沖縄Daily Voice

沖縄在住の元気人が発信する

紅茶の島のものがたり vol.18 冨井穣

2009年07月31日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第18話
世界初を目指して

 山城と崎浜の関係は、つかず離れず、それぞれの得意分野で100%能力を発揮できるようお互いを尊重する精神が根幹にある。山城は紅茶作りに全力を注ぎ、崎浜は経営環境を整備する。「三人寄れば文殊の知恵」の3人にはあと1人足りないが、英語では同じ意味で“Two heads are better than one”(1人より2人の見方が加わればよりよい知恵が浮かぶ)といった言い回しがあり、場合によっては2人で十分なようだ。
 崎浜は経営面から山城の紅茶作りをサポートしただけではなく、エンジニアとしてもその能力をいかんなく発揮した。大学院ではリニアモーターカーの原理である超電導について研究し、石油会社ではプラント設備の管理に当たった経験から、製茶工場のシステム改善に大きく寄与したのである。
 例えば、日本の製茶工場を見たことがある人はすぐ分かると思うが、ひとつ一つの設備はとてつもなく大きい。これは以前にも触れたとおり、緑茶はその性質上、摘採後すぐに加工しなければならず、茶葉の収穫時期は限られているため、短期間で大量に処理できる設備が求められているわけだ。山城の工場はそれほど規模が大きくないとはいえ、機械を稼働させるには一回につき60kgもの茶葉を集めなければならない。つまり、緑茶を製造するなら問題ないサイズ(もしくはさらに大型化したほうが効率は増す)だが、紅茶の試作品作りには明らかに大きすぎる。新しい実験の度に60kgもの茶葉を使っていては、どう考えても効率が悪すぎる。
 無論それならば、実験をコンパクトに行えるよう小さな設備を導入すれば済む話だが、数十万円、数百万円の費用がかかる設備投資を簡単に行える企業はそう多くはないはずだ。従業員が2人だけの零細農家ではなおさらだ。まして当時の主力商品は緑茶であり、いくら将来有望とはいえ紅茶がこの先着実に利益を生み出せるかどうか分からない。仮に銀行へ融資を依頼したとしても、「やる気」だけではそれもなかなか難しいだろう。しかし、だからこそ人間は、与えられた条件の中で可能性を見つけ出そうと努力し、さまざまな知恵を生み出してきたということもできる。山城と崎浜の場合もそうだった。
 新たな設備を購入せず、紅茶作りの実験効率を高めるには2通りの方法が考えられる。一つは機械の自作であり、もう一つは加工方法を別のやり方に置き換えることである。崎浜が考案したのはこの二つを昇華させた方法だった。
 紅茶の製造は主に萎凋、揉捻、発酵、乾燥という過程を踏む。「萎凋」の工程で茶葉中の水分を減らし、「揉捻」では酸化酵素を空気に触れさせて発酵を促すなど、各工程にはさまざまな意味や目的が込められているが、突きつめて考えるとすべての作業は、「紅茶をおいしく飲むため」に人類が長年かけて蓄積してきた加工手段、ととらえることができる。ということは、紅茶をさらにおいしく飲める方法があれば、もしくはもっと簡単な方法で同じ味覚を作ることができれば、必ずしも現在と同じ加工手順を踏む必要はないわけだ。
「紅茶がおいしく感じられるのはなぜだ?」
「茶葉の中に含まれるカテキン類が酸化酵素の働きで化学変化を起こし、テアフラビン、テアルビジンといった成分に姿を変える。すると、カテキン由来の渋さはほとんどなくなり、紅茶特有の風味や香り、水色が新たに生まれてくるんだ」
 山城は複雑な化学式を書いて崎浜に見せた。
「それなら、方法はどうであれ、摘んできた茶葉に同じ化学変化を引き起こせば、理論的には同じ味の紅茶ができるわけだ」
 例えるなら、東京から大阪へ移動するには飛行機、新幹線、自家用車、バスなどさまざまな手段があるのと同じことで、新幹線のグリーン車に乗る余裕がなければ夜行バスを利用すればいいだけの話だ。それでもグリーン車に乗りたければ、金券ショップやオークションを徹底的に調べてみればいい。
 山城が茶葉の発酵原理について熟知していたことも、崎浜の着想に大きな示唆を与えた。茶葉中には4種類のカテキン成分が含まれていることや、これらのカテキン類が複雑に結合してさまざまな風味を生み出していること、結合のパターンはまだ解明されていないこと(だから発酵はおもしろい)など、山城は知っている限りのことを崎浜に伝えた。
 目的はただ一つ。紅茶の発酵過程をコンパクトに再現できる装置を作ること。
「よし、やってみよう。成功すれば世界でも類をみない画期的なシステムになる」
 2人は連日連夜、紅茶談義を交わしながら、「紅茶発酵システム」開発に取りかかった。



写真は紅茶の製造に使われる揉捻機



text:冨井穣




              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト




~スローライフwithみゅーじっく~ vol.5 大山百合香

2009年07月30日 | 木曜(2009年7~8月):大山百合香さん
うがみやぶら~!
今週もよろしくお願いします。


毎回コメントなど下さる皆さん、
読んで下さっている皆さん、
ありがとうございます。


さて、私の住む沖縄は
夏本番の暑さが続いております。。


今回はその沖縄にも負けない暑さが続く私の故郷、沖永良部島の言葉や方言について
少しご紹介したいと思います。
沖永良部島の事を島の人たちはよく「エラブ」方言では「イラブ」と呼んでいるので
ここでは「エラブ」と書かせてもらいます。


鹿児島本土から約550km、沖縄本島までは60kmと沖縄のほうに距離が近く、
琉球文化の影響が強く、言葉や方言もウチナーグチ(沖縄語)に近いです。


私もそうなんですが、現代の子供達や若い人達は イントネーションはエラブの色があっても、
方言はあまり話さずほぼ標準語です。
それは、30年以上前徹底した「方言追放運動」があり、私の両親が学生の頃、
授業中はもとより、遊ぶ時から何からつねに標準語を 使うよう言い渡された
そうです。
今週の努力目標「方言を使わない」なんてものも。
うっかり方言を話すと 言いつけられ、注意されたそうです。








今は一転して、子供たちに島の文化や方言など徹底して教えています。




奄美群島、沖縄はとても近い所に位置していますが、
島々によって方言が違ってきます。


↓ここに沖永良部島、沖縄県本島、奄美本島
それぞれの島の方言の違いが分かりやすく書いてありました。


http://www.sh.rim.or.jp/~misshie/amami-hougen.htm




私の小さい頃は、祖父、祖母や両親も方言で話していたので、
 多少聞き取る事はできるのですが、方言を話すことはあまりできません。
(単語では分かるが、方言を交えた文章では話せない)


今思うことは、
島を離れて、改めて島の良さを知った私は
もっと島の言葉を知り、理解して、話しておけばよかったということ。
先週のコラムでも、沖縄戦について、
戦争について語ってくれる昔の人たちが年々少なくなっているこの現実、


何十年後には経験者もいなくなってしまうという。


それは、昔から島の言葉を語り継いできた人たちも同じ様に減っているということ。




その土地にしかない言葉、文化はきっと島に限らずどこにもあるものだと思います。
それは昔の人たちが存在していた証、
だからこそ残していきたいし、しっかり受け継いでいかなければ
未来の子供たちは、自分の親や、おじいちゃん、おばあちゃんが過ごしてきた
過去を知らないまま過ごしていく事になってしまいます。


過去=現在=未来は繋がっています。
今が在るのは、過去が在ったから。


新しいものが次々と増えてく「今」だからこそ
本当に大切なものをもう一度見直したいなと思いました。




私が生まれ育った島の祖先たちは、
どんな風に音楽と関わってきたのか。


<音楽=島唄>
   
  音楽も奄美と沖縄は異なる。沖縄民謡が明るい階調であるのに対して、奄美の島歌はもの哀しい旋律のもの
  が多く奥行きが深い。江戸時代徳川薩摩藩支配下、お上への上納としての取り立てが厳しく、島民の生活が
  大変苦しかった当時の社会的な背景もうかがえる。
奄美の島唄と沖縄民謡は音階がちがう。
奄美群島5島を大まかに二つの文化圏に分けることができる。奄美大島本島、徳之島、喜界島を奄美1文化
圏、沖永良部島、与論島を奄美2文化圏。後者は琉球色が濃い。

  代表的な島歌=「朝花」「くるだんど」「行きゅんにゃ加那」「かんつめあごぐわ」「糸繰り」「ヨイスラ」「豊年節」
  「長雲」「長朝花」「嘉徳なべ加那」「むちゃ加那「野茶坊」「奄美小唄」(奄美大島本島)
  琉球音階と違い、奄美独特の旋律を持っている。

舞踊曲として最も有名なものは「六調」。(=本土の舞踊形態特に四国徳島のそれと似ている)

  「稲すり節」「サイサイ節」「永良部百合の花」「あんちゃめぐわ」「ちゅっきゃり節」「ウシウシ「福らしゃ」
  (沖永良部島) やや琉球音階に近い。
  「島育ち」「島のブルース」「徳之島小唄」は民謡歌謡であって生粋の民謡ではない。

三味線を弾きながら歌う島唄のスタイルは、琵琶法師が琵琶(びわ)を弾きながら歌うそれと似ていて、メロデ
  イーは哀愁をそそるものが多い。 労働の歌、豊作を祈願する歌、愛しい人を思う歌、祝い歌など多種である。
                            (鹿児島県奄美大島の歴史と文化 より)
  
  http://www.sh.rim.or.jp/~misshie/amami.htm






 沖永良部民謡と沖縄民謡について、私も三線教室に通いお世話になっている
川畑先民先生の本「三味線と島唄に生きて生かされて七十年」の中に書かれていたので紹介します。






沖永良部民謡として歌われている曲は四十曲から五十曲あるが、その中には
沖縄で歌われている唄もある。
古くから歌われている
沖永良部「ヨーテ節」を沖縄では「西武門節」と

「ユイヤサーサ」を「汗水節」



   「チンダラ節」を 「安里屋ユンタ」

と言い、「恋ぬ花」「れんさー節」など、まだまだ他にもある。


沖縄では、三味線のバチ数を少なくし、スローテンポで唄もゆっくり歌う。
それに比べて沖永良部では、バチ数を多く入れて少し速いテンポで、唄もそれに合わせて歌う。
そこが沖永良部と沖縄の違う大きな特徴だと思う。
沖縄はスローテンポの中に勘中を込めて歌う。
沖永良部は少しテンポを速めて軽快感を出して歌う。
その違いは大部分の曲に該当する。


沖縄音楽界のリーダー知名定男氏に聞くと、沖永良部で歌っている唄に似ている唄が、沖縄にもあると語ってくれた。
そこで、実際に比較してみることにした。


沖永良部での曲名     沖縄での曲名
・永良部百合の花     ・スンガー節
・くじゃく節       ・マーミナー節
・いんたぶれ       ・道ぬ島節


他にもまだあるが、このようにして沖永良部と沖縄には
曲名は違っていても内容的には似た曲がたくさんみられる。




   沖永良部の三味線の特徴と魅力


民謡の場合には、その地域による特徴があるが
沖永良部の民謡と三味線の場合は、音声に柔らかさと「クイ」(装飾音声)と特徴としている。
特に三味線のバチ捌きは肝心である。
柔らかいバチ捌きには柔らかい唄がでて、聞く人を魅了する。


また、民謡は心で歌うものであり、無理して上手に歌おうとすると
かえって情をはずした音声となり、聞き苦しい唄になる。
あまり力みすぎると唄の質まで変えてしまうので、簡単そうで難しい。


さらに、民謡には素朴さもなくてはならない大事なものであり、
唄者はそれを決して忘れてはならない。


沖永良部の三味線は、沖縄や本土の三味線とは異なり
「くすぐり」音が入り、音の柔らかさが「クイ」を作る。
それが沖永良部三味線の特徴である。


三味線を長時間引き続けると、だんだん音が変化していく。
物静かで風の音もない静かな夜、
午前一時まで遊んで家に帰る途中、
道端に腰を下ろし一人で弾く三味線には、
いかにも側で美しい女性が一緒に歌っているような感じがする微妙な音を出し、
一人で弾いていても音に酔いしれ、夢幻郷に誘い込まれ、いつまでも弾きつづけるのである。


昔から三味線は弾けば弾くほどきれいな音が出ると言うが、
自分で弾く三味線に酔いしれることができるからだと思う。
(川畑先民 三味線と島唄に 生きて生かされて七十年 より一部抜粋)














以前でもコラムで先生の紹介をさせてもらいました。
沖永良部島で生まれ育ち、島を出て生活をしたことがないと言っていました。


純粋に島を愛し、島の民謡を育て、
若い人たちに伝えている先生。
少し前には少なかった民謡を学ぶ生徒が、年々増えているそうです。


私も今、教室&独学で三味線を弾いていて、沖永良部独特の奏法「クイ」を練習中です。




ずっと弾いていると、不思議と弾いているのに唄っているような感覚になる瞬間があります。


弾けば弾くほど奥が深く、魅了されていきます。


今まで民謡に触れる機会が少なかった私。


もっともっと島の民謡を自分の中に取り入れて、
伝えていけたらと思います。






私のオフィシャルサイトにも沖永良部島の事を少し紹介しているので、
よかったら覗いてみて下さいね。
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/YurikaOhyama/special/okinoerabu.html






*ゆーりー*






大山百合香プライベートブログ(KIND OF BLUE)
http://ameblo.jp/yurin0520/
ここからCD購入できます(ソニーミュージック オフィシャルサイト)
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/AI/YurikaOhyama/index.html



              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

The Okinawan spirits ~泡盛百花~vol.5 稲垣千明

2009年07月29日 | 水曜(2009年7~8月):稲垣千明さん
 最近では“エコ”という言葉を聞かない日は無いくらい、
世の中、環境問題に敏感になっていますね。私も“エコ”な生活を
目指したいと思いつつも、たいしたことはできずに“エゴ”の範囲内
程度のことしかできずにいます(苦笑)

 でも、エコって、今でこそ、意識したり努力しなければ達成できない
ことですが、昔は、日々の自然な生活がエコそのものだったんですね。
便利な生活を手に入れた反面、努力をしなければ環境にやさしくできなく
なってしまったのは、皮肉な結末だったかもしれません。
泡盛造りや、泡盛にまつわる文化について調べるうちに、そんなことを
考えさせられるようにもなりました。


かつての酒造所内に残る豚小屋の跡

  かつて泡盛の酒造所と養豚は、深いつながりがあったといいます。
それは、泡盛を蒸留した際に出る蒸留かすが、豚の飼料にとても重宝とされて
いたからです。酒造所内で豚を養うことも、珍しいことではありませんでした。
泡盛の蒸留かすを食べて育った豚は肉質が良いと言われていたそうで、人気が
高かったという話もあります。酒造所には、蒸留かすを譲り受けに(場合に
よっては買いに)、容器を持った農家の方々が並ぶこともあったとか。

 
タンクの中で発酵中のもろみ。これを蒸留すると、蒸留かすが残ります。



蒸留かすを貯めていたタンク。譲り受けに来る農家の方は、このタンクから容器に
移して持っていきました。

 また、この蒸留かすは、人間の食用にもなりました。離島のほうでは、調味料の
ように使われていた様子も聞き取ることができます。お刺身をあえたり、小ぶりの
カツオを丸ごと煮るなんていうお話もありました。こうして煮たカツオは、「骨ま
で柔らかくなって食べやすいんだよ」と教わりました。


少しだけ蒸留かすを飲ませていただきました。酸味はやわらかくて、絶妙な風味。
私には好みの味でした。


少量もらいに来る方のために瓶詰めにしている様子。
今でも、食用に欲しいと求める方がいらっしゃるそうです。

飼料になったり、調味料代わりにもなったり、泡盛の蒸留後に残ったものも、
捨てることなく活用されていたのですね。

 かつては蒸留かすのまま活用され、近年ではもろみ酢として売られている
泡盛の副産物ですが、その合間には、産業廃棄物のように扱われざるをえなかった
時期がありました。戦後の復興とともに、泡盛の製造量が飛躍的に増えた反面、
豚を養う家や農家が減っていってしまったこと、さらには衛生面や臭気を理由に、
酒造所で豚を養うこともよろしくないとされてしまったことで、行き場の無い蒸留
かすが大量に出るようになったのが、その大きな理由だったようです。

 
市街地や住宅地に近くない立地を逆に利用して、隣接する農地で昔のように
蒸留かすを活用していきたいと考えている酒造所もあります。

 近年、ふたたび、蒸留かすや、もろみ酢の利用に注目が集まるようになり、
健康ブームともあいまって、もろみ酢の人気が高まりました。副産物を無駄に
しないこと、これも“昔の当たり前”ながら、こんにちでは立派なエコ。
ブームで終わらせないで、大切にしていきたいですね。 



text:稲垣千明





              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

うちなー唄の道行けば vol.4 上間綾乃

2009年07月28日 | 火曜(2009年7~8月):上間綾乃さん
民謡コンクール(試験)について紹介します

先日、第6回琉球國民謡協会コンクールが実施されました。
試験の段階は新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範。教師師範は一年越しで、
今回は二日間に渡り新人・優秀・最高の試験が実施されました。
私が通う教室からも受験者がいたので応援へ行きました。






試験会場の様子です。
受験者の前にマイクがありますが、録音用のマイクでスピーカーへの接続は無く、
生声で勝負。
最前列に審査員の先生方がズラリ!10人ほど。
サイドには協会の会長・副会長・理事長が控えています。
会場後方は一般席で、物音もなく静まり返っています。

受験者の皆さんはこの日のために日々稽古に励み、
3分足らずのステージで勝負するのですから、その緊張は大の大です!
私も受験の時は緊張しました。
受験者の方を見るとあの日の緊張がよみがえってきます。

高校3年生「金城実咲」さんを追っかけて紹介します。
試験の正装は琉装。朝早く起きて準備。
髪を結い、化粧をし、綺麗な着物を着て試験に挑みます。







試験会場には三線教室の仲間全員で応援に駆けつけます。
仲間の前で声出し練習。




実咲さんは実力派なので心配はしていませんでしたが、本番に近づくにつれて
緊張の色が見えてきました。



舞台袖で受験者が控えています。



そして本番


審査基準は、声かが出ているか・音程・三線のバチさばき・礼儀作法などなど。

試験を終え、安堵の笑顔でパチリ。



この様な感じで試験が行われます。
三線(民謡)の普及と伝統芸能を守り、伝承すること目的に
我が協会は存続しています。
私もその協会の一員として日々努力していきます。

実咲さん最高賞に見事合格しました!
おめでとうございます。



text:上間綾乃



上間綾乃オフィシャルサイト
http://uemaayano.com/




              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

歌をたずねて、あまハイ くまハイ vol.4 しゃかりチアキ

2009年07月27日 | 月曜(2006年7~8月):チアキさん
☆第四回目の旅 「黄金言葉~クガニクトゥバ~」☆


 日本全国、特に地方に行くとその土地独特の方言がありますよね。
私達の住む沖縄でも、今でも毎日使われている方言がたくさん残ってお
ります。
それを沖縄では「ウチナーグチ~沖縄口~」と言います。

私はおばぁちゃん子でしたので、幼少の頃から比較的ウチナーグチが分
かる方でしたが、
ある日バスに乗った時、前方に座っているオバァー達の会話をぼぉーっ
と聞いていたら、
どこの国にいるのか分からないなーと思いました(笑)
なので本土の人からすると余計に、
理解できない言葉もきっとあるのでしょうね。

私の愛読する『沖縄の古典文学』という本に、面白い話が載っていまし
た。
言葉は、時とともに移り変わって行きますが、
なんと沖縄の言葉の中には、一千年あまり前の昔から今日まで、
まったく変化のない言葉や、ほんの少ししか変わっていない言葉が
たくさん残っているのです。
その例を、いくつかご紹介しますね。

まず、奈良時代の「万葉集」から、

うぐいすの ”待ちかてに” せし 梅の花

この、”待ちかてに” という意味は、
「待つに耐えかねて」という意味で、今日の日本語では
”待ちかてに” とはもう会話しません。
ですが沖縄では現在でも、
「 ”マチカンティー” したよ~ 」と言って使われております。

また他では、

古語=まじもの  ウチナーグチ=マジムン
意味=魔物

古語=よこしものいい ウチナーグチ=ユクシムニー
意味=嘘

古語=しし(獣、宍)  ウチナーグチ=シシ
意味=肉

古語=ひる(蒜) ウチナーグチ=ヒル
意味=にんにく

等々。。。他にもたくさんありますが、
ほんとにびっくり! 
今でも普通に使っている言葉がたくさんです。
大昔の人々と同じ言葉を使っているなんて、
考えるだけで嬉しいしロマンチックで素敵です。

そしてその先人達は、多くの教訓語・教訓歌、
いわゆる『黄金言葉~クガニクトゥバ』もたくさん残して下さいました。

全国でも活躍するたくさんのウチナー芸能人&アーティストが発してい
るので、
もしかすると耳にした事もあるかも知れませんね。

黄金言葉の代表的なものとして、

なんくるないさ =なんとかなるさ

いちゃりばチョーデー =行き逢えば兄弟

ぬちどぅ宝 =命こそ宝 

等々。。。
(もっと詳しくは、「沖縄の風」内、”ハイサイ!! うちなぁぐち~
比嘉光龍~”さんの方をぜひチェックして下さいね)

私達はその黄金言葉に、何度励まされ元気を頂いたことでしょう。
本当に心から感謝感謝です。

だからその黄金言葉を風化させてはいけないし、
次世代へも絶対に残していきたいと思っているアーティストも、
きっと少なくないでしょう。
しゃかりも勿論、そう強く思っております。

さて、それでは今回の「歌をたずねて、あまハイ くまハイ vol.
4」
結びと致しまして、
しゃかりも黄金言葉のひとつをテーマとした楽曲を創りましたので、
ご紹介させて下さい。

タイトルは『結まーる~ゆいまーる~』。

『結まーる』とは、支え合う、助け合うという意味で、
勿論この言葉も、今でも大事に使われている黄金言葉です。

歴史上ウチナーの先人達は、幾度と大きなケガをしてきましたが、
でもそんな時でも進む道を誤ることなく、
倒れることなく諦めることなく、笑顔絶やさぬ明るく元気で気持ち豊か
な、
そして歌をこよなく愛する心を繋いで下さりました。

その大きな支えとなった『結まーる』精神。

私達も決して、忘れてはいけない心です。

今は簡素化や流行で、言葉が目まぐるしく変化し、
中には便利さを強調するものもありますが、
でも、このような美しい言葉達は、決してないがしろにしてはいけない
ものだと、
私は強く思います。
だってそれは、人と人としかできない対話、
大切なコミュニケーションなのですから。


『結まーる』  作詞:チアキ 作曲:上地一成

   

1. そっと心を静めて 風に耳を澄ませば
  いにしえ人の残した 黄金言葉 聞こえてくる
  辛い歴史の涙も 希望の笑顔咲かせ
  永遠に続くこの地球の 幸せを願うチカラ

平和への祈りをつなぐ
輝く 魔法のことば 「結まーる」

描いた未来を信じて 心と心を 重ね合えば
   そこからきっと 奇跡が生まれる


2.  いつの時代も人々は  誰かを愛し愛され 
   与える喜びを知り  生きる意味を追いかけて

美しい明日をつくる
輝く 魔法のことば 「結まーる」

特別なことはいらない 優しい温もり 感じ合えば
    奇跡はきっと とても簡単


☆平和への祈りをつなぐ
 輝く 魔法のことば 「結まーる」

 描いた未来は消えない 僕らの想いが 続く限り
    そこからきっと 奇跡は永遠



ありがとうございますm(__)m




text:しゃかりちあき



しゃかりオフィシャルサイト(言葉のかわりに心の歌を)
http://www.syakari.jp/


動画『結まーる』


新曲『結まーる』
2009年5月14日~
着うたサイト『沖縄ちゅらサウンズ』にて独占先行配信!!!
http://www.cyura.com/pc/





              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト




沖縄取材こぼれ話 vol.4 まっぷるマガジン編集スタッフ

2009年07月25日 | 土曜(2009年7月~):編集スタッフ
2009年7月22日、ビバ日食!!





沖縄で見ました、日食を!
当日は天気にも恵まれ、絶好の日食日よりで、
事務所近くの公園で日食観賞ショーを楽しみました。

「ピンホールカメラの原理で日食が見られる」
というネタをネットから仕入れ、
ガビョウで紙に穴を開けて、影越しに日食具合を見たり、
事前に購入していた日食グラスで太陽を眺めたり。
「欠けとるわぁ~、三日月みたいじゃあ」と広島弁丸出しで、感動していました。





最大日食が起こる10時54分近づくにつれ、
夕暮れ時でもなく、曇天でもなく、
不安感をあおるような異様な薄暗さが回りに立ちこめ。
ふと、太陽を見上げると、
(翌日、雨が降るときに見える月の傘みたいな)
大きなリングが太陽の回りを囲み、これがとても神秘的で、神秘的で。

沖縄は9割以上、太陽が月に隠れる部分日食でしたが、
残り1割の光でも、それは月明かりよりも明るくて
太陽のすごさ、ありがたさを実感しました。

日食、スゴイです。
今度は、皆既日食を見るぞぃ。












text:まっぷるマガジン編集スタッフ(イデー)




<Ahref="http://www.okinawa-wind.com/">
              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト




紅茶の島のものがたり vol.17 冨井穣

2009年07月24日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第17話
出会い

 工場横の作業机で出迎えた山城は、ポットで湯を沸かし熱い紅茶を差し出した。雨上がりの太陽に周囲の草むらは煮えたぎり、一斉に鳴き競う虫の声が蒸し暑さを助長する。流れ落ちる汗をつなぎの袖でぬぐいながら、ゆっくりとたばこをくゆらせ、相手の言を待った。すると、
「紅茶を、一緒に組んでやらないか」
 思いもよらないセリフに、山城は耳を疑った。青年の顔にはいつもと変わらぬ温和な笑みが浮かんでいるものの、眼鏡の奥のまなざしは真剣そのものだ。
 青年の名は崎浜竜也。工学系の大学院を卒業後、外資系石油会社に勤務し、研究職から貿易業務まで手がけていた手腕家で、生まれ育った沖縄へ数年前に帰郷。以後、各方面へ顔を出し沖縄での基盤作りを進めていたところで、才知にたけたその仕事ぶりは山城をはじめ衆目の認めるところだった。これは山城にとって、願ってもない援軍の登場である。
 とはいえ崎浜は、茶業のみならず農業に関してはまったくの素人である。第一線の企業戦士としていくら実績があったとしても、お天道様相手の農業が、市場原理にそぐわないことはよく指摘されることである。
 生粋の土着農家と世界をまたにかけるエンジニア。まるで接点のない二人が、一緒に働いている光景を想像するのは難しい。
 果たして回答を迫られた山城は、どのような決断を下したのか。意外にもその答えは、迷うことなく「イエス」だった。
 以前から山城は、農業には異業種の人材の参入が必要と考えていた。農業未経験者が一朝一夕に利益を出すのはたやすいことではない。しかし、農業にどっぶりつかった自分たちとは違った視点からいろいろな示唆を与えてくれれば、新しいアイデアが生まれたり問題の解決方法が見つかるかもしれない。さらに異業種間の連携が進んでいけば、いわゆる「シナジー効果」が発揮され社会全体に対してもプラスに作用するはずだ。
 一方で、なぜ崎浜が山城と組もうと思ったのか、と疑問がわく。実はそこには、崎浜のある思惑が潜んでいた。
 崎浜が東京の会社を辞め、Uターンを果たしたのは「沖縄の産業振興のため」だった。
 なぜ沖縄と本土ではこんなに所得格差が大きいのか。沖縄は先の大戦で「本土防衛の砦」として戦ったのに、なぜ十分な高配が与えられないのか。
 幼少時からそうした思いを抱き続けてきた崎浜は、沖縄へ戻るに当たって、「将来、基幹産業になるようなフィールドは何か」を模索し始め、そこで自分の経験と能力を最大限に発揮しようと考えていた。そんな折に山城と出会ったのである。
 崎浜には長年、石油会社に勤めていた経験から、「世の中では原料と地面を握っている者が一番有利」という確信があった。そして、それらを元に生み出される製品には、なるべく添加物を加えてはいけない。例えば自動車のように何種類もの部品を組み立てて作る製品は、原料が高騰したり部品が欠損したりするリスクが付きまとう。リスクが高ければ、その業種は基幹産業には育ちにくい。まして沖縄のように、経済基盤がぜい弱な場所ではなおさらだ。
 そこで目を付けたのが、山城の紅茶だった。広大な茶畑という「地面」が確保されている上、長年培われてきた無農薬有機栽培という付加価値もある。また紅茶の製造は、「原料」の茶葉を発酵させるだけなので余計な「添加物」が入らない。(現在もハーブティーなどのブレンドティーを作らないのはそのためである)。つまり、山城の作る紅茶には沖縄の基幹産業として成長できる要素が備わっており、崎浜はそこに自己投資しようと決意したのである。もちろん、沖縄で茶業を営むなら緑茶より紅茶のほうが適しているという下知識は持っており、「沖縄で栽培された紅茶はアッサムにも劣らない将来有望なもの」と唱える人がいることも知っていた。
 こうして山城の紅茶作りは、山城と崎浜による二人三脚の体制に進化した。畑の管理や茶葉の育成は今まで通り山城が担当し、崎浜は製造工程の効率化や販売体制の整備など経営面をサポートするという仕組みである。崎浜は「企業体」として最低限のルール作りにも取りかかり、例えば
「社会経験と実績は、山城より僕のほうが多いのは厳然たる事実。今後の方針について二人の考えが折り合わないときは、僕の意見を優先します」
 と崎浜は言う。
 まったくの異業種にやって来て、さまざまな試みを断行できる崎浜の自信と能力に感服するとともに、それを受け入れられる山城の懐の広さも称賛に値しよう。
「農家だからといって、全員が泥と汗にまみれて作業する必要はないでしょう?山城と僕を比較すると、山城は肩までどっぷり畑に漬かりながら、物事を考えるために頭だけ外に出しているようなタイプ。僕が漬かっているのはせいぜい腰のあたりまでかな(笑)」
 そんなクールな農業も面白い。



紅茶の製造作業をする崎浜。「力作業はすべて山城まかせ」だそうだ





text:冨井 穣





              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

~スローライフwithみゅーじっく~ vol.4 大山百合香

2009年07月23日 | 木曜(2009年7~8月):大山百合香さん
うがみやぶら~!
大山百合香です。今週もよろしくお願いします。


さて、先週は読谷のお話をしました。


先週の続きなのですが、
読谷を後にして向かった先は、宜野湾にある大好きなパン屋さん「宗像堂」。


無農薬米から作る天然酵母を使用し、手作りの石窯で焼き上げるパンは、
本来のおいしさが際立ってとても美味しく、本格派のパンです。
ここは以前から通っていて、毎回行くたびに出来立てのパンの香りに癒され、お店のみかさんが笑顔で迎えてくれ
自然の中で美味しいパンをいただく、しあわせなひと時を味わえる場所なのです。


今回はこの宗像堂の6周年記念のお祭りが行われ、招待して頂きました。



この大好きなパンたち、食べ放題!オリーブオイルなどをかけていただきます。


奥にはいろいろな出店が並んでいい香り♪


そしてNUUさんのLIVE♪
http://nuu-nuu.com/


ギターは、私も以前お世話になったオオニシユウスケさん!
また沖縄で再会できるなんて!


NUUさんの歌は生で聴いたのは初めてでした。
のびやかで、どこまでものびていく透明感のある歌声にうっとり。
それでいて自然体で、ほんわかした優しい空気を放ってくれるNUUさん。
ステキすぎる。







すてきな音楽とすてきな食べ物に包まれ
しあわせなひとときでした。



食と音楽は常に共存しています。
生きてる中で欠かせないもの。




夢のひとつで
農場ライブを実現したいという夢があります。


実家が農家なので、あの赤土の上で唄ってみたい。
自分たちの手で愛情を込め育てた野菜たちに感謝して
食を囲みながら音を楽しむ。
音を食す。


ん~、
最高に楽しそう!!


いつの日か実現してみたいものですね!




そして、実は今
地元の沖永良部島に帰ってきています。
昨日は皆既日食が見られるということで各地で盛り上がっていました。
所々見え方が違ったみたいだけど、沖永良部では天気にも恵まれ
部分日食が見れました。





(デジタルカメラからの撮影なので画像は悪いですが???)

辺りはだんだんと暗くなり、
鳥が飛び交い
島が神秘的な空間に包まれました。





偶然にも。。。
飛行機と日食のツーショット!!




次に日本国内で日食が見られるのは26年後の2035年、
同じ地域で皆既日食が見られるのは300年に一度ともいわれています。


「日食」日を食す。
この歴史的な瞬間を少しでも目にすることができて本当によかったです。

自然に生かされてることを改めて感じる事ができました。




感謝。




text:ゆーりー



大山百合香プライベートブログ(KIND OF BLUE)
http://ameblo.jp/yurin0520/
ここからCD購入できます(ソニーミュージック オフィシャルサイト)
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/AI/YurikaOhyama/index.html
小さな恋のうた 大山百合香





              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

The Okinawan spirits ~泡盛百花~vol.4 稲垣千明

2009年07月22日 | 水曜(2009年7~8月):稲垣千明さん
現在、沖縄県内には47の泡盛メーカーがあります。
面積2265平方km、人口約130万人の島県には、多い軒数のように思われるでしょうか? 
いえいえ、もっと驚く数字があります。今から116年前の明治26(1893)年当時、
沖縄県内の泡盛メーカーは、なんと、その10倍近い447軒を数えたというのですから、
びっくりしますよね!

  
昔の酒造所を彷彿とさせる風景



 二回目のブログで、琉球王府が泡盛造りを取り締まっていたことを
ご紹介しましたが、
琉球処分で琉球王国が失われると、それまでの取り締まりの仕組みも
無くなりました。
そして明治12(1879)年に琉球藩から沖縄県となると、免許料を払えば
誰でも酒造が許されるようになりました。
その免許料も、それほど高額ではなかったことから、またたく間に
酒造所の数が増えたということだったようです。

 それにしても447軒は、あまりにも多い?! ご心配なく! 
そのほとんどが家内工業であったり、副業的な規模での酒造で、
一軒あたりの製造量は、わずかだったといいます。

 地方や離島で、かつての泡盛の流通や製造に関して、お話をうかがうと、
そういった酒造のスタイルに通じる内容を多く聞くことができますし、
現存する酒造所にも、そのイメージが重ねられることが少なからずあります。



与那国島の祖納(そない)集落と久部良(くぶら)集落


 与那国島には、現在でも3軒の酒造所がありますが、かつては、この軒数を
上回る酒造所があったそうです。
 西表島には、現在、酒造所は一軒もありませんが、私が現地でうかがったかぎり、
2ヵ所で酒造が行われていたようです。
 与那国島は現在、人口およそ1700人、西表島は2300人。
どちらも、現在の人口からすると、一軒あたりの酒造量が多くないとしても、
それでも、まだ、その酒造所の数は多いと感じるかもしれませんね。
でも、これらの酒造所が大いに稼働した時代もあったのです。

 
かつて酒造を行っていたという西表島の星立集落


 与那国島はかつて鰹漁や鰹の加工業、貿易などで栄えた時代があり、
当時の人口は4万人にものぼったといいます。映画館や銭湯、飲食店も
たくさんあったそうで、お酒の消費のほども想像できます。
西表島にも、かつて炭鉱労働者があふれた歴史がありました。造った泡盛を、
炭鉱まで売りに行っていたというお話も、うかがっています。


与那国島では、今でも鰹漁がさかんです

 
西表島の炭鉱跡。今はジャングル状態です。
 
 

泡盛や酒造所の歴史を追うとき、そこからさらに見えてくる地域の歴史が
あります。泡盛は雄弁な歴史の証人でもあるのです。





text:稲垣千明





              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト

 

うちなー唄の道行けば vol.3 上間綾乃

2009年07月21日 | 火曜(2009年7~8月):上間綾乃さん
うちなーんちゅの血が騒ぐ

お正月や旧盆の時期になると、スーパーのBGMにはカチャーシー曲が流れます。
勝手に足がリズムを取り、勝手に手が踊りだします。
そんなお茶目(?)だった小学生の頃の私。(今でもたまに^^:)
そんな姿を見て母は笑顔で「あんたよ~」といいながら面白がっていました。

民の謡と書くぐらい、民謡は本当に日常生活の中に溶け込んでいます。
労働・教訓・恋唄など、日常の風景が映し出されている曲が沢山あるということもそうですが、私たち家族は、日常会話の一部分を唄でやりとりすることがあります。

2階に居るおばーと、1階の私たちを結ぶ電話があり、
おばーとお出かけするので、2階のおばーの呼び鈴をならしました。

私「ぷるぷるぷる(呼び鈴)」
おばー「は~い?」
私「行ちゅんど~や加那志~」(行きますよ、愛しい人よ)
おばー「待ちみそ~れ~里前~」(待ってくださいアナタ)

西武門節(にしんじょうぶし)という曲の一部分で、男女の掛け合いの唄です。
さすがおばー!笑いながら唄でかえしてくれました。
このおばーの血をひいているからスーパーでカチャーシーを踊ってしまうんだ。うん。
血は孫の私、そして曾孫までちゃんと受け継がれています!

ぐずってなかなか眠らない姪っ子に、唄を聞かせてあげようと三線を手に取り唄うと
逆に目が覚めてしまい、三線に興味深々!(唄だけ唄うと、すやすやと夢の世界へ^^)
この子にもしっかりと沖縄の血が流れていると実感でき嬉しくなりました。
三線を触りたがるので膝に乗せて一緒に弾きました。声をあげて大喜びです。



三線をするかしないかは本人の意思。私も自分から習いたいと言ったように、姪っ子にも強制は決してしません。
「綾乃おばちゃん。三線習いたい!」って言ったら教えてあげてもいいかな(笑)

いつかライヴ会場で姪っ子を見かけたら、
皆さん仲良くしてあげて下さいねm(_)m

おばーと姪っ子のほのぼの写真です♪



text:上間綾乃



上間綾乃オフィシャルサイト
http://uemaayano.com/




              ★沖縄観光の旅行雑誌を作る会社が素顔の沖縄を紹介するサイト