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Pat Metheny Group - Still Life (talking)

2011-05-21 14:46:11 | 日記
今日家のCDラックを整理していたら、埋もれていたパット・メセニーのCDを発見。
なんといつの間にか20枚近くもっているのね。

忘れもしない私の初めてのメセニー体験CD。


『Pat Metheny Group - Still Life (talking)』

なぜ忘れないかというと、当時メセニーに興味もなかった私が、
友人の家でメセニーの演奏を聴いて、凄すぎて、そのまま頂戴してしまった
CDだからだ(お前はジャイアンか?!)。
ただし、その時は自分とはまったく異なる分野の音楽と思っていたけど…。

ところでパット・メセニー・グループのサウンドの特徴のひとつとして、
数人のボーカリストによる「ヴォイス」が重要な役割を果たしていることが挙げられる。
なぜヴォイスというかというと、歌詞を歌っているわけではないからだ。
それは歌というよりサウンドの一部である。
まあ呼び名はともかく、曲のクライマックスの部分で待ってましたとばかりに
一斉にコーラス隊がヴォイスをはなつわけだ。

CDの3曲目の「Last Train Home」では、盛り上げて盛り上げて、
それが最高潮に達した時に、

「え~いや~!!」

と始まる。文字にしてしまうと日本語の掛け声のようであるが、
一度お試しあれ、本当にそういっている(ように聴こえる)から。


ともかく、このようにパット・メセニー・グループの重要なサウンドの一端を
担っている彼らのことを私は、

「おえおえ軍団」と呼んでいる(笑)。


ところで、よく歌物をインストで演奏する時に感じることなのだが、
人間(人間でなくとも、猫でも牛でも同じだと思うが)の声は、楽器とは
まったく別種のものであるということだ。
人が歌ったラインを同じように楽器でなぞらえたとしてもまったく
「効果がない」のである。

おそらく倍音構造が声帯と楽器ではちがうのだろうが、難しいことは分からないが、
とにかく声帯のもつある種の「浮遊感」は楽器で同じように演奏しても絶対に
表現できない。楽器で浮遊感を出すということは実は並大抵のことではない。
特に吹奏楽器ではない楽器、例えばピアノ、ギターなどでは本当に難しいことだ。

たぶん平均律で調律された楽器では「あいまいな」トーンを出すことができないため、
存在感を持ちすぎてしまうためだと思う。

キース・ジャレット(ピアノ)にしても、カート・ローゼンウィンケル(ギター)
にしても、彼らが「声(ヴォイス)」を放ちながら演奏することには実は大変な
意味がある。そのこと自体はもっと深い意味があるのだが、ここでは言及しない。
(本が一冊書けるほど深いテーマだと思うから。)

ともあれ、パット・メセニーの演奏は、そのサウンド全体にしても、ソロにしても、
明らかに「ヴォイス」を意識した演奏である。最近、彼の演奏ばっか聴いているのだが、
ゴースト・ノートの扱い方、音の処理の仕方などを考えるにつけ、なんかその辺に
キー・ワードがあるような気がしている(それに関してはいつか体系的にまとめる
つもりだ)。

後の彼らの新しい方向性を定義づけたとされている「Third Wind」における、
メセニーの演奏は、ひたすら凄い。まるで我々自身がコンドルとなり、
空中を旋回し、急降下し、再び急上昇しているようで、目がくらむようで、
本当にクラクラしてしまう。
私などぼーっと目をつぶって聴いていて、椅子からころげ落ちそうに
なってしまった(笑)。

こうしてメセニーは「ヴォイス」によって浮遊感を追求してゆくのだが、
そうした中で彼がグループ以外の活動でいわゆる歌物を積極的にこなしてゆくように
なることもうなづける。ナシメントとの交友などにより、どんどん人間の声の魅力
にめざめていったのだろう。

リチャード・ボナという天才ヴォーカリスト(ベーシストでもある)の出現によって、
彼のそうした志向はパット・メセニー・グループの活動においても開花してゆく。

もちろん、それが彼にとってのゴールではないことは、その後の彼の活動を見れば
明らかである。
彼のサウンドは、その都度「完成されている」ので、我々の発想をいともたやすく
超えて行ってしまうのだ。
まぎれもなく「今世紀最大のインプロヴァイザー」だと思う。
一体どこまで行くのか…。


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