沖縄Daily Voice

沖縄在住の元気人が発信する

ミツが観るクリエイター達とその生活 vol.14 吉見綾子

2009年06月30日 | 火曜(2009年4~6月):吉見綾子さん



私の家の中にある魂のこもったものたち。

私は、沖縄は美しくも、厳しい土地だと思う。
でもここには、たくさんの物作りをする人達がいる。
私のように、外からやってきて創作している人もたくさんいる。
何がそんなに創作者を沖縄にひきつけるのだろう。



ここにまた、沖縄に創作の場をかまえようとする人物がいる。
「pUnk★TRibe」(パンク・トライブ)主宰BUNTAさん。
シルクスクリーンプリントでデザインからプリントまでをこなし、自作のTシャツなどを作っている。

今回、名古屋から、これから活動する沖縄の「場」と物作りについて、
メールインタビューしてみました。

      

1、自身のブランド「pUnk★TRibe」について話して下さい。
pUNk★TRibeとは名前の通りパンク民族という意味で、
僕の自己表現のルーツにはもちろんPunk(諸説ありますが僕にとってはイギリスを起源に生まれた独自の音楽、ファッションや生活様式を持つMovement)があって、それを突き詰めていたら世界中の国々の少数民族の文化や生活様式から近いものを感じて、民族雑貨や工芸品のような物を日本人のPunxが制作出来たら面白いなっと思いpUNk★TRibeを始めました。

いつから始めたかは覚えてないですが9年くらい活動しています。
発足当初はTシャツも工場で制作して貰ったり、洋服を友人の会社にお願いしてパターンから起こして作って貰ったり、
友人のアジア雑貨屋さんがタイへ仕入れに行く際にウエストポーチやバッグを作ってきて貰ったりしていましたが、
ここ数年は古着、Tシャツやお客さんから持ち込まれた服などににシルクスクリーンでプリントをしたりしています。

今年の2月まで名古屋の大須のアパートの一室を借りてPunk Tribe Reservationという名前で作業場兼お店を開いていましたが、
自分の中でそこでやるべき事はやった感もあり、一旦閉店して更なる展開を模索中です。



2、なぜ沖縄に制作の場を構えようとしているのですか?
前々から沖縄で制作活動に限らず音楽など色々やってみたいと思っていて、やっとその時が訪れたカンジです。
僕の印象では良い意味でも悪い意味でも沖縄には自己表現する事に対して決まり事がなく魅力を感じます。

沖縄という地にひかれるものがあるとすれば何でしょうか?
音楽、ゆんたく、Graffiti、うちなーたいむ、龍神マブヤー & My Lover

 

3、最後に、今後の沖縄での活動予定を聞かせて下さい。
最近恩納村のお店CHAOTICと始めた共同ブランド"Tribu del Punk Caotic@"をはじめ色々な人達と何か一緒に出来たら良いなと思ってます。
名古屋で知り合ったうちなー友達が桜坂に軽食★喫茶カラーズというお店を最近オープンして、そちらでも商品を取り扱って貰う予定です。
ちなみにキッズルームのカーペットやマグカップなどをpUNk★TRibeが制作しています。




。。。。。
私が、沖縄で物作りしていて本当に感じることは、人や島と関わりながら、自分が作らされているという感謝の気持ちだ。
たがいのつながりで、触発され、また自分が生かされてくる。
沖縄では、自分のとった態度が、色んな孤をえがいてまた自分に帰ってくるのを肌でダイレクトに感じることができる。そんな所が、沖縄で物作りをする魅力なのかもしれない。


BUNTAさんがまた、この地でどんな物を作りだしていくのかがとても楽しみだし、私にとってもいい意味で緊張感のある存在である。


text:吉見綾子



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ハイサイ!! うちなぁぐち vol.14  比嘉光龍

2009年06月29日 | 月曜(2009年4~6月):比嘉光龍さん



 皆さん、今年はうちなぁと、過去の琉球王国にとって重大な節目を迎える年だと言うのはご存じでしょうか? その理由は二つあります。

 一つ目ですが、今年2009年は、薩摩が琉球侵略をした年から、ちょうど400年に当たる重大な年なんです。
1609年、琉球は侵略を受け、与論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島、喜界島を薩摩に奪われました。したがって、現在の沖縄県の行政区域は1609年以降の琉球王国の行政区域をほぼ引き継いだものなんですね。しかし、うちなぁではあまり、薩摩侵略の事実は知られていません。1609年からうちなぁんちゅは自主独立という考えは奪われてしまったのではないでしょうか?1609年に何が起こったのか、うちなぁんちゅ、ひいては日本人のすべての人々は知る必要があると思います。ここをおろそかにし、また、ここをきちんと把握していないと、その後の「1879年(明治12年)」に琉球王国は滅ぼされ、沖縄県が強制設置された理由と、第二次世界大戦において、沖縄戦で軍民合わせ20万人が犠牲になった理由が分からなくなります。
それらのすべては1609年の薩摩侵略が起点となっていると言っても過言ではありません。それほど1609年というのは、うちなぁんちゅにとっては、とても重要かつ、とても重大な年なのです。

 この事実をきちんと直視するのは、うちなぁんちゅにとっても、日本人にとっても、つらいでしょうが、だからと言って臭いものにふたをして置くことをずっと続けていくと、最終的には大きな問題を抱え込むことに繋がっていくと思います。
もう400年になりますが、この歴史的事実に関しては、うちなぁんちゅも、また、薩摩である鹿児島も、また、日本も、現在の友好的な日本国のなかで、そんな過去のことは持ち出さないでおこうと黙っているような感じがしてなりません。現在、日本の国内では、沖縄県民だから、鹿児島県民だから、東京都民だからと差別する時代ではもうなくなっています。日本国民、北から南まで、みな仲良しでしょう。こういう時代だからこそ,あえて、私は言いたいのです、1609年のことを皆で考えようと。仲が良い時だからこそ、本当の意味で話合いが出来るのではないでしょうか?いったん仲が悪くなってしまうと、多分、話合いをするのは難しくなるでしょう。逆にこじれるかもしれません。1609年の歴史についての話合いがあちらこちらで持たれ、また学校教育でも教えられ、うちなぁんちゅならば誰でも知っている歴史にして行く必要があると私は思います。

 二つ目ですが、実は、今年の2月19日に、あの世界遺産で有名な「ユネスコ(国連教育科学文化機関)」が「うちなぁぐち(おきなわ語)」を「方言ではなく言語」として認めたのです。詳細はこちらを見て下さいhttp://www.asahi.com/national/update/0220/TKY200902200176.html?ref=rss

 これは大変なニュースです。「1879年(明治12年)」の沖縄県強制設置以来130年になりますが、1879年以前は薩摩が裏で支配していたにも関わらず、仮にも独立国家「琉球王国」として、アメリカやフランスなどと修好条約を結ぶほど、世界が認めていた独立国家でした。琉球王国は舜天という人が王様になったと言われる、1187年から日本に完全に滅ぼされる1879年までの692年間、独立国家として地球上に存在していました。それなのに、1879年から現在までのたった130年間で、琉球王国の言語である「おきなわ語」は「おきなわ方言」と格下げされ、また良くない言葉として徹底的に弾圧され、今では、ほぼ滅びかけています。しかし、世界の機関である「ユネスコ」は援助の手を差し伸べてくれました。なんと「おきなわ方言ではなく、おきなわ語」だと認めてくれたのです。ユネスコによると「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当」とコメントしました。
つまり、うちなぁや日本ではまだまだ、方言扱いだが、世界は言語として今後あつかうということです。

 これは、大変なニュースです、今年一番どころか、沖縄県が強制設置された1879年以降の歴史でこれほどの大ニュースはないと思います。しかし、うちなぁではほとんど知られていませんし、報道機関もほとんど取り上げていません。悲しくなりますが、しかし、今後のうちなぁの歴史に刻まれる年になったことは事実でしょう。

 この大ニュースを取り上げてくれた報道番組がありました。それはTBSの「NEWS23」という番組です。私の特集を組んでくれて、うちなぁぐちの復興に取り組む比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)さんと、今年の3月に放映されました。全国放送ですので北から南まですべて同じ時間で見れましたが、ちょうど放映された夜の11時に仙台の知り合いからテレビに出てる!と電話がありました。

 私は今年からうちなぁ、また日本の歴史は変わって行くと思うんです。ユネスコが言語として認めたという大ニュースと、昨今のご当地ブームはそれを象徴しているような感じがします。ユネスコは日本のなかに「アイヌ語」、「八丈語」、「奄美語」、「沖縄語」、「国頭語」、「宮古語」、「八重山語」、「与那国語」の八つの言語が存在しそれを登録すると世界に宣言しました。つまり、日本は多言語社会であり、日本のなかには日本語のほかに八つの言語が存在するということです。

 皆さんスイスという国は知っていると思いますが、スイスは四つの公用語があるということはあまり知られていないのではないでしょうか?日本の公用語は日本語の一つだけです。これでは、残りの八つの言語を話す人たちを差別することになります。早く日本のなかに日本語を含め九つの言語が存在するという事実を認め、またそれを学校教育で教える世の中になることを切に願いたいと思います。そう出来ることによって日本は本当の意味で国際的な社会になり得るのです。
今回で最後になります。今まで読んで下さって御拝(にふぇー)でーびる。




写真について
 NEWS23の取材班が私の担当しているラジオ番組「ラジオ沖縄・民謡の花束・ピリンパラン日曜日」を取材している模様。相手のアナウンサー、屋良悦子さんも一緒に。


text:比嘉光龍



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紅茶の島のものがたり vol.13 冨井穣

2009年06月26日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第13話



たかが紅茶、されど紅茶



 緑茶の加工が減点法なら、紅茶は足し算、もしくはかけ算に例えられる。
 茶葉を摘み取った後、緑茶ではそのうま味成分を保持するために「蒸し」「揉み」「乾燥」といった作業を行うのに対し、紅茶は茶葉中の成分を「発酵」させて特有の風味や香りを作り出す。
 紅茶加工の大まかな流れとしては、
①萎凋(いちょう)
②揉捻(じゅうねん)
③発酵
④乾燥
 というのが一般的な工程である。
 萎凋とは訓読みすると、萎(な)えて凋(しお)れること。茶葉を日陰干しするか温風に当ててナヨッとさせ、水分量を減らす。水色と香りを出すために重要な作業である。
 次の工程は揉捻、つまり茶揉みである。葉を揉んで傷をつけ、細胞組織を破壊する。葉の中の酸化酵素を含んだ成分が空気に触れると、徐々に発酵が始まりふんわりと香りが漂ってくる。
 その後、温度と湿度を一定の条件にコントロールした部屋に2、3時間放置して発酵を促進。そのままでは引き続き化学変化が起こるため、ころ合いを見計らって高温熱風に当て発酵を止め、荒茶のできあがりである。
 つまり紅茶とは、この4つの工程の組合せによってさまざまな風味や香り、水色を引き出すことができるわけだ。これだけ聞くとなんだかとても簡単そうに思えるが、1分1秒の差で紅茶の味は大きく変わる。同じ品種でも生育状況や年によって茶葉の状態は均一ではないだろう。
 山城が根角の下で学んだのも、その細かい調整方法だった。根角は紅茶の作り方をひと通り教えてくれはしたものの、当時は確立した方法論はなくいろいろなことがまだ手探りの状態。つまり、紅茶を作ることはできても、果たしてそれがその品種にとって最適な加工法であるのか、どのような根拠に基づいて加工内容を決めるのか、系統立てて説明できる段階にはいたっていなかったのである。
 そこで2人が目指したのは、今ある茶葉を使って世界3大紅茶の味に近づけること。ダージリン、ウバ、キーマンのような味を作るにはどのような手順を踏めばよいのか、その方法を探すことだった。とはいえ、
「萎凋一つとってもいろいろなやり方があります。紅茶関係の書籍などを見ると、“温風に当てて水分含有量を半分近くまで減らす”などと書かれていますが、それでは温風はどれくらいの温度や強さにすればよいのか、水分を減らすのは急速に行うのか時間をかけるのか、その具体的な方法までは分からない。そうなると、4つの工程それぞれについていろいろなパターンが考えられるから、紅茶の加工法には無数の組合せが生じることになります。紅茶の製造技術を確立するには避けては通れない道なので、試験場ではひとつ一つの工程を地道に確認する作業を行っていました。もちろん沖縄で加工する場合を想定し、ふぞろいの芽を使ったりしながら、シミュレーションしていました」
 このときに行ったさまざまな試みが、後に山城紅茶誕生の大きなきっかけとなる。
 さて、今でも山城は根角を恩師として敬愛してやまないほど、すべての研究において多くの示唆を受けた。所属していたのは育種研究室。品種を扱うということは、栽培方法はもちろんのこと、その加工法から実際の味まで知らなければならない。茶農家である山城にとって、そんな研究室のスタイルも肌に合っていたようだ。
 一方で、根角の話を聞いていると、山城のひたむきなようすが目に浮かんでくる。根角は当時のようすについて、
「山城君に限らず、沖縄など南日本の生徒がいれば、気候が適しているから紅茶をやったらどうかと勧めていました。紅茶の作り方も全員にひと通り教えていましたが、将来の仕事とかかわりのある生徒はほとんどいないからまるで興味を示さない。それを山城君は、ほかの生徒が聞き流すような話の細部までしっかり覚えていて、いま実践しているのだから、私としてはうれしい限りです」
 山城君とは飲み仲間。彼は熱く語るタイプだから、酒の場でもいろいろな話をしたかもしれませんね、と振り返る。そして、
「山城君が卒業研究のテーマに選んだのが、『これからの沖縄茶業について』。私の研究室は育種専門だから理系的な内容でまとめる生徒が多いのですが、彼の卒論はいわば文系的。緑茶や紅茶などひとつ一つの課題について自分なりの考察を述べたもので、彼らしいユニークな卒論だったと思います」
 そこで挙げられていた課題とは、取りも直さず山城が沖縄へ戻ってから調査しようと考えていたものばかり。今でも山城は、それぞれのテーマに優先順位を付けて確認作業を続けている。
 こうして2年間の研修生活を終えた山城は、これからの沖縄茶業を再生すべく、意気揚々と故郷へ帰って行った。




写真は久しぶりに現在の茶園から。この日は地元中学生の職場体験があり、摘み取った茶葉を1時間以上かけて揉んでいました。




text:冨井穣



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オキナワ写真日記 vol.13 大湾朝太郎

2009年06月25日 | 木曜(2009年4~6月):大湾 朝太郎さん

一合瓶ライブ!!


泡盛を飲みながら、新井幸人さんたちが奏でる唄を楽しもう~と言うことで
第19回一合瓶ライブに行ってきました。
劇場の入り口で八重山の島酒「白百合」を頼んで、独特の臭みのある白百合を
片手にライブ楽しんできました。


1 幸人ニィニィです!!やっぱりカックいいでした。




2 やちむんさんです、ゆるく気持ちのいいギターと歌でした。




3 ローリークックさんと幸人さんサンデーさんのセッションかなりロックでした。




4 山口 洋さんとのセッション、二人楽しそうでした。




今年で19回の一合瓶ライブ、自分も幸人さん達とお仕事で一緒になって
初めて知ったのですが、こんな素敵な面白いイベントをいろいろな人に
知ってもらいたいなぁ~と思います。

写真見て興味をもったら来年の第20回一合瓶ライブに集合しましょ~!!



text:大湾朝太郎



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沖縄在住の料理家から学ぶ「沖縄食材レシピ帖」 vol.13 砂川有紀

2009年06月24日 | 水曜(2009年4~6月):砂川有紀さん
週替わりで、沖縄在住の料理家さん直伝の沖縄食材レシピを紹介するお料理ブログ。
今回はゴーヤーに引き続きオキナワンな夏野菜、ヘチマを使った2品のメニューをご紹介。
ヘチマ料理が手軽にできて、おしゃれにキマリます。

【今回の食材】ヘチマ(ナーベラー)



ゴーヤー同様、沖縄の夏野菜のなかでも人気のあるヘチマ。
全国的にはたわしとして利用されていますが、沖縄では大衆食堂や
家庭の食卓によく登場する食材のひとつ(たわし用と食用では品種が違うらしい)。
化粧水が抽出できるほど豊富な水分を含んでいて、むくみ解消や利尿に効果があるといわれています。
地元でのポピュラーな調理法は味噌煮込みですが、今回はマリネとオーブン焼きに初挑戦!
曲がっていない、細めのヘチマを選ぶのができあがりを左右するほどの重要ポイントです。

【メニュー名】
酸味のきいたドレッシングで味わって
ナーベラーのマリネ



【材料】
ヘチマ…1本、パプリカ、たまねぎ(きゅうりでもOK)…お好みで、ドレッシング(イタリアンなど)…お好みで
【作り方】
1. ヘチマの皮をむき(若いヘチマなら少し残して剥いてもいい)、3mm程度に輪切りする
2. シャキシャキ感を加えるため、パプリカ、たまねぎを薄くスライスする
3. ドレッシングを混ぜ合わせればできあがり。半日ほど冷蔵庫に入れておくとしんなりしてgood!

【メニュー名】
チーズとの相性◎
ナーベラーのオーブン焼き



【材料】
ヘチマ…1本、塩、こしょう、オリーブオイル、パルメザンチーズ…お好みで
【作り方】
1. マリネ同様皮をむいたヘチマを1cm程度に輪切りする
2. 塩、こしょう、オリーブオイルをつけ、200℃に熱したオーブンで片面を3分ずつ焼く
(オーブンがない場合は薄切りにして、オーブントースターかフライパンで調理してもOK)
3. お皿に盛り、パルメザンチーズをふる。お好みでトマトの輪切りなどをのせたり、
バゲットと組み合わせてるのもおすすめ


【今週の沖縄食材エキスパート】
COTONOHA ART SPACE+CAFE (コトノハ アートスペース+カフェ)
住所/宜野湾市赤道1-5-7
TEL/098-893-7299
営業時間/Open 14:00~23:00、カフェタイム 14:000~18:00、
ディナータイム 18:00~23:00(オーダーストップ 22:00)
定休日/月曜日
オフィシャルサイト
http://www.cotonoha.com/
ブログ
http://cotonoha.ti-da.net/





那覇市から国道330号を北上すると宜野湾市にある、食とアートの融合スペース、COTONOHA。
味噌煮込みしか食べたことのない私には、驚きの(いつも食べてるナーベラーと
明らかに違う!)料理に、統一感のある家具に、
バランスよく配された植物たちに、
色彩豊かなイラストレーションが飾られた壁…
そしてフレンドリーな笑顔でもてなしてくれる西村さんとミッチェルさんコンビ。
五拍子そろいのカフェです。



text:砂川有紀



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ミツが観るクリエイター達とその生活 vol.13 吉見綾子

2009年06月23日 | 火曜(2009年4~6月):吉見綾子さん
ゆみちゃんとお昼を食べに行く。
場所は意外にも嘉手納だった。



嘉手納の商店街を抜けた所にその店はある。
涼しくて、かわいい外観。看板はゆみちゃん作。
でもここはおいしい餃子を出す店なのだ。
おかみは福岡出身。ハーリー(沖縄の船レース)好きで、ピリッとしているけれど、元気でくったくない人柄のせいか、地元のお客さんが多いと聞く。ハーリー前のこの時期は、練習時間によって、お店が開いたり、閉ったりするそうだ。



私達がたのんだ水餃子と春巻きのセット。
本当においしかったし、おなかいっぱい食べた。こんな「たべなさいっ!」て感じのお店が私は好きだ。
そして、ゆみちゃんと久しぶりにいろんな話をした。私もなつかしく思い出すことがあるほど、沖縄に住んでいるなあと実感。



さてさて。。。
ゆみちゃんのお店「SHANTI SHANTI」のあるコザの街。奥の奥までは知らなくても、ちょっとでも散歩すると、何というか、コザの時空をを味わえておもしろい。



これは、コンクリ壁にじか描きの看板。住みはじめた頃、これを見つけては、「ここはアジアだ!」と思ったもんだ。



アーケードがモグラの穴のように広がっている。これは入口のひとつ。

 

 

このアーケードの中はドコカの世界。ひっそりとたたずむこの「繁華街」に、JAZZBANDの生音が聞こえてきたかと思うと、そのむこうでは「星影のワルツ」が大音量でかかっていた。



ひとつの通路を抜けると、そこには、沖縄、コザを愛するヨーガン・レールさんの店が昔からたっている。

 

そして、そのななめ向かいにには、ゆみちゃんおススメの「丸仲食堂」。
特におすすめは、「カツB定食」。650円。この値段で、なんと味噌汁は赤ダシで、前に食べた時はアサリが一個入ってた。泣けた。



「商売のために、脈絡なく広がった街だから、住宅地に今も赤線があったりして、そのカオスがおもしろいんだよ」とゆみちゃん。今度はもっと奥まで探検したいと思った。

最後にZAZOUで焼きたてのパン買って、農連市場で野菜買って、照屋楽器店でギターの弦を買って帰りました。

むうっとする「におい」のする、不思議な雨の一日でした。



text:吉見綾子



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ハイサイ!! うちなぁぐち vol.13  比嘉光龍

2009年06月22日 | 月曜(2009年4~6月):比嘉光龍さん



 今回は「うちなぁぐち(おきなわ語)」と「うちなぁやまとぅぐち(おきなわ日本語)」の違いついて書きたいと思います。その違いをわかりやすく表にしてみました。



 これを見て驚かれた方もいらっしゃると思いますが、「おじぃ」、「おばぁ」はうちなぁぐちではないんです。「おじぃ」、「おばぁ」と言う言葉は戦前、昭和期に入ってから流行り始めたようです。また、「にーにー」、「ねーねー」と言う言葉はどうやら戦後から使われているようです。いずれにせよ「おじぃ、おばぁ、にーにー、ねーねー」などは、日本語が混じった言葉で、日本語でもないし、おきなわ語でもない言葉で、「うちなぁやまとぅぐち(おきなわ日本語)」と呼ばれるものです。

 戦後日本で、「パパ」、「ママ」という言葉が流行ったことと同じようなことだと考えて下さい。「おじぃ、おばぁ」は日本語を借用して流行っている言葉、「パパ、ママ」は英語を借用して流行っている言葉という共通点があります。
あるサイトの調査では、61パーセントの方が「パパ、ママ」と呼ばせていて、「お父さん、お母さん」と呼ばせる家庭は27パーセントとありました。現在では圧倒的に「パパ、ママ」と言う呼び方が日本の家庭では一般的になっているようです。

 しかし、だからと言って、日本語の教科書や辞書、また日本語を外国人に教える時に「Father」を「パパ」、「Mother」を「ママ」とは訳さないし、また、教えないでしょう。やはり「Father」は「父、お父さん」、「Mother」は「母、お母さん」でしょう。「パパ、ママ」とは俗的なもので、本来の日本語ではないのです。これとまったく同じで、「おじぃ、おばぁ」は俗的に呼ばれていて、本来は上の表にあるように、「おじいさん」を「たんめー(士族)、うすめー(平民)」と呼び、「おばあさん」は「ぅんめー(士族)はーめー(平民)」と呼びます。「おじぃ、おばぁ」は言語的に分類すると「うちなぁやまとぅぐち」と言えるんですね。

 二つの言葉を比べてみると、「うちなぁぐち」には敬語があり、「うちなぁやまとぅぐち」にはほとんど敬語がないと言え、それが二つの言葉の大きな違いだといえるんです。
その証拠に表5番の言葉「だからよー」を例にあげてみましょう。これは敬語に直せません。強いて言えば「だからよーですよね」と語尾に「ですよね」という日本語をくっつけることしか出来ないのです。ただ、「だからよーですよね」とはまず言わないのですが。

 その「だからよー」をうちなぁぐちに直すと「やくとぅよー」と言います。「やくとぅよー」は、友達や年下に使う言葉ですが、それをうちなぁぐちならば、いくらでも敬語に直すことが出来ます。まあ普通の敬語ならば「やいびんやー」で良いのですが、もう少し丁寧に言うのならば「あん、やみしぇーびんやー」と言えます。同じく他の言葉も「うちなぁやまとぅぐち」は敬語に直せず、うちなぁぐちはすべて敬語に直せます。

 わかっていただけましたでしょうか?「うちなぁぐち」は言語なので、丁寧語、謙譲語、敬語など、すべて存在します。しかし、「うちなぁやまとぅぐち」には、それらはほとんどありません。
「うちなぁぐち」は学校、県庁、市町村役場、テレビのニュース、県や市町村議会、警察、裁判所、国や県や市町村の機関などの公的機関では話すことは出来、また教育をすることも可能ですが、「うちなぁやまとぅぐち」をこれらの機関で使用するというのは、まず、ありえないと言えると思います。

 少し学問的なことも書いておきますが、「うちなぁやまとぅぐち」は言語学では「ミクストランゲージ(Mixed Language)」と分類されるようです。言語学で「ミクストランゲージ」とは「スラング(俗語)」と同じような言葉だと定義されていているようです。それをもう少しくだけて言うと「タメぐち」のようなものだと思って下さい。仲間うちで使う、仲間だけしか知らない言葉のようなものです。それは、目上の人や学校の先生などには使えないし、ましてや、「だったばー」とか「違うやしー」と言う言葉を、学校の教科書に載せて子供たちに教えたいと思うでしょうか?

 うちなぁやまとぅぐちは、ほとんどタメぐちなので、同級生同士で話をしていると、とても楽しいでしょうが、それを学校の先生、また、会社に就職し、そこの社長さんへ、また怖い上司へ使うなどと言うのはありえないんですね。








※写真について
 私の担当しているラジオ沖縄の番組「民謡の花束・光龍ぬピリンパラン日曜日」ですが、土曜日も民謡の花束はやっていて、そのパーソナリティーの「当銘由亮・新垣小百合」のコンビとスペシャルということで私は土曜日にゲスト出演し、二人は日曜日にゲスト出演してもらいました。ゆんたくが大盛り上がりで、私が演出、脚本をした「仲島ぬ吉屋」という題の短い芝居を、写真のメンバー5人で日曜日の3時の時報とともに20分ほどやりました。皆、芝居のプロなので、初めてとは思えないほど、とても素晴らしい出来でした。リスナーからの反響が良かったです。1枚目の写真の前列右が「新垣小百合」左が「藤田佳子」後列右が「高宮城実人」後列中央が「当銘由亮」で後列左が私。2枚目、3枚目の写真はちょうどそのお芝居を生放送で演じている所、皆、真剣です、はい。



text:比嘉光龍



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紅茶の島のものがたり vol.12 冨井穣

2009年06月19日 | 金曜(2009年4月~):冨井穣さん
第12話


茶園の友は酒飲み仲間

 

 山城は1999年入所の第41期生。1990年代といえば茶業界にとって大きな変革の時代に当たり、家庭で消費される緑茶が減少する一方で缶やペットボトルの茶系飲料が増加し、大規模機械栽培へと生産体制が変化し始めたころである。例えば緑茶飲料の生産量は、1991年から2000年までの10年間で約10倍にまで成長し、現在は国内の緑茶消費量の約2割を占めている。

 世の中に目を移せば、90年代はいわゆる「沖縄ブーム」の黎明期。ブラウン管では沖縄出身のアーティストの音楽が毎日のように流れ、沖縄を訪れる観光客や移住者は年を追うごとに増加。九州沖縄G8サミットが開かれたのが2000年、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」が放映されたのがその翌年である。

 そんな時代背景も手伝って、山城は「沖縄出身」というだけで学内でも周囲の茶農家との間でも話題に事欠かず、人一倍交流を深めることができたそうだ。逆に30年ほど前は、大阪や横浜で沖縄人街が形成され、沖縄出身者に対する差別や偏見があったというのだから、実に恵まれた境遇だったと言えるだろう。

 そして山城の交遊を語るとき、切っても切れないのが「酒」である。山城の同期生に当時の印象を尋ねると、酒にまつわる逸話が幾つも飛び出してきて興味深い。現在は福岡県で茶販売店を営む原口隆文は「暇な時間があれば本を読んだり機械をいじってテストしたり、とても研究熱心でした」とお茶に対するどん欲な姿勢を評価する一方で、「夜は毎晩のように付き合わされました。実際は僕が年上なんですが、山城君のほうが10歳以上年配のような雰囲気がありましたね」と振り返る。京都で茶問屋に勤める西村公助も同様の感想を持つ。「山城のイメージといえば酒。同期の間では“おっちゃん”の愛称で通っていた」。

 2年次の研究室選びも酒飲み話が絡んでいる。1年次からあちこちの研究室に顔を出し、紅茶に造詣が深い担当教官に付くことを決めていた山城は、紅茶研究を進めるに当たり発酵工程が必要なウーロン茶の研究もしようと考えていた。そんな折、西村が研修終了後に中国へ留学する予定であることを知り、「中国といえばウーロン茶でしょう」と説得。西村をウーロン茶研究担当になるよう仕向けることに成功したのである。
 こうして晴れて二人は「育種研究室」へ進学。担当教官の根角厚司(現・野菜茶業研究所枕崎茶業研究拠点代表)に師事し、それぞれ紅茶とウーロン茶を専門に研究に着手した。

 育種研究室とは名の通り、メインの研究テーマは茶品種の開発で、例えば対病性や対虫性、多収性、耐寒性、味といった異なる特性を持った品種同士を掛け合わせ、新品種を作ることなどを行っている。ただし国立茶業試験場の基本姿勢として、お茶にかかわるありとあらゆる研究を自由に行える仕組みがあり、師匠の根角もそれを認めていた。

 また何と言っても、紅茶づくりの知識と技術を持っている研究員は、施設内に根角一人しかいなかった。過去最高の紅茶輸出量を記録した昭和30年代、牧之原周辺の茶農家はほとんどが紅茶生産を行っていたにもかかわらず、である。今でこそ「国産紅茶」を作る動きは全国あちこちで少しずつ表れているが、根角の技術を受け継ぐ山城のような人物がいなければ、日本の紅茶づくりは過去の遺産に成り下がってしまったのではないか。
「根角さんには紅茶の可能性を含め、沖縄の茶業に関することは何でも話し、できる範囲のことは何でも行いました」
 と山城は述懐する。紅茶に関しては、
「基本的な加工方法を確認した後、沖縄の生葉条件に近くなるよう芽の成長が違う生葉を収穫し、それで紅茶加工をしてみたり、発酵時間が味にどれくらいの変化をもたらすかを調べたりと、まあ、いろいろです」

 細かい実験方法などについては次稿に譲るとして、ここでは話を進める前に、同期生二人の山城紅茶に対する感想を紹介しておこう。
 茶販売店の原口は「緑茶のような紅茶、という印象がある。紅茶は世界的に見て、ミルクや砂糖を入れて飲むことが圧倒的に多い。それを日本人の嗜好に合わせて、緑茶同様、何も加えず飲めるよう味や香りを工夫しているのではないか」と話す。そして茶問屋の西村は「沖縄と地理的に近い台湾では昔から、半発酵茶のウーロン茶が主流。それを考えると山城のやっていることは理にかなっている」と気候上の利点を挙げ、「いま国内で紅茶づくりを行っているのは緑茶農家がほとんどで、二番茶や三番茶は高く売れないから“国産紅茶”というブランドを付けて出荷するケースが多い。でも山城は専業の紅茶農家ですから、味、品質ともに国産紅茶としては間違いなくナンバーワンでしょう」。

 彼らは今でも頻繁に連絡を取り合うなど交流があるそうだが、大の男同士が茶(と酒)を酌み交わし、あれこれウンチクを言い合っている光景を想像すると、思わずニヤリと笑みがこぼれてしまう。(文中敬称略)



※写真は研修生寮と授業の様子(独立行政法人・農研機構野菜茶業研究所提供)



text:冨井穣



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オキナワ写真日記 vol.12 大湾朝太郎

2009年06月18日 | 木曜(2009年4~6月):大湾 朝太郎さん

ハコニワ


自分のオススメのカフェを紹介します。
本部町字伊豆味にある「Cafe ハコニワ」です。
写真からハコニワの空気感を感じてもらえたらうれしいです。











ハコニワの縁側から見える風景と中から見える風景です。
気持ちいい店ですが、特に縁側に座ってボーとすると気持ちいいです。

少し眼を凝らすとこんな感じでいい風景に出会えます。


text:大湾朝太郎



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沖縄在住の料理家から学ぶ「沖縄食材レシピ帖」 vol.12 砂川有紀

2009年06月17日 | 水曜(2009年4~6月):砂川有紀さん
週替わりで、沖縄在住の料理家さん直伝の沖縄食材レシピを紹介するお料理ブログ。
今回は、もやし、ではなく、もやしが生えてくる前のもやし豆(別名は緑豆)を使った
ぜんざいを紹介します。
【今回の食材】もやし豆(緑豆)



発芽した芽を「もやし」として食べる緑豆。
日本本土では豆の部分を食べることはあまりないようですが、
たんぱく質の豊富な食べものとして注目されている豆類のなかでも
緑豆は体のだるさや食欲不振の軽減、ほてりをとる作用などがあるといわれ、
漢方薬にも使われるヘルシー食材。
中国では春雨にしたり、インドあたりではペースト状にしたりとアジア各地では
いろんな食べ方がありますが、沖縄では黒糖で甘く煮た、お汁粉のようなものを「あまがし」とよび、
旧暦の5月4日(ユッカヌヒー)と5月5日(グングワチグニチ)に子供の健康を願って食べる風習が
残っています。
戦前は「勝負」にかけて、ショウブの葉をスプーンのように使って
食べていたそうです。
控えめな甘さと押し麦のとろみが特長で、小豆ぜんざいとはひと味違った風味が楽しめますよ。

【メニュー名】
緑豆と押し麦のあまがし



【材料】
緑豆…1カップ、押し麦…3分の1カップ、水…7カップ、黒糖150g、
グラニュー糖…100g、白玉粉…50g、塩少々

{豆を煮る}
1. 鍋に入れて約3時間ほど水(分量外)に浸しておいた緑豆を火にかけ、
泡状のあくが出てくるまで煮立たせる
2. 火を止め、ゆで汁を捨てた緑豆と押し麦を洗い、弱火で30分ほど煮る
※店では押し麦、緑豆を別々で煮ているが、一緒に煮てもOK

{白玉だんごを作る}※豆を煮ている間に
1.白玉粉に耳たぶ程度の柔らかさになるくらいの水(分量外)を加え
だんごを作る
2.沸騰したお湯の中にだんごを入れ、浮かび上がってきたら、
中まで火が通ったのを確かめてからすくい出す
{盛りつけ}
豆の煮汁に黒糖、グラニュー糖を入れ、白玉だんご加えて、
好みで塩をひとつまみ入れてできあがり。
※しょうがのしぼり汁を入れることもある


【今週の沖縄食材エキスパート】
てんtoてん
住所/沖縄県那覇市識名4-5-2
TEL/098-853-1060
営業時間/ 11:30~15:00
定休日/月曜日





ツタの葉にびっしり覆われた建物が目印の沖縄そばの店「てんtoてん」。
木の灰汁の上澄み液で作る、昔ながらの手打ち沖縄そばと
ちょうどよく冷えたあまがしがセットで味わえます。



text:砂川有紀



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