荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『キャロル』 トッド・ヘインズ

2015-12-14 23:01:44 | 映画
 本作の監督トッド・ヘインズは、サブカルチャーと心中するのかと思っていた。そして、それもいいのではないかとも思えた。しかし、果たして今回の新作『キャロル』ではサブカルチャーと戯れるのをやめて、事の本質と向かい合おうとしているのだろうか。
 そのヘインズがこんなことを言っている。「『エデンより彼方に』の時は、時代そのものより、映画の中の1950年代に興味があった。現実の50年代ではなく、ダグラス・サーク監督のメロドラマに強い興味があったんだ。当時のコネティカット州ハートフォードの人たちが実際にどうだったかはどうでもよくて、登場人物にはロサンジェルスのバックロット(撮影用野外セット)から出て来たように見えてほしかった。『キャロル』は違う。…当時のニューヨークは戦後から抜け出したばかりで、さびれてすすけた汚い町だった。ダグラス・サークの映画にある、キラキラしたエナメルを塗ったようなコネティカット郊外とはまったく違う。」
 ようするに、オマージュに血道をあげるのではなく、リアリズムの追究への移行である。たしかに、あからさまにサークの映画から抜け出してきた『エデン~』のジュリアン・ムーアのような登場人物を、今回の新作『キャロル』で見ることはない。しかしだからといって、トッド・ヘインズがリアリズム作家に突然変異するわけではない。彼は今なおロマンティシズムの作家であり、1950年代アメリカ映画への愛から今なお去ろうとはしていない。ニューヨークの街並みのオープンセット。デパートや邸宅の装飾。家具の配置。退屈した人妻の部屋に掲げられた雑誌や小説。2人のヒロイン──ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラ──の衣裳。ブランシェットのあざやかな口紅。腰の下で回り続けるレコードプレーヤー。ライカやコンタックス、ローライではなく当時はまだ新興だっただろう敗戦国製キヤノンのカメラ。煙草を吹かしながら運転する流線型の自動車。スーツケースにしのばせた銀色に光るピストルなど……。この愛を、どうして消し去る必要があるのか。
 非米活動委員会についてそれとなく言及されているように、作品は1950年代初頭の赤狩りの時代を記憶に留めようともがいている。作品の主題は、2人の女が目覚める同性愛だが、彼女たちの受難が告発する保守的社会は当然、この赤狩りとも織り重なってくる。閉塞した空気を見せることが、最も重要なテーマである。そして、その閉塞からの解放も。解放の動力源は、2人の女たちの体格差である。みごとなブロンドヘアーをなびかせつつグレーのスーツに身を包んだグラマーな人妻役ケイト・ブランシェットの大柄な身体。そして、写真への愛と鬱屈を抱えこむ東欧系移民の娘ルーニー・マーラの華奢な身体。この高低差が生み出すダイナミズムによって、映画はひそやかに、禁忌的に活気づいていく。


2/11(木)よりTOHOシネマズみゆき座(東京宝塚劇場 地下)ほか全国で公開予定
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