもよく覚えていないのだが、モダン・ブルースの父、
T-Bone Walkerとの親交があつかったようだから、そのからみかなにかで
興味をもったのかも知れない。

あるいはジャズが好きな父親の影響かも。家に『ベニイ・グッドマン物語』
のビデオがあったから。その中で確かチャーリー・クリスチャンがでてきたような、
出てこないような…、う~ん、覚えていない(笑)。

私はジャズ・ギターを教わりに都内の教室に通っていたのだが、その先生は
「現代的でなければ意味はない」と公言してはばからない人だったし、
自分としても歴史的なことにはあまり興味がなかった。

ウェス・モンゴメリーやバーニー・ケッセル、ケニー・バレル、ジム・ホールなど
時代を代表するジャズ・ギタリストに与えた影響の大きさ、ビバップの創生期に
おいて誰よりも早く(そう、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーよりも
早く)からバップ的なサウンドを演奏に採り入れたパイオニアとしての側面、
そういった彼の偉大さにもかかわらず、実は私はあんまり好きじゃなかった、
というかよくわからなかった。

今日たまたま、CDラックをまさぐってみたらこのCDが出てきたので聴いてみた。




いぇ~い!! すげえスイングしてるじゃん!!!

驚いた。こんなによかったっけ???
「Solo Flight」なんか圧巻じゃん!!

私は演奏においては、その最初の部分、いわゆる出だしの部分がもっとも大切だと
考えているが、そういうところの切れ味が最高だし、尽きせぬ着想を驚異的な
テクニックとスピード感で駆け抜けてゆくところが本当にファンタスティック!!
スイングするってことはこういうスピード感を表現するということなのだろう。

実はブルースといってもジャズにおけるブルースとブルースにおけるブルース
(当たり前だ!!)はコード解釈も弾き方も別物だと思っていた。
現にウェス・モンゴメリーのアプローチはブルースマンのアプローチとは
かなり違っているしね。

ただ、このCDを聴いていると、ブルースはブルース、やっぱり同じようなものだ
という気がしてきた。
ただし、もちろんそれは「自由に感じたままに表現する」という大変に高度な意味に
おいてであることはいうまでもない。

そういう意味でチャーリー・クリスチャンは本当に自由な人だと思う。

自分がはたしてその境地に至れるかどうかは定かではないが、
まあ、チャーリー・クリスチャンの真価が少しは理解できたのかな、
と自分で自分をなぐさめてみる。


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本名カズトBand

2012-07-12 17:19:02 | 日記
先日、自分が大好きなバンド「本名カズトBand」が節目を迎える
ということで、仕事の区切りも一応ついたことだし、池袋の
「フリーフローランチ」にライブを観に行った。

リラックスしたムードで、それでも愛にあふれた素晴らしいライブ
だった。こうした場面においてはある種の感傷はつきものだが、
そういったものが微塵もなく、淡々とした中、それでも楽しく
ライブは進行していった。

確か、

「また会う約束などすることもなく、それじゃまたな、と別れる時の
お前がいい。」

という歌があったな…。

私ごときが彼らの再会をのぞむべくもないが、それでもまたいつか
あのサウンドを聴きたいと心から思う。


ところで以前本名さんと話しているときに、
「大野はこれからどうすんだ?」と聞かれて、
「私は世界一のインプロヴァイザーになりたい。」
などと口に出すのもはずかしいことを言ってしまった(おーまいがっ!!!)

でも本名さんならわかってくれていると思う。
私が「ソリスト」ではなく、「メロディスト」をめざしているのだということを。


思うに本名さんほど「メロディ」というものを大切に考えている人を
私は知らない。

それは心の中を流れる一本のラインであり、「うた」である。

どんなことだって、海面上に現れる氷山の上の部分だけを見ていてもだめだ。
水面下には巨大な氷が眠っていることを知らねばならない。
そしてメロディは水面下の下支えがあってこそ浮かび上がってくるものだ。

だから、フレーズを追いかけてはいけない。
フレーズを思いついても、それを弾いちゃいけない…。

そしてミュージシャンは「口ごもる」期間、暗闇の期間を耐えなければならない…。

最近になり、自分でもようやく訥々(とつとつ)とメロディという言葉を発する
ことができるような気がしている。

別段なんの励ましをうけたわけではないが、私は本名カズトBandを観て
その暗闇の時期を乗り越えようとしていた気がする。

だから、本名さん、ミックさん、シゲさん、ゆうぞうさん、恩田さんには、
本当に感謝したいと思う。

ありがとうございました。

じゃあね、また!!!


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いじめの問題

2012-07-10 17:50:09 | 日記
最近、いじめの問題が広くテレビなどで報じられている。

いやな話だ。
たとえ政治や国の制度に失望しても、日本という国は賢い者どうしが
知恵を出し合い、乗り越えられるものと信じる。
そして現に政治家にも役人にも、辞任してから天下り、論理のすりかえ、
言葉のごまかし、選挙公約、与党への責任追及など逃げ場はいくらでもある。

でも、いじめには逃げ場がない。

たとえば、いじめに苦しみ学校を退学したとする。
それでいじめからは解放されるかも知れない。
でも、結局その子にとって今後の学びの道は閉ざされてしまうだろう。
中学の義務教育、高校の卒業資格がなければ、大学は受けられない。
大学にいかないまでも、中学なら別の転校先をさがさなきゃならない。
まして、学びを楽しむための場であるはずの学校が、そういう場で
なくなってしまっているとするなら、その子の学ぶ意欲は失せて
しまうにちがいない。

こういうことをしておいて「勉強だけがすべてではない」などということ
こそ大人の欺瞞であろう。

もちろん、私は勉強が好きな子は勉強を、音楽が好きな子は音楽を、
スポーツが好きな子はスポーツを一生懸命やることに何の異論もない。

私が言いたいのは、子供の可能性(本人たちも知らないような)を
広げてやるには社会があまりにも閉鎖的であるということだ。

今回の問題で、国、社会、県教委、県警、そして学校がグルであるとはいわないが、
少なくとも現行の社会システムではいじめを防止することは不可能であろう。

原因究明があり、対策が講じられ、社会を変革してゆくというプロセスは
是非とも必要だと思うが、その原因究明がすでに全く機能していない。

今回の件に関しては我々の世代の人たちはいうだろう、

「俺たちの頃もいじめはあった。でもこんなに陰湿じゃなかった。
これは社会が悪いんだ、学校が悪いんだ、子供の質が低下したんだ。」

でも原因究明と責任追及は明確にわけて語られるべきだ。
我々の世代は社会でも「中間管理職的」な立場にあるため、責任を追及
しやすいところのみに責任追及し、原因究明において浮かび上がる様々な
要素のすべてに気がまわらなくなり、それがすべてであると信じ込んでしまい、
自分の思想さえもそこに同調させてしまう。

残念ながら社会やシステムという抽象的範疇に責任をなすりつけてしまうと
たとえそれが真理であっても、問題はうやむやとなり、解決されることは
ないだろう。

我々大人は逃げちゃいけないのだ。
また逃げ道だらけの政治家や官僚に頼っていてはいけないのだ。

逃げ場を求めているのは子供たちなのだから。


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[振り子の法則]リアリティ・トランサーフィン

2012-07-06 12:10:04 | 日記


『[振り子の法則]リアリティ・トランサーフィン』(ヴァジム・ゼランド)

巻末に「2006年12月31日 第一刷」とあるから、この本を購入したのは
5年以上前になるか…。

真っ赤な表紙が目に付き、著者がロシア人でドストエフスキーの
ラスコリニコフばりのモノローグでスタートするこの本に、
むしょうに惹かれて買ってしまった。

結局、日本語に翻訳されているこの本のシリーズは全部買うはめに
なった。特に第四弾の「鏡の「超」法則」、これは面白かった。
シリーズ全体の謎解き的な要素もあり、読後の痛快感は半端ではなかった。

紹介しているのはシリーズの第一巻である。
内容は非常に難解、重要なキーワードが目白押しで、そのひとつひとつが
非常に抽象的である。

最も重要と思われるキーワードをいくつか引用すると、



【振り子(ペンジュラム)】
思考エネルギーは物質的であり、跡形もなく消えたりするものではない。人々の集団が同じ方向で考え始めると、彼らによる「思考の波」は互いに重なり合い、エネルギーの海において目には見えないが実存するエネルギー情報構造、すなわち「振り子」を築きあげる。…

【過剰ポテンシャル】
過剰ポテンシャルとは、均質なエネルギー場における緊張や局地的な擾乱のことである。こうした異質性は、何らかの対象に必要以上の大きな意義が与えられる場合に、思考エネルギーによってもたらされる。

【平衡力】
過剰ポテンシャルがあるところでは必ず、それを解消しようとする平衡力が発生する。ポテンシャルは、人が何らかの対象に重要な意義を必要以上に与えた時、その人の思考エネルギーによってもたらされる。


これは巻末のキーワード集から引用したのだが、これだけを読んでも頭の中が、
「はてなマーク」だらけになってしまいそうだ。

ただ、最初から順序良く読み進めるかぎりにおいては、それほど厄介ではない。
それほど厄介ではないが、難しいことにかわりはない。

私は今でも時折、この本の内容を思い出し、その度に本棚から引っ張り出しては
よんでいる。よくわからないと思いながらも、日常生活の中で、これらのキーワードを
思い出し、「腑に落ちる」ことがある。


話はちがうが、一仕事終えて、ほっと一息つくために、ベッドに横になると、
そういう時にかぎって新しい仕事が入ってくるので、意識的に昼寝を習慣に
してみようとしたことがある。仕事がほしかったのだ(笑)。

ところが、仕事が入ってくることを意図して、意識的に昼寝をしてみると、
これがまた、一向に仕事がこない(笑)。


これを「トランサーフィン流」に解釈すると、

仕事から解放されたいという気持ちが「過剰ポテンシャル」を生み、「平衡力」が
作用して仕事が入ってきてしまう。
逆に仕事がほしいと思って意識的に昼寝をすると仕事がほしいという気持ちが、
「過剰ポテンシャル」を生み、「平衡力」が働いて仕事が入ってこない。

となる(なんのこっちゃ…笑)。

まあ、ニュートラルがいちばんということか…。



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