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いじめの問題

2012-07-10 17:50:09 | 日記
最近、いじめの問題が広くテレビなどで報じられている。

いやな話だ。
たとえ政治や国の制度に失望しても、日本という国は賢い者どうしが
知恵を出し合い、乗り越えられるものと信じる。
そして現に政治家にも役人にも、辞任してから天下り、論理のすりかえ、
言葉のごまかし、選挙公約、与党への責任追及など逃げ場はいくらでもある。

でも、いじめには逃げ場がない。

たとえば、いじめに苦しみ学校を退学したとする。
それでいじめからは解放されるかも知れない。
でも、結局その子にとって今後の学びの道は閉ざされてしまうだろう。
中学の義務教育、高校の卒業資格がなければ、大学は受けられない。
大学にいかないまでも、中学なら別の転校先をさがさなきゃならない。
まして、学びを楽しむための場であるはずの学校が、そういう場で
なくなってしまっているとするなら、その子の学ぶ意欲は失せて
しまうにちがいない。

こういうことをしておいて「勉強だけがすべてではない」などということ
こそ大人の欺瞞であろう。

もちろん、私は勉強が好きな子は勉強を、音楽が好きな子は音楽を、
スポーツが好きな子はスポーツを一生懸命やることに何の異論もない。

私が言いたいのは、子供の可能性(本人たちも知らないような)を
広げてやるには社会があまりにも閉鎖的であるということだ。

今回の問題で、国、社会、県教委、県警、そして学校がグルであるとはいわないが、
少なくとも現行の社会システムではいじめを防止することは不可能であろう。

原因究明があり、対策が講じられ、社会を変革してゆくというプロセスは
是非とも必要だと思うが、その原因究明がすでに全く機能していない。

今回の件に関しては我々の世代の人たちはいうだろう、

「俺たちの頃もいじめはあった。でもこんなに陰湿じゃなかった。
これは社会が悪いんだ、学校が悪いんだ、子供の質が低下したんだ。」

でも原因究明と責任追及は明確にわけて語られるべきだ。
我々の世代は社会でも「中間管理職的」な立場にあるため、責任を追及
しやすいところのみに責任追及し、原因究明において浮かび上がる様々な
要素のすべてに気がまわらなくなり、それがすべてであると信じ込んでしまい、
自分の思想さえもそこに同調させてしまう。

残念ながら社会やシステムという抽象的範疇に責任をなすりつけてしまうと
たとえそれが真理であっても、問題はうやむやとなり、解決されることは
ないだろう。

我々大人は逃げちゃいけないのだ。
また逃げ道だらけの政治家や官僚に頼っていてはいけないのだ。

逃げ場を求めているのは子供たちなのだから。


翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト

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