沖縄Daily Voice

沖縄在住の元気人が発信する

オキナワ写真日記 vol.5 大湾朝太郎

2009年04月30日 | 木曜(2009年4~6月):大湾 朝太郎さん
散歩写真


カメラを片手にブラブラと散歩をするのが好きです。
写真は読谷をブラブラした時の写真です。


■西日に照らされた赤瓦とシーサーがキレイでした。




■沖縄はトタンで作った家とかがあります。そのトタンとトタンの間からよくハイビスカスが咲いています。




■重そうな島バナナ達




■誰もいないやちむん工房は焼き物たちの存在をすごく感じました。



こんな風に散歩をしながら歩く早さで写真を撮っていくと、車などでは気づけないことに気づけるから楽しいです。


text:大湾朝太郎





沖縄在住の料理家から学ぶ「沖縄食材レシピ帖」 vol.5 砂川有紀

2009年04月29日 | 水曜(2009年4~6月):砂川有紀さん
夕暮れ時になると、頭を悩ます今晩のメニュー「沖縄っぽいメニューにしよう!!」と意気込んでみたものの、イマイチ使い方が分からない食材…。見よう見まねで作ってみたものの、出来上がりもイマイチ…。そんな苦い経験をふまえてできたブログです。週替わりで、沖縄に住む地元食材エキスパートのみなさんに教えていただいたレシピを紹介していきますので、沖縄食材にくわしくないビギナーさんも、沖縄食材に興味シンシンの方もぜひのぞいてみてください。


【今回の食材】さやいんげん



さやいんげんの旬といえば6月頃では??たしかに日本本土ではそうなのですが、沖縄では11~5月に収穫をむかえ、冬から春にかけて食べることができます。しかも沖縄育ちのさやいんげんは細めで食べやすいうえに、ポリポリとした食感が味わえるし、色も濃いめなので弁当などに彩りをプラスしたいときに便利なお助けベジ。今回はパスタでいただきました。


【メニュー名】
県産さやいんげんのトマトクリームパスタ




【材料(1人分)】
リングイーネ(厚さ1.4mmの平面パスタ…80~100g、にんにく…一片、生クリーム… 1/2カップ、トマトソース…大さじ2、さやいんげん、キャベツ、新玉ねぎ…お好みで


【作り方】
1.野菜の下ごしらえさやいんげんは沸騰したお湯でさっとゆで、半分に斜め切りする。新玉ねぎは薄切り、キャベツはひとくち大に切る。
2.パスタをゆでる。
3.ソース作りオリーブオイルでにんにくのスライスを香りが出るまで炒める→香りがしたら野菜を入れ、さらに炒めた後、白ワインでフランベ→生クリームを入れ、3分の2の量になるまで煮詰める→トマトソースを入れたら塩、こしょうで味を調える。
4.ゆであがったパスタをソースにからめれば完成。


【今週の沖縄食材エキスパート】
maru CAFÉ
住所/西原町上原322-2
TEL/098-945-8883
営業時間/ランチ11:00~15:00、ティータイム15:00~18:00、ディナー18:00~25:00
定休日/第1月曜ホームページ/http://www.ryoji-family.co.jp/marucafe/maru-cafe.html



那覇のおとなり、西原町。maru CAFÉさんがある西原町は、那覇市首里あたりからだと車で約15分くらい。ほどよく緑も残されていて、落ち着いた雰囲気がただようエリアです。そして町内には琉球大学やキリスト教短期大学もあるので、maru CAFÉさんのような学生さん向けのお店が多いところも好ポイント♪なんとなくお気に入りの町、西原町。



text:砂川有紀




ミツが観る沖縄のクリエイター達とその生活 vol.5 吉見綾子

2009年04月28日 | 火曜(2009年4~6月):吉見綾子さん



私の朝いれるコーヒーのお気に入りのセット。
山ひつじ舎の直火オーケーのチャイポットとコーヒーカップ。

彼女の作品と出会ったのは、読谷村の共同売店だった。
そこは村内の陶芸作家の作品が一同に売られているところだ。
沖縄独特の素朴な模様のはいった器たちの中に、ぽわっと白く、絵も小さくほんのひとつさらっとあるだけの器があった。あまりにも他と違うアプローチにぐ~んと引き寄せられ、作家の名前を見た。女の人だ!



ある日、娘が通っていた保育所で、彼女と保護者として出会った。
女手ひとつで娘3人を育てている優しくてたくましい母だった。
それからは、娘どうし同じ年というのもあって、彼女の小さくてかわいい家へ何度となく遊びに行かせてもらい、私は彼女のことをとっても気に入ってしまった。



彼女の器は見た目が他の人と違うだけでなく、何というか、たたずまいがちがう。「自分はこのくらいで」というような控え目な器の「このくらい」に彼女のパンクさがある。他のいろんな陶芸家の男どものヘタなこだわりや自己表現を一掃するところがある。
忙しい母だからこそ必要なもの以外はそぎおとされ、できるもの、あるものでまかなってしまう逆こだわりがある。そこがカッコいい。
母親という目線をもっているのも好きだ。常に使う側だからこそ生まれた物や形がある。



こんな土鍋!まるで生き物みたい!
これは、我が家に生息しているやつです。

彼女の器は
読谷村の共同売店、
宜野湾市のmofmona no zakka、
那覇のMAXI MARKET、
首里のエコショップえころんなとで取り扱っています。

そして明日、読谷村のむら咲むらで行われる市場と音楽「きとねいち」(http://kitone1.exblog.jp/)にも出店しています。ちょっと画像が悪いけれど、これは出品予定の「ポレポレファミリー」。。。一輪ざしです。



来週は「山ひつじ舎」未可さんの生活の一部、「本」について書いてみます。
近所の友達の間では「山口文庫」ともよばれている彼女のたくさんの蔵書の数々。
私も彼女から借りた本で影響を受けたものがたくさんあります。
きとねいちのリポートも交えてお伝えします。
お楽しみに!

明日のきとねいち晴れるといいな!
よかったら、遊びに来てください!売り切れ御免!マイ食器ヨロシクです!


text:吉見綾子





ハイサイ!! うちなぁぐち vol.5  比嘉光龍

2009年04月27日 | 月曜(2009年4~6月):比嘉光龍さん




 さて、今回は前回のブログにコメントを頂いた方の質問をもとに書きたいと思います。うちなぁぐちのエキスパートになったのは、どういういきさつで?とのことですが、エキスパートと言われると嬉しいのですが、私はまだまだ修行中の身です。

 うちなぁぐちを話し、また、講師までするようになった理由ですが、大きくわけて二つあります。一つは、うちなぁぐちは、日本語や英語などとくらべて劣っている、言語として成り立たない、だから方言のレベルで良いのだという世の中の雰囲気に対抗したいという気持ちが根底にあるから。
もう一つは、うちなぁぐちは少数言語、現在では危機言語と言われていますが、それが私の生い立ちときれいに重なるんですよ。だからこそ、世界中に存在を知らしめたい、世界の人に私という特殊な人間が存在することを知ってほしい、それと同じく、うちなぁぐちという言語があるということを知ってほしいと思うんです。この二つですね。
 
 Vol3に書いたように、私の父はアメリカ人、母はおきなわ人。けれども父は知りません、したがって、日本国籍のみで英語教育は一切受けていないんです。しかし、22歳の時に2年近く米国留学しました。父親は知らないので完全に日本人留学生という立場で日本のパスポートを持って出入国しました。そう、私は見た目は西洋人ですが、中身は完璧な日本国籍人です。日本国籍人と書いたのは、日本国籍を有してはいるが、おきなわ人として生きたいと思う願いからです。英語は留学してから長い間使っていないので、もう忘れました。
 
 さて、ここまで書いてどうでしょう、皆さま、私のことを理解できましたでしょうか?多分、理解するのは難しいと思います。何かドラマか小説のようにしか私のことを捉えることは出来ないのではないでしょうか?そうでしょう、私も自分自身のことをどうやって世間の人に理解させることが出来るのだろうかと考えたら結構面倒くさくなります(笑)
 自分自身の生い立ちと、うちなぁの歴史の複雑さ。思いっきり重なっています。私の中では。私は、24歳まで自分が何者で、どう生きれば良いか分からず色々悩んでいました。その時に出会った三線、それからうちなぁぐち、そしてうちなぁの歴史。それらが好きになり、それらを自分のものにすることによって自分自身、自信を持って生きていけると思いました。

 現在でも、日本語お上手ですね、日本に来て長いんですかと、良く外国人と間違えられます。まあ、顔が顔ですから、当たり前のことなんですけどね。しかし、答えるのが面倒くさくなることは多々あります。
しかし、そういう風に聞かれるたびに、私は、うちなぁんちゅであるということを証明して見せるぞ、と良い意味で、うちなぁぐちを勉強する活力になっているのも事実です。答えになっているかな?






※2007年2月にドイツのデュースブルクエッセン大学にて、世界中の危機言語についての意見交換会が開かれ、世界中の研究者のなかで私にも意見を発表してくれとの機会に恵まれました。写真はその模様と、デュースブルク市内で撮ったおどけた表情の私。


text:比嘉光龍










紅茶の島のものがたり vol.4 冨井穣

2009年04月24日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん

第4話

一番になりたい



 山城は男三人兄弟の長男である。物心ついたときから茶農家の息子として育てられ、少年時代は近所の大人たちから「いつも家の手伝いをして偉い子だね」と褒められるほど、毎日のように父について畑仕事をしていたという。
「それは正直言って、もっと友達と遊びたいと思いましたよ(笑)。自宅の庭が茶畑ですからね、学校から帰ってくると自分の当番が決まっていて、畑の水まきをしたり草取りをしたり、夜まで手伝わされることもありました。日曜日も祝日も関係なかったですね。少年野球チームに入ったのも、畑仕事から逃れたいという気持ちが少なからず作用したのかもしれません。でも父は、仕事の合間を縫ってよく野球の相手などをしてくれたので、“お父さんを早く仕事から解放して遊んでもらおう”と、子どもながらに一所懸命働きました」と山城は振り返る。こうして知らず知らずのうちに、茶農家として意識が体中に染みついていったのである。
 とはいえ、中学3年になるまで、将来は自分も茶業に就こうとはほとんど考えなかったという。むしろ父からは「あとを継ぐ必要はないよ」と言われていた。小学校、中学校と野球部に所属し、大きくなったら何になりたい?と聞かれれば、漠然と「プロ野球選手」と答えた。しかしその一方で、ほかに自分にできることは何があるのか、中学に入学したころから真剣に考え始めていた。
「やるからには自分が一番になれるものを目指したかった。野球が抜きん出て上手だったら、本気でプロ野球選手を目指したんでしょうけどね。勉強もいくら頑張ったところで、トップの連中には全然かなわなかったですし。それでは、なぜ茶業をやるつもりになったかというと、周りには農家になりたいという友達がほとんどいなかったからです。まして日ごろから畑の手伝いをしているのは自分くらいで、 “おれの家で遊ぼうよ“と友達をダマして連れてきては一緒に畑仕事をさせましたが、彼らはあっという間にへこたれてしまうんですね。ということは、農業の分野なら自分は一番になれる可能性が高い。家には祖父と父が地盤を築いてくれた土地がこれだけあるのだから、利用しない手はない」
 山城の家では茶業を営むほか、肥育用の牛を飼っており、進路の決定に当たってどちらの道を選ぼうか迷ったという。そこで、お茶と牛ではどちらが難しいか父に尋ねたところ、「そりゃあ、お茶に決まってる」と即答され、山城の腹づもりは据わった。
「困難な道を自ら選ぶ人は少ないはずだ。お茶の世界でナンバーワンを目指そう」
そして中学校の卒業文集では、将来の夢として「茶農家になる」ことを宣言した。
実はこのあと、山城は高校を中退している。やりたいことが決まっているにもかかわらず、それとは関係のない勉強や行事、交遊に振り回されるのが我慢できなかったようだ。30 歳を過ぎた今となれば、少し回り道でも高校3年間のいろいろな経験は必ず将来プラスになる、と達観できるかもしれないが、元来が一本気な性格で、血気盛んだった当時はなおさらそうもいかなかったのだろう。中退後は父に倣って、茶業に専念することになる。
 それにしても、「オンリーワン」という言葉がもてはやされる昨今において、「一番になりたい」という気概は実にすがすがしい。そういえば、時の天才打者イチローが、昨シーズン終了時、張本勲氏の持つ日本最多安打記録にあと2本届かなかったことについて、「一番になりたかった。僕はナンバーワンになりたい人。オンリーワンのほうがいい、なんて言っている甘い奴が大嫌い」と似たようなことを語っていた。また、野球を志した理由については、「自分ができる限りの勉強をしても、一番にはなれなかった。でも野球はみんなが一生懸命やっていて、僕は適当にやっても断然トップでした。野球だったら、好きだしおそらく一番になれるだろうと」と言っている。夢をつかむための原動力は、「一番になりたい」というシンプルで本能的な衝動にあるのかもしれない。

※写真は、現在の茶畑のようす。沖縄ではもう新茶の茶摘みが始まっています。


text:冨井穣





オキナワ写真日記 vol.4 大湾朝太郎

2009年04月23日 | 木曜(2009年4~6月):大湾 朝太郎さん
清明祭(シーミー)

先週シーミーでした。シーミーとは、家族と親戚でお墓に行き、ご先祖さまにあいさつをして、ごはんを食べる行事です。
毎年この時期みんなで草を刈りながらお墓にたどりつき、ご先祖さまに線香をあげてウートートー(手をあわせてお祈りすること)します。
そこで持ち寄ったごちそうをみんなで食べます。


■みんなでお墓の前でごちそう食べます。




■これがウチのごちそうです、自分は三枚肉が大好きです。




■まるでジャングルみたいですね。




■ウチのお墓は少し険しいところにあり岩を利用してお墓を作っています。いまでは珍しいと思います。




昔は子供として来ていた自分が、いまは自分の子を連れて来るようになると
こんな風にして受け継がれていくんだなと感じます。



text:大湾朝太郎









沖縄在住の料理家から学ぶ「沖縄食材レシピ帖」 vol.4 砂川有紀

2009年04月22日 | 水曜(2009年4~6月):砂川有紀さん
夕暮れ時になると、頭を悩ます今晩のメニュー
「沖縄っぽいメニューにしよう!!」
と意気込んでみたものの、イマイチ使い方が分からない食材…。
見よう見まねで作ってみたものの、出来上がりもイマイチ…。
そんな苦い経験をふまえてできたブログです。
週替わりで、沖縄に住む地元食材エキスパートのみなさんに教えていただいたレシピを紹介していきますので、沖縄食材にくわしくないビギナーさんも、沖縄食材に興味シンシンの方もぜひのぞいてみてください。


【今回の食材】パイナップル豚



「鳴き声以外は食べつくす」といわれる程、バラエティー豊かな豚料理がある沖縄。今回はパイナップルを食べて育てられた「パイナップル豚」を使った洋風レシピを教えていただきました。普通の豚肉よりも脂身が甘くて、臭みが少ないのが特長。
豚肉とあわせる青野菜は春ならほうれんそう、冬ならウンチェー(空心菜)と旬のものを使えば季節感を楽しめます。


【メニュー名】
パイナップル豚と島野菜のキッシュ風パイ包み焼き




【材料(1人分)】
パイシート…1枚、豚肉スライス(今回はモモ肉を使用)…50g、青野菜(今回はほうれんそうを使用)…お好みで、トマトソース…1/2カップ、卵…1個、にんにく…一片、パルメザンチーズ…お好みで


【作り方】
1.パイ作り
パイ生地を10cm角にのばしてデニッシュを作り(下の写真を参照)、210℃に予熱したオーブンで10分焼く。
2.ソース作り
オリーブオイルでにんにくのスライスを香りが出るまで炒める→香りがしたら豚肉を入れ、色が変わったところで白ワインでフランベ→トマトソースを入れたら塩、こしょうで味を調え、青野菜を数秒だけ炒める。
3.盛り付け
焼きあがったパイの中心にソースを流し、パルメザンチーズをかけてもう一度オーブンで90秒焼いてでき上がり。


★デニッシュの作り方★
   

        ①              ②            ③            ④

①パイシートを三角形に折り、-線のように包丁で切れ目を入れる
②切れ目を入れたパイシートを広げる
③下の部分を上に曲げる
④上の部分を下に曲げる


【今週の沖縄食材エキスパート】
maru CAFÉ
住所/西原町上原322-2
TEL/098-945-8883
営業時間/ランチ11:00~15:00、ティータイム15:00~18:00、ディナー18:00~25:00
定休日/第1月曜
ホームページ/http://www.ryoji-family.co.jp/marucafe/maru-cafe.html




♪つまみ食い♪
今回ご協力いただいたmaru CAFÉさんの店内に入るとすぐに目に飛び込んでくるアップルパイ。パイ生地のしっとり感とサクサク感のバランスが絶妙、熱すぎず、冷たすぎずの温度もグッド!な一品。


text:砂川有紀





ミツが観る沖縄のクリエイター達とその生活 vol.4 吉見綾子

2009年04月21日 | 火曜(2009年4~6月):吉見綾子さん
仲間が結婚式を挙げました。



私のパートナー、ダイキのジェンベ(アフリカの太鼓)のワークショップにも長いこと通っているアフリカをこよなく愛する読谷村・楚辺の女性、華英さん。そして同じ太鼓を愛する奄美大島出身の将人くん。
今回、昔ながらの、地元の公民館での手作りの結婚式を行いました。
仲間それぞれがクリエイトし、パワーを出し合って作り上げた結婚式をリポートします!



会場はこんな!楚辺公民館の体育館です。
まわり中が親戚や友人だから、沖縄の結婚式はとにかく人数が多い。招待人数360人!

お料理は、知る人ぞ知る「名前のない料理店」のフレンチ弁当。全品県産。



ウェディングケーキ&スイーツは、マクロビオテックのお弁当屋さんCafe Pachamama。



そして入場はアフリカンドラム!




引き出物は。。。


   MITSU PRINTのバック。       Doucattyのバンダナ。         匠工房の花器。



ベビチン・アートの手描き靴下。  山ひつじ舎のドレッシングボール。


ちなみに私(MITSU PRINT)は引き出物を入れる小さいバックも作ってます。それぞれの作家さんで色違いです。

そして、式の最後はやっぱりカチャーシーかと思いきや、アフリカの太鼓でした。



島ではとにかく、すべては自分たちで作って回していた。
それを体現するような式でした。今では沖縄もこんな手作りの式はなかなかないのではないでしょうか。やればできるねぇ。

気になる名前があったらさっそく検索してみて下さい!
きっと楽しい出会いがあるはず。
4月29日の市場と音楽「きとねいち」(http://kitone1.exblog.jp/)でもほとんど(名前のない料理店、匠工房除く)が出店しています!ぜひあそびにきてください。

来週は、この式の引き出物担当でもありました「山ひつじ舎」について書きたいと思います。この近所の姉さんはパンクだよ!お楽しみに。


text:吉見綾子





ハイサイ!! うちなぁぐち vol.4  比嘉光龍

2009年04月20日 | 月曜(2009年4~6月):比嘉光龍さん



 前回は、私の生い立ちを書きましたが、今回は私の現在の活動について書きたいと思います。
 光龍さんは普段何をやっている方なの?と質問をされることがあります。それには「唄三線者です」と答えます。聞きなれない言葉かもしれませんが、要するに、「うちなぁ(沖縄)」の三線を使い、「うちなぁぐち(沖縄語)」で唄を歌う。そういう人をちまたでは、「民謡歌手」と言っています。
「民謡歌手」という言葉には、少し抵抗があるので、造語ですが「唄三線者」と言う言葉を作ってみました。
 三線に始めて触れたのは24歳、うちなぁの唄を歌って行くうちに、言葉の意味、唄の歴史、ひいては、うちなぁの歴史にも興味をもつようになりました。そして、うちなぁの歴史を深く知れば知るほど、悲しい過去の事実を知ることになりました。例えば、1609年に薩摩が琉球を侵略したとか、1879年に日本が琉球王国を滅ぼしたことなど。
 それからは、うちなぁの独立うんぬんも考えたこともあるのですが、独立運動と言うのは、国とか国家などという概念に捉われてしまう感じがし、私には重すぎます。それよりは日本という国家の枠組みにいながらも文化的独立を果たせれば良いのではと考え、現在ひたすら「うちなぁぐち(沖縄語)」の普及、講義講演活動にいそしんでいます。
したがって、私は基本は唄三線者ですが、その他に、現在5つの顔をもっています。
1・ラジオ沖縄「民謡の花束・光龍ぬピリンパラン日曜日」のラジオパーソナリティー
2・琉球新報や沖縄タイムスにてうちなぁぐちのコラムを執筆。琉球新報で書いたものがhttp://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-129.htmlで読めます。
3・うちなぁぐちの講師を大学(ドイツの大学でも教えてきました)や、現在は那覇市にあるウェルカルチャースクール(http://www.well-culture.jp/pages/course02-24.html)で教えています。
4・老人会や各種団体、企業や大小色々なイベントなどで、唄三線と「ゆんたく(トーク)」というスタイルで講演をしています。
5・結婚式や「年日(とぅしびー)」、つまり「生年祝(せいねんいわい)」の司会業もつとめています。




写真は、結婚披露宴後、新郎新婦と記念撮影したもの。2人はプライベートでも知り合い。私が結婚式の司会をつとめることを知って、お願いされました。


text:比嘉光龍





紅茶の島のものがたり vol.3 冨井穣

2009年04月17日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第3話
山城紅茶の礎





 そもそも沖縄で茶業が開始されたのは、昭和初期にさかのぼる。本島北部の国頭村奥地区、金武村の松田地区(現宜野座村)、そして山城の茶園のある美里村山城地区(現うるま市)の3個所に茶園が整備され、各地に製茶工場が設置されていった。一説によると、沖縄の緑茶生産量は国内全体の1%に及ばず、消費量も全国一少ないそうだが、それぞれの地区ではその後も茶生産が行われており、県内には現在7つの茶業組合がある。例えば奥で作られる新茶は、毎年3月初旬に収穫される「日本で1番出荷が早い新茶」として、ガイドブックなどによく紹介されている。
 山城地区では5町歩の畑で生産をスタートした。当初は昔ながらの中国式の製法で、鉄製の釜で茶葉を炒って摘採後の発酵を止める「釜炒り茶」を出荷していたが、間もなく現在主流の「蒸し茶」に転換。茶業組合も結成され、地域のブランド茶「山城茶」の販売を始めた。今でも約60軒の組合農家が茶業を営んでおり、班ごとに手分けして畑を管理している。
 山城の家が茶業に携わるようになったのは祖父・長貞が組合長に就任してからのこと。市議会議員を務めるなど人望の厚かった長貞は、地域の茶業活性化に心血を注ぎ、その志を引き継いだ父・豊が、茶農家としての礎を築いたのである。
 ここで少し整理しておくと、山城の茶園がある地名も同じ「山城」で、祖父・長貞が代表を務めたのが同地区の「山城」茶業組合。組合の畑で収穫された茶葉は「山城」茶として出荷されているが、紅茶生産に現在使用しているのは山城の家の私有畑である。
「今ある茶樹はすべて、祖父から譲り受けた畑に、父が苗木を植えて育てたものです。父は探求心旺盛な生粋の農業人で、一から自分のやり方を試したかったのでしょう。今でこそ“エコ”“リサイクル”という言葉がもてはやされていますが、父は40年も前から有機無農薬栽培を実践していました」
 茶樹は苗木が成木するまで約5年かかる。つまりその間は茶葉の収穫ができず、生産性はゼロ。施肥や剪定などの手間を考えると、大きなマイナスである。それでも山城の父・豊は、耕作放棄されていた近隣の茶畑を開墾して日銭を稼ぎながら、成木までの月日を堪え忍んだという。
 無農薬栽培については、おもしろいエピソードがある。茶園経営には「農薬の散布が欠かせない」という通念があり、当初は父・豊も必要最低限の農薬を使って茶樹を栽培していたそうだが、ある年に試験的に散布を中止したところ、収穫量がほぼ半減。普通ならそこで「やっぱり農薬は必要だ」と思い直しそうなものを、豊は次の年も無農薬栽培を継続し、害虫対策どころか牛を飼って堆肥の活用を模索し始めた。すると翌々年には、収穫量が以前の水準まで回復したのである。当時のことを豊に尋ねると、
「農薬は害虫だけではなく益虫まで殺してしまう。害虫は成長が早いから、農薬に耐性のある世代が次々と誕生し、結果としていつまでたっても農薬の開発と使用に追われることになる。それならば、農薬の使用をやめて害虫が大量に発生し、一時的に収穫量が落ちたとしても、それに伴って益虫も増えるはずだから、そのうち自然と益虫・害虫のバランスが取れて収穫量は回復するだろうと考えたんです。収穫量が同じなら、農薬を使わないほうが手間もコストも省けますよね。むしろやらなければならないことは、ちょっとした害虫や病気に負けない健康な茶樹を作ること。そのためにも土作りはとても大切なんです」
 と言う。農業人の真骨頂である。

※写真は、昭和40年代初期の茶畑のようす(上)と、茶畑に立つ山城の父、豊さん(下)。

text:冨井穣