荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『パージ:アナーキー』 ジェームズ・デモナコ

2015-08-11 20:06:12 | 映画
 第1作『パージ』から連続公開となったシリーズ第2作『パージ:アナーキー』。この両作品、東京ではTOHOシネマズ日劇でのイブニング興行という異例の公開方法をとっている。
 未来のアメリカでは経済破綻によって国家が壊滅し、「新しいアメリカの建国者たち」なるファシズム団体が統治しており、圧政のガス抜きとして1年に一晩だけ、殺人をふくむあらゆる犯罪が合法化され、この一夜は「パージ(粛清、一掃)」と名づけられている。しかしながら前作『パージ』はこの設定に負け、足腰の弱い監禁スリラーに終始した。素人のような演出、批判精神の効いていない諷刺。まさに猛省を促すという気分で、私は本作『パージ:アナーキー』の上映に臨んだ。
 結果としては、前作とは比べものにならないくらいにいい。ゲーム感覚にとどまるとはいえ、西海岸のダウンタウンの大通りや路地、広場、たくさんの家庭、上流階級のつどう殺戮パーティイベントなど、空間がダイナミックに書き換えられ、登場人物が恣意的にどこかへ消えて行くといった無造作な動きでごまかした前作とはちがい、彼らの動きがサスペンスになっている。
 主人公たちがいかにして一晩の危機を逃げ切るかというサバイバルゲームに終始せず、真の敵は目の前の殺人鬼と化した隣人たちではなく、そのシステムそのものであり、彼らにプレイ・ザ・ゲームを宣言した「新しいアメリカの建国者たち」であるという、この当然すぎる目線にようやく向かっている。この『パージ:アナーキー』では、カルメロ・ジョーンズなる、未来版マルコムXが暴力革命をインターネットで呼びかけ、作品の後半で事態を攪拌して回る。
 スター不在のこのシリーズで、前作の登場人物は一掃され、引き継がれる者はいないが、前作の黒人の闖入者の顔が第2作でも見られたのはよかった。『ハンガー・ゲーム』の不埒な点は、興行の維持に執心するあまり、価値転覆の物語がむやみに引き延ばされていく点だ。サーガという興行形態は、キャラクターの自明性の上にあぐらをかいてすぐに退廃するので、私たち観客側が厳しく監視しなければならない。


TOHOシネマズ日劇(東京・有楽町マリオン)ほかにて上映
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『チャイルド44 森に消えた子供たち』 ダニエル・エスピノーサ

2015-08-08 01:16:00 | 映画
 アメリカ映画において、アメリカの敵国としてのソビエトではなく、単にジャンルムービーの舞台としてのソビエトが登場する時代がついにやってきた。本作『チャイルド44 森に消えた子供たち』は、スターリン政権下のモスクワで働く国家公安当局のエリート捜査官(トム・ハーディ)を主人公とするスリラーである。彼らの仕事はおもに思想犯の粛清である。時には同僚を逮捕し、時には愛妻の職場にも疑いの目をむける。
 しかし、思想犯への弾圧とは打って変わって、「社会主義という理想的ユートピアにおいて、殺人など起こるはずがない」という政府の方針にのっとり、普通の犯罪に対する捜査はじつに手ぬるいことになっている。子どもをねらった虐待殺人事件が連続して起こっているのに、当局は単なる事故死として処理する。これを「事故ではない」と主張することは、そのまま国家反逆罪となってしまうのだ。
 なぜ、このような作品が登場したのか? ──ひとつには、原作小説の3部作がベストセラーとなったこと。もうひとつには、すでにソ連という国家への恐怖感、アレルギーが、冷戦終結から四半世紀たってすっかり薄れたこと。さらに、現代のあらゆる社会がブラック化しているなかで、主人公たちの感じるストレスが観客にとっても「身に覚えのある」事柄であること(フランスのネオナチ政党「国民戦線」の党首が、安倍政権への憧憬の念をはばかりなく語る現在、日本もネオ・ファシズム化社会の代表例となりつつある)──といった背景が考えられる。
 ソ連という異境を扱いつつも、この作品がいいのは、あくまでもアメリカ映画である点だ。そしてアメリカ的フィルム・ノワールにありがちなこととして、事件のあらましが理解しづらい。主人公の妻が思想犯の嫌疑をかけられ、彼女をかばった彼もトバッチリを受けて、地方都市へ左遷される。あとは左遷と粛清の問題、連続殺人事件の解決、不正をはたらく同僚との決着などが、よくわからないままいっぺんに大団円をむかえる。
 アメリカでは記録的な不入りだったそうだが、このまま消えていくのはもったいない、ぞくぞくするような切迫感をたたえた一作である。「NOBODY」ウェブサイトで、高木佑介さんのより突っ込んだ批評を読める。そちらもご参照いただきたい。http://www.nobodymag.com/


メディアージュ(東京・お台場)など全国各地で続映中
http://child44.gaga.ne.jp

田能村竹田を見る/読む

2015-08-05 13:59:01 | アート
 出光美術館(東京・丸の内)で会期終了した《没後180年 田能村竹田》へ、最終日にすべりこむ。うっかりもいいところで、竹田が控えているのも気づかず、三菱一号館へ3連休にのこのこ出かけ、河鍋暁斎の満員札止めに遭って、むなしく引き下がるなんて馬鹿なことをしていた。暁斎のような「奇想」系の作家よりも前に、竹田をちゃんと受け止めたいというのがわが希望である。
 江戸後期の画家、田能村竹田(たのむら・ちくでん 1777-1835)は、南画の大成者のひとりである。と同時に、理論的確立者であり、規範・総合のストイックな庇護者であった。「南画」とは何かというと、江戸時代に勃興した(おもに山水を中心とする)絵画の流派であり、中国の南宗画を祖とする。中国絵画史には大きく分けて北宗画と南宗画とがあり、北宗画は院体画の流れを汲み、北京の宮中におけるアカデミックな画風である。いっぽう南宗画は、風流な文化の中心である江南地方(現在の江蘇省と浙江省)に栄えた文人画の流れを汲む。江南の文人は学問のほかに、詩、書、琴、絵、茶などあらゆるものに精通していなければならない。だから専門の画工が宮廷ではげしく腕を競って磨いた北宗画にくらべて、南宗画は素人の手すさびである。しかし、そこに南宗画のアドバンテージもある。
 日本では、輸入された南宗画文化をなぜか「南画」と縮めて呼んだ。そこには、南宗画そのものではないという無意識も働いているように思える。拙ブログでもこれまで、私なりのあふれる愛をもって多くの南画の作家に言及してきた。文人画のパイオニアである祇園南海や、最高実力者の池大雅、与謝蕪村、谷文晁といった人々である。彼らの絵を求めて、いろいろな土地を旅してきた。今春、サントリー美術館で《生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村》展が開催されたとき、私は大人気の伊藤若冲そっちのけで与謝蕪村を穴が空くほど眺めてきた。
 2013年秋に改訂版が出た竹谷長二郎 著『田能村竹田 画論「山中人饒舌」訳解』(笠間書院 刊)を読んで、ぜひ拙ブログでも紹介したいと思いつつ、2年が経過してしまった。書評めいた文言をつらねるためには、もう一回読み直さねばならないが、いまは2点だけ言いたい。
 まず、田能村竹田が著した画論書『山中人饒舌』の本文は漢文だが、この文そのものの美しさである。竹谷氏の親切な現代語訳を追うだけでは『山中人饒舌』の魅力は半減である。中国語の分からない私でも、大学受験の一夜漬けで勉強した漢文知識で、一応は読み下せる(竹谷氏は、竹田の漢文には「和臭のそしりはまぬがれない」と序文で書いているが、それもなんとなく分かる)。『山中人饒舌』の刊行は竹田の没年の天保6年。つまり、現代で言うところの追悼出版だ。竹田の漢文の美しさ──そして今回の出光で私が注目したのは、絵だけでなく、書の美しさである。文に長け、書、絵もきわめる。一芸に秀でるだけではダメで、これは中国文人の伝統そのものだ。しかも彼はもともと豊後の藩医であり、儒学者でもあった。医者か儒者というのは、江戸時代の地方インテリの唯一の生き方である。
 もう1点。竹田はおそろしい律儀さで、南画の理論的庇護、カノン作成をおこなっている。作家としてだけでなく、批評家として南画を全霊で擁護しようとしたのだ。ヌーヴェルヴァーグでいえば、『美の味わい』の著者エリック・ロメールを思わせる。あの頑固な映画理論の構築と、選り好み。そしてもちろん、映画の実作者としても節を曲げることは最期までなかった。
 田能村竹田は豊後(現在の大分県)の出身だ。京、大坂、江戸でもない。生まれ育った場所に豊かな山野がひろがるのは、風景画の作者には有利であるし、中国文人との交流という点で長崎にも近い。しかし、芸術を続けるにはマージナルな出自だ。マージナルな立場だからこそ、奇想や逸脱に走らず、かえって頑迷に正道を求めた、ということもあるのかもしれない。

味噌汁についての秘伝?

2015-08-03 11:08:03 | 味覚
 きのうの夜にメールで、オクラの味噌汁について興味深い秘伝を教わった。江戸の味覚を、錯覚と幻想によって生起させる術である。良く言えば、「見立て」とも言える。けさ早く起床し、仕事へ出る前にこの秘伝をためして遊ぶことにした。
 秘伝の名はない。錯覚に過ぎぬものに名を付けても仕方がないから。あえて言えば「どぜう汁もどき」といったところか。
 煮干しでだしを取ったあと、たいていの人は、出がらしの煮干しは捨ててしまうのだろうか? 私はいつも、この出がらしの遺骸をすくい取り、冷蔵庫で冷やしておいて、少々のぽん酢と七味をかけて酒肴にしてしまう。しょせん出がらしなので大してうまくもないが、コンビニで買ってきた「うるめいわし」のパックなどよりはましである。私にとって料理の基本とはつねに酒肴のことである。酒と肴のコンビをどうやって愉しめるかがすべてなのである。カレーライスだのといった料理は、私にはいっさい無縁になってしまった。あれは酒肴にならぬ。

 しかし今回は、煮干しの遺骸をそのまま鍋に残し、きざんだオクラを加えて味噌汁とする。すると、メールによれば「オクラの粘り気と煮干しが相まって、一瞬どぜう汁のイメージを醸し出す」というのである。果たして実行してみると、たしかに食感はどぜう汁を想起させる。味はちょっと違う。どぜう独特の生臭さと骨っぽさがなく、煮干しの苦味が強すぎる。とはいえ、これはこれで成立しているどころか、夏バテ防止にすばらしい料理といえるのではないか。煮干しにはDHAとタンパク質、オクラにはペクチン、βカロテン、カリウムが豊富に含まれる。ところで煮干しをだしにする場合、たいがいアタマと背骨をちぎってから投入するのが普通だが、それをしなかった。その方がいわゆるどぜうの「丸」のグロテスクさを愉しめると考えたからである。
 オクラという単語はその語感に反して、じつは英語であって、テキサス州などアメリカ南部でさかんに栽培されているのは、『インターステラー』でも語られていたとおりである。だが、味といい形状といい、江戸野菜の雰囲気をそなえている。京野菜ほど雅ではない。それにしても、アメリカ人があんなネバネバした野菜を食べられるのだろうか?
 また、今回の実験はオーセンティシティをめざしてはいない。あくまで「もどき」である。最初私は、これで西京白味噌があったらさぞかし雰囲気だろうと考えたのだが、関東地方の一般のキッチンに白味噌なんてまずない。しかもオーセンティックなどぜう汁をつくるなら、他に入れるべき具といったら、ごぼうぐらいだろうか。本物のどぜうならともかく、栄養面を考えると、また食材のバラエティを愉しみたい欲望を考えると、私はごぼうではなく、豆腐とカキ卵を入れた。カキ卵を入れることで、柳川もどきの感覚をも愉しんだのである。

『きみはいい子』 呉美保

2015-08-01 01:41:25 | 映画
 前作『そこのみにて光輝く』が話題となった呉美保監督の新作『きみはいい子』が、前作にも増してすばらしい。『そこのみにて光輝く』の出来は綾野剛、池脇千鶴ら役者陣の熱演に依るところ大きく、佐藤泰志の小説世界へのリスペクトの大きさゆえか、観客は “場末&底辺” パビリオンに入場したような気分も否定できなかった。
 ひるがえって本作『きみはいい子』はリアリズムを基調とする。『そこのみにて光輝く』と同じく北海道で撮影された模様だが、『きみはいい子』の提示する都市空間は、郊外的、公園デビュー的、ショッピングモール的なソフトな抑圧のもとにある。つまり、これは現代日本の一自画像である。学級崩壊とモンスターペアレンツに直面した新人教師(高良健吾)の物語と、女児を虐待する母親(尾野真千子)の物語は、その抑圧と閉塞感で同じ因子を微妙に交換し合いつつ、しかし合流しそうでしない。どこまでもパラレルである。
 私たちはこのパラレルな2つの物語を追いながら、別のストーリーテリングを夢想する。つまり、高良健吾と尾野真千子がアクロバティックな出会いを果たし、まさか恋愛までは始めなくてもいいとしても、ある人生におけるだいじな屈曲として、たがいの苦悩を乱反射させるかも知れない、という要望による夢想である。それは永遠に叶うことはない。そして、その作り手側の判断にまったく違和を覚えない。俳優たちの動き、演出が、『きみはいい子』では条理ある意図と共に成立している。世界観の創造に汲々とした感のある『そこのみにて光輝く』からの、一足跳びの進化で、驚きを禁じ得ない。
 そして、月永雄太のカメラ。映画の前半7割はくすんで陰鬱な色調で、内容が内容だけに、そういう陰鬱な画面設計にしているのか、それにしても暗くてくすんでると思ったのだ。ロケ期間の天候に恵まれなかったかとも邪推した。
 しかし、(詳述できかねるが)ここぞという後半のあるカットの途中で、色調が、体温の上昇を感知したかのように、ぽっと温かみを帯びはじめる。映画全体の画面設計に、ここまで極端なやりかたをとっているのは珍しく思うし、私がカメラと照明で感動したのは、今年では大九明子『でーれーガールズ』、福岡芳穂『正しく生きる』、三木孝浩『くちびるに歌を』、行定勲『真夜中の五分前』、WOWOWドラマの青山真治『贖罪の奏鳴曲(ソナタ)』と、この『きみはいい子』である。


テアトル新宿ほか全国で順次上映
http://iiko-movie.com