小栗康平は日本を代表する国際派の映画作家であるが、ご存じのように日本国内のシネフィルのあいだではすこぶる評価が低い。蓮實重彦の評価によって貶められた犠牲者のひとりである。小栗の作風を見れば、その貶めは理解できるというのが正直なところである。シネフィル層ばかりでなく、『映画芸術』系からも『映画秘宝』系からも評価されないだろう。だからといって見ずに済ませてよいというものでもない。小栗=ダメという定式をやみくもに信じることほどドグマティックな退廃はない。
10年ぶりとなる新作『FOUJITA』は、画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の伝記映画であるが、「伝記」の部分を「伝奇」と書き換えたいぐらいだ。街景、人間、田園…そうした現実の事象がすべてフジタのフィルターを通して写され、奇妙な活人画の様相を呈する。
映画は、1920年代のパリで画壇の寵児となるフジタと、戦時下の日本に戻り、陸軍の注文に応じて戦争画を描く藤田、という二部構成となっている。特に前半のパリ編が面白い。どうにも映画的アクションセンス、デクパージュの感覚に乏しいのが小栗康平の欠点であるが、その代わりに女の裸体を奇妙な即物性でとらえる力がある。マン・レイの愛人でナイトクラブの有名な歌手キキ、フジタの妻となったユキ・デスノス=フジタなど、モデルたちが恥じることなく人前でさらす乳房と陰毛。これらをフルショット(全身大サイズのショット)でとらえた時、物質的、即物的な殷賑が生じるのだ。これはかつての『死の棘』(1990)における松坂慶子の裸体のとらえ方と同じである。
エコール・ド・パリの連中がヌードモデルらと共に深夜の居酒屋で催す乱痴気騒ぎ、キキのナイトクラブでのパリの街への愛を捧げたショー、そして「Soirée Foujita」(フジタの夕べ)というタイトルで開催されたアートイベントでの花魁道中のパロディ、さらにそれに被さる佐藤聰明によるやたらとペシミスティックな弦楽など、こういうことをやる人は今どきいないのではないか。画面の中だけで映える存在。カメラの前でポーズを取り、しなを作るフィギュレーション。フェリーニが生き返ったかのようだ。けなす方が簡単だが、私はというと、こういう試みを今どきやってみせる70歳の映画作家の心意気は嫌いではない。
角川シネマ有楽町(東京・有楽町ビックカメラ上)ほか全国で順次公開
http://foujita.info
10年ぶりとなる新作『FOUJITA』は、画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の伝記映画であるが、「伝記」の部分を「伝奇」と書き換えたいぐらいだ。街景、人間、田園…そうした現実の事象がすべてフジタのフィルターを通して写され、奇妙な活人画の様相を呈する。
映画は、1920年代のパリで画壇の寵児となるフジタと、戦時下の日本に戻り、陸軍の注文に応じて戦争画を描く藤田、という二部構成となっている。特に前半のパリ編が面白い。どうにも映画的アクションセンス、デクパージュの感覚に乏しいのが小栗康平の欠点であるが、その代わりに女の裸体を奇妙な即物性でとらえる力がある。マン・レイの愛人でナイトクラブの有名な歌手キキ、フジタの妻となったユキ・デスノス=フジタなど、モデルたちが恥じることなく人前でさらす乳房と陰毛。これらをフルショット(全身大サイズのショット)でとらえた時、物質的、即物的な殷賑が生じるのだ。これはかつての『死の棘』(1990)における松坂慶子の裸体のとらえ方と同じである。
エコール・ド・パリの連中がヌードモデルらと共に深夜の居酒屋で催す乱痴気騒ぎ、キキのナイトクラブでのパリの街への愛を捧げたショー、そして「Soirée Foujita」(フジタの夕べ)というタイトルで開催されたアートイベントでの花魁道中のパロディ、さらにそれに被さる佐藤聰明によるやたらとペシミスティックな弦楽など、こういうことをやる人は今どきいないのではないか。画面の中だけで映える存在。カメラの前でポーズを取り、しなを作るフィギュレーション。フェリーニが生き返ったかのようだ。けなす方が簡単だが、私はというと、こういう試みを今どきやってみせる70歳の映画作家の心意気は嫌いではない。
角川シネマ有楽町(東京・有楽町ビックカメラ上)ほか全国で順次公開
http://foujita.info